1.嘘
コトバ。
人間の言葉。
不思議なものだ。
人間の話を聞いているうちに、レトは、血が与えてくれる知識に助けられて、急速に人間の言葉を身に付けていった。
ほどなくレトは人間の言葉を自在に操り、人間の言葉で思考することが出来るまでになった。
言葉を会得するということは、かれらの思考方法を理解することだった。
人間は自分たちを他の動物とは別物であると考え、同じものを指しても違う呼称を用いる。雄と雌は男と女、前肢を手などと呼ぶ。
道具を使うことの出来る手は、動物と自分たちを立て分ける大事な要素だと思っているようだ。
そして、男女という言葉には、単なる性別を表すだけでなく、それぞれの役割や、上下関係など、人間社会における位置づけまでもが含まれているようだ。クオンたちの話によると、どうやら女は王になれないらしい。ヘーゲのような共和制の国では女が首長になることもあるらしいが、伝統ある王政の国では女の即位は稀で、あまり歓迎されないようだ。
知れば知るほど、人間というのはまったく不思議な生き物だ。
人間は、思考し、それを言葉で伝えることが出来るゆえに、自分たちを他の生物の上に立つ存在だと信じている。そんな人間たちにとって言葉は大切な宝だ。
竜であるレトにとって何より不思議なのは、人間はその宝であるはずの言葉を使って嘘をつくということだ。いくらかれらの言葉に精通しようと、それだけはどうも理解できない。
互いに嘘をつくから信じることが出来ない。本当のことを語っても嘘かもしれないと疑う。
なぜ、そんなややこしい真似をするのか? 人間という生き物に対して、最も理解できない点がそれだった。
嘘と疑いにまみれた人間たち。その中にあって、クオンという人間だけはちょっと違っていた。嘘かもしれないとわかっていながら信じようとする。嘘をつくまいと努力する。嘘をつき、騙すのが当たり前の人間の世界において、それがどれほど大変なことかは、容易に想像がついた。それでもクオンは、己の信念を貫き通す。
そんなクオンは、ちょっとだけ、人間よりも竜に近いかもしれない。
「ノガルドの王宮は今や国軍によって厳重に守られているらしい。宝物庫まで見つからずに侵入するのは不可能だ」
真顔に戻ってクオンが言った。
「ノガルドにはもともと軍隊はなかったんだ。王都を守護する近衛団と、自領の治安を守るために各領主が養っている私兵だけで、軍といえるようなものは存在しなかった。それが、ダングラード公爵の私兵を核にして国中から募った志願兵を加えて国軍を作ったそうだ。今のノガルドはまるで軍が国を支配しているかのような有様らしい。国内のいたるところで軍が睨みを利かせていて、現政権に異を唱えるものは見つけ次第捕縛され、厳罰に処されると聞いた……」
クオンは唇を噛みしめると、火のない暖炉を見詰めた。アガンとダウルドもそれぞれ違う方向を向いて唇を引き結んだ。
沈黙が落ちる。
レトには、人間たちの心の裡を知りようもない。だが、かれらが苦悩していることだけは感じ取れた。
重い静寂を破って、扉を叩く音が響く。
「入れ」
アガンの言葉に扉を開いたのは、双子の娘たちだった。
「クォードさまがお越しです」
人間たちの間に緊張が走る。
アガンが目配せすると、ダウルドが頷いて立ち上がった。
双子のあとについて居間を出て行ったダウルドは、しばらくして戻ってきた。
「書斎にお通ししましたが……それが……」
ダウルドがクオンの耳元でささやく。レトに聞かれまいとしているようだが、レトの耳には丸聞こえだった。
「客人をひとり連れています……それがなんとも……」
「どうした? 何か不審な点でも?」
「口ではなんとも言いようがありません。クォードは安心して大丈夫だと言うのですが……」
「クォードが大丈夫だと言うのなら大丈夫なはずだ。とにかく行こう」
クオンは立ち上がると、レトに微笑みかけた。
「済まない。仕事が出来たようだ。あとは好きにくつろいでくれ」
ダウルドのあとについてクオンが居間を出て行くと、アガンが近付いてきた。
「部屋に案内しよう」
レトは椅子に座ったままアガンを見上げた。
「ひとりで戻れる」
しかし、アガンは、黙ってレトの横に立ったまま動こうとしない。
「吾が邪魔だと言いたいのか?」
訊ねるとアガンは悪びれた様子もなく頷いた。
「有り体に言えば、そうなる。私はまだお前を信じたわけではない。特に、竜だなどというたわごとは」
「どうすれば信じてもらえるのだろうか?」
レトが真摯に訊ねると、アガンは鼻先で嗤った。
「竜の姿を見せてくれれば、嫌でも信じるだろうな」
「ならば、早く吾を愛せと、汝の主人に伝えてくれ」
アガンは目を怒らせて言った。
「我が君をたぶらかすのはやめろ。この私が許さん」
「たぶらかす? 愛を乞うのは、たぶらかすことなのか?」
「いったい何を企んでいる? 殿下に取り入って何をしようというのだ?」
「最初から言っている。吾は竜に戻りたいだけだ。クオンは吾を愛しても構わないと言ってくれた。だから吾は、クオンに期待している。だが、吾を愛してくれるのであれば、別にクオンでなくても構わない。なんならアガン、汝が吾を愛してくれてもいいのだが?」
「なっ……」
アガンは顔を赤くして絶句した。
「やはり、クオンだけなのだな。吾を愛しても構わないと言ってくれるのは……」
レトは溜息をついた。
愛し合うのはたったひとりでいいと魔法使いは言った。だからクオンに期待する。しかし、クオンの言う愛は、なにやら難しそうだった。レトはクオンのことを充分に理解したと思うし、充分に信頼しているつもりなのだが、思いやるには、どうしたらいいのかがわからない。愛するというのが、どういうことかわからないのと同様に、思いやるというのがどういうことか見当もつかない。「相手を思いやる先に愛が生じる」と言うクオンと愛し合える日は遠そうだった。
「わかった……」しばし固まったように立ち尽くしていたアガンだったが、ひとつ頷くと言った。「お前を愛そう。私がお前を愛せば、殿下には手を出さないと約束できるなら」
「汝が? 吾を愛してくれるのか? ありがたい。愛し方を教えてくれれば、吾も全力で汝を愛そう。そうすれば吾は竜に戻れる」
愛してくれさえすれば誰でもよかった。クオンは美味そうで、アガンはあまり美味そうではないが、そんなことは関係ないに違いない。
「では、まず汝のことを知らねばならない。教えてくれ、汝のすべてを」
手を取って期待を込めて見詰めると、アガンは「その必要はない」と冷ややかに言った。
「人の愛には色々ある。そんなものなど必要のない愛もある。そいつを教えてやろう」
アガンはレトの手を握り返してきた。レトを真っ直ぐに見詰める紫色の瞳に、暖炉の上に置かれた燭台の焔が映り、妖しく揺らめいている。
「ただし、今すぐではない。部屋で待っているがいい。今は殿下の許へ行かねばならない。それが済んだらお前の部屋に行く。私がお前に愛を教えてやろう。それを知れば、お前も、私を愛さずにはいられなくなるだろう……」
アガンの薄い唇が笑みを形作った。その唇がレトの手の甲に触れる。唇が、手の甲から腕まで這い上がってくる。レトはその感触にゾクリとした。この感覚は何なのだろう? 不快ではない。かといって心地よいというわけでもない。不可思議な、それでいて、アガンの唇が離れると、なぜかもっと触れていて欲しいと思ってしまった。
「寝床で待っていろ」
アガンが耳元で息を吹き込むようにささやいた。首筋から背中にかけて、なんともいえない震えが走る。竜であったときにはあり得なかった奇妙な感覚。レトは人間の体の不思議を感じた。
レトの手を握りしめていたアガンの手が離れる。手の温もりが遠ざかるのが惜しかった。レトは、離れていくアガンの手を掴み直し、アガンがやったのと同じように、彼の手の甲に唇を押し当てた。
「汝を待っている……」
見上げると、アガンは一瞬固い顔で眉を寄せたが、すぐに冷ややかな笑みを浮かべて言った。
「極上の夜を愉しもう。互いに、な」