第二十七章 仕事のない時間
二月の中旬。
凌は、しばらく工場へ行っていなかった。
最初の数日は、何をすればいいのか分からなかった。
朝、目が覚める。
時計を見る。
以前なら、急いで着替えて、工場へ向かう時間だった。
しかし今は、その必要がない。
布団の中で少し考えてから起きる。
顔を洗う。
朝食を作る。
そして、机に向かう。
最初に日本語を勉強する。
分からない言葉を調べる。
短い文章を読む。
聞き取れなかった表現を何度も聞く。
仕事に行っていたときより、勉強できる時間は増えた。
けれど、時間が増えたからといって、気持ちが楽になったわけではなかった。
いつ仕事に戻るのか。
これからどうなるのか。
そのことは、頭のどこかにずっと残っている。
昼になると、凌は自転車で外へ出た。
海の近くまで走る。
冬の風は冷たい。
工場が並んでいる道を通る。
大きな道路を渡る。
住宅地に入る。
以前は、こういう場所を通っても、あまり気にしていなかった。
工場へ行くための道。
買い物へ行くための道。
ただ、それだけだった。
今は時間がある。
だから、少し立ち止まって周囲を見ることが増えた。
道路の端。
建物の前。
ごみを出す場所。
雪が残っている場所。
人が歩く場所。
自転車が通る場所。
どれも、特別なものではない。
日本で暮らしていれば、毎日目にするものだった。
凌は、海の近くのベンチに座った。
スマートフォンを取り出す。
しばらく画面を見たあと、電源を切った。
何も考えずに海を見る。
仕事をしていたときは、仕事が終わったら寮に戻り、食事をして、勉強をして、寝る。
休日は買い物をする。
時間には限りがあった。
今は、その限りがない。
その代わり、自分で時間を使わなければならない。
凌はそれを、少し不思議に感じていた。
「仕事がない時間」というのは、単純に「自由な時間」ではなかった。
自分で何をするのか決めなければならない時間だった。
寮へ戻る途中、凌は何度か足を止めた。
町の中には、いろいろな仕組みがある。
ごみを集める仕組み。
道路を管理する仕組み。
雪に対応する仕組み。
高齢者が生活するための仕組み。
外国人が暮らすための仕組み。
普段は、あまり考えない。
動いていることが当たり前だからだ。
しかし、一度立ち止まって見ると、
「これは、どうやって動いているのだろう」
と思うことがある。
凌はスマートフォンにいくつかメモをした。
まだ文章にはしなかった。
ただ、
「気になったこと」
とだけ書いた。
寮に戻る。
机の前に座る。
日本語の勉強を再開する。
その日の夜、凌はノートを開いた。
以前なら、そこには仕事の記録を書くことが多かった。
今日は違った。
朝。
日本語の勉強。
自転車。
海。
町。
気になったこと。
それだけを書いた。
そして、最後に一行。
「時間があるなら、周りを見てみる。」
凌はペンを置いた。
まだ、自分が何かを始めたとは思っていなかった。
ただ、仕事がなくなったことで、今まで見ていなかったものを見る時間ができた。
それだけだった。
このときの凌には、それが後になって文章になるとは、まだ分からなかった。




