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侍女のお届け

「成り上がり」と私を殴ろうとした婚約者の鼻が、侍女の額へ届きました

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/09/06

「アデライン・ベルナール。君との婚約は、今夜をもって解消する」


 ハルフォード侯爵家の夜会で、私は当の嫡男から婚約破棄を告げられた。

 ヴィクトル様の腕には、美しい令嬢が手を添えている。エヴァンジェリン・モートン伯爵令嬢。つい先ほどまで頬を染めていた彼女は、今、私とヴィクトル様を交互に見ていた。

 どうやら、何の発表に同伴するのかは聞いていなかったらしい。


「理由を伺っても?」

「私ほどの貴族の隣には、それに相応しい気品が必要だ」


 ヴィクトル様は伯爵令嬢へ目を向けた。


「君は金額だの契約だの、商売の話ばかりだ。侯爵夫人となる女性には、もっと優雅さが求められる」


 彼女の笑みが消えた。褒められたはずなのに、腕に添えた指が落ち着かない。

 背後でマリアが半歩近づいた。主人のために動こうとしている時の、たいへん静かな足音だった。


「お嬢様。転ぶふりをして、頭突きをしてまいります」

「却下します」

「まだ転んでおりません」

「転ぶ前に止めています」


 近くには飲み物を載せた卓があり、銀盆を持った給仕もいる。私はマリアをそのどちらからも遠ざけるように、袖をそっと引いた。


「侍女の躾まで商家流か」


 ヴィクトル様が鼻で笑った。


「ベルナール家が財を築いたことは認めよう。だが、金で歴史も血統も買えない」

「存じております」


 祖父の代まで商家だった我が家には、屋敷より倉庫の方が多い。父が食料輸送の功績で男爵位を賜ってからも、それは変わらなかった。

 冬に領民へ食料を届けたことより、祖先の肖像画の枚数を誇るべきだと言われても困る。


「君を侯爵家へ迎えることは、男爵家にとって名誉だったはずだ。聞き分けよく婚約解消を受け入れたまえ」

「承知いたしました。では、婚姻を前提としていた来期の融資保証も、更新いたしません」


 ヴィクトル様の表情から、緩みかけていた笑みが消えた。


「それは両家の取り決めだ。婚約とは別だろう」

「父が支援したのは、私が嫁ぐ家だったからです」

「脅すつもりか」


 私は首を横に振った。祖父も父も、取り交わした約束を破って商会を大きくしたわけではない。


「今期の契約は履行いたします。来期以降は、通常の取引へ戻すだけです」

「勝手なことを言うな」

「侯爵家の運営へ、商家の娘が口を挟むべきではないのでしょう?」


 返事を待っていると、伯爵令嬢が彼の腕から手を離した。


「融資が必要なほどとは、伺っておりませんでした」

「一時的な都合だ。君が気にすることではない」


 彼女は引き留められる前に一歩下がった。その目が広間の奥にいる父君を探しているのを見て、私は少し気の毒になった。

 ヴィクトル様は、離れた腕より私の方を気にしていた。


「君はいつもそうだ。数字を並べて人を追い詰める」

「婚約を解消するとお決めになったのは、ヴィクトル様です」

「君が侯爵家に相応しい女なら、こんなことにはならなかった!」


 私を妻にするつもりはなく、家の支援は手放したくない。そこだけは、たいへんよく伝わった。


「正式な書面をお待ちしております」

「待て。支援を続けると約束しろ」

「その条件では、父に勧めることができません」


 私はマリアの袖から手を離し、一礼した。

 顔を上げた時、ヴィクトル様が大きく踏み出してきた。


「この成り上がりの娘が!」


 右の拳が引かれる。逃げなければと思ったのに、足が動かなかった。

 黒いスカートの裾が視界を横切った。


 マリアが私の横から、伸びてくる腕の内側へ滑り込む。彼女の手がその腕を外へ押すと、拳は私の頬から逸れていった。

 けれど、大きく踏み込んだ上体までは止まらない。

 ヴィクトル様の顔が前へ出るのに合わせて、マリアが顎を引いた。


 ごつん。


 何も飛ばなかった。卓のグラスも、給仕の銀盆も、その場にある。

 代わりにヴィクトル様が鼻を押さえ、しゃがみ込んだ。


「マリア、怪我は?」

「ございません」


 振り向いた彼女の額が、少し赤かった。私はそこへ手を伸ばしかけて、触れずに止めた。


「赤くなっているわ。痛むでしょう」

「お嬢様に当たるよりは軽微でございます」


 あの拳が自分へ向かっていたのだと思うと、今になって膝から力が抜けそうになった。私がつかみ直した袖を、マリアは引かなかった。


「この侍女、頭突きを……!」


 鼻を押さえたまま、ヴィクトル様が叫んだ。


「しておりません」

「額を出しただろう!」

「顎を引きました。殴られないように」


 マリアは私の前に立ったまま、静かに答えた。彼を見上げていた時より、少しだけ話しやすそうだった。


「では、なぜ私の鼻が!」

「そちらから届きましたので」


 近くで誰かが咳き込んだ。給仕の銀盆が小さく震え、グラス同士が触れ合った。

 私は一部始終を見ていた。マリアは頭を振っていない。ヴィクトル様が踏み込んだ先に、ちょうど彼女の額があった。

 ちょうど、あまりにも都合よく。


「おやめなさい、ヴィクトル」


 ハルフォード侯爵夫人が人垣を分けて進み出た。


「母上、この侍女が私に――」

「見ていました。令嬢に殴りかかったのは、あなたです」


 夫人は彼が指さす先のマリアを見て、それから私へ向き直った。


「ベルナール嬢。息子が大変な無礼をいたしました。侯爵家を預かる者として、お詫び申し上げます」

「母上! 成り上がりの男爵家に、そこまで頭を下げることは――」

「我が家が落ち目だからといって、品位まで失ってよい理由にはなりません」


 ヴィクトル様の口が閉じた。夫人は私へ深く一礼し、姿勢を戻してから続けた。


「婚約解消の書面は、こちらから正式にお送りします。取引のお話は、そのあとで結構です」


 支援を乞う言葉はなかった。困ると分かっていても、息子が言い出したことの責任を引き受けるつもりなのだ。

 私はようやく、肩に入っていた力を抜いた。


「毛織物の取引については、父へ継続を進言いたします」

「お気遣いには及びません」

「気遣いではございません。品物が良いので」


 夫人がわずかに目を見開いた。

 私は男爵家の娘として、商会の娘として、顔を上げた。


「今後は、通常の取引として」

「もちろんです。こちらも、品物でお応えいたします」


 夫人はその約束をしてから、次男のジュリアン様を呼んだ。


「兄を別室へ。医師に鼻を診せなさい」

「兄さん、立てる?」


 ジュリアン様が差し出した腕を、ヴィクトル様は振り払おうとした。けれど鼻から手を離せず、結局、弟に引き起こされることになった。


「離せ。あの侍女が、私の鼻に――」

「兄さんから届いたらしいよ」


 銀盆がまた鳴った。給仕は今度こそ、近くの卓へそっと置いた。

 その向こうで、父君のそばへ戻ったエヴァンジェリン嬢と目が合う。彼女が小さく頭を下げ、私も同じだけ返した。


「参りましょう、マリア」

「はい、お嬢様」


 広間を出ると、ようやく握っていた袖を離せた。マリアは皺になったところを直しもせず、私の顔を覗き込んだ。


「お顔の色が優れません。お休みになりますか」

「そうね。一緒に休みましょう。まず、あなたの額を冷やしてから」


 彼女は額へ触れようとしたが、途中で手を下ろした。


「まだ痛む?」

「わずかに」

「なら、冷やしている間は大人しくしていてね」


 私がその手を取ると、マリアは困ったように眉を下げた。あれほど綺麗に迎え撃った侍女が、主人に手を引かれると大人しくついてくる。


「ずいぶん、ぴったり合ったわね。あなたの額と、あの方の鼻」

「相手の踏み込みが優秀でした」


 後日、私とヴィクトル様の婚約は正式に解消された。毛織物の取引は条件を改めて継続され、窓口にはジュリアン様が立った。

 ヴィクトル様は領地で実務を学ぶことになったという。

 王都ではしばらく、ハルフォード侯爵家の夜会が話題に上るたび、誰かが鼻を押さえた。


お読みいただきありがとうございます。

楽しんでいただけましたら、評価やブックマークで応援していただけると嬉しいです。


侍女マリアのほかのお話は、シリーズ「侍女のお届け」からどうぞ。

https://ncode.syosetu.com/s5964k/

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― 新着の感想 ―
だったら最初から婚約しなければいいのに。 プライド、プライド言うわりには小さい男ですね。 マリアも念願の頭突きが出来て本望でしょう。
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