「成り上がり」と私を殴ろうとした婚約者の鼻が、侍女の額へ届きました
「アデライン・ベルナール。君との婚約は、今夜をもって解消する」
ハルフォード侯爵家の夜会で、私は当の嫡男から婚約破棄を告げられた。
ヴィクトル様の腕には、美しい令嬢が手を添えている。エヴァンジェリン・モートン伯爵令嬢。つい先ほどまで頬を染めていた彼女は、今、私とヴィクトル様を交互に見ていた。
どうやら、何の発表に同伴するのかは聞いていなかったらしい。
「理由を伺っても?」
「私ほどの貴族の隣には、それに相応しい気品が必要だ」
ヴィクトル様は伯爵令嬢へ目を向けた。
「君は金額だの契約だの、商売の話ばかりだ。侯爵夫人となる女性には、もっと優雅さが求められる」
彼女の笑みが消えた。褒められたはずなのに、腕に添えた指が落ち着かない。
背後でマリアが半歩近づいた。主人のために動こうとしている時の、たいへん静かな足音だった。
「お嬢様。転ぶふりをして、頭突きをしてまいります」
「却下します」
「まだ転んでおりません」
「転ぶ前に止めています」
近くには飲み物を載せた卓があり、銀盆を持った給仕もいる。私はマリアをそのどちらからも遠ざけるように、袖をそっと引いた。
「侍女の躾まで商家流か」
ヴィクトル様が鼻で笑った。
「ベルナール家が財を築いたことは認めよう。だが、金で歴史も血統も買えない」
「存じております」
祖父の代まで商家だった我が家には、屋敷より倉庫の方が多い。父が食料輸送の功績で男爵位を賜ってからも、それは変わらなかった。
冬に領民へ食料を届けたことより、祖先の肖像画の枚数を誇るべきだと言われても困る。
「君を侯爵家へ迎えることは、男爵家にとって名誉だったはずだ。聞き分けよく婚約解消を受け入れたまえ」
「承知いたしました。では、婚姻を前提としていた来期の融資保証も、更新いたしません」
ヴィクトル様の表情から、緩みかけていた笑みが消えた。
「それは両家の取り決めだ。婚約とは別だろう」
「父が支援したのは、私が嫁ぐ家だったからです」
「脅すつもりか」
私は首を横に振った。祖父も父も、取り交わした約束を破って商会を大きくしたわけではない。
「今期の契約は履行いたします。来期以降は、通常の取引へ戻すだけです」
「勝手なことを言うな」
「侯爵家の運営へ、商家の娘が口を挟むべきではないのでしょう?」
返事を待っていると、伯爵令嬢が彼の腕から手を離した。
「融資が必要なほどとは、伺っておりませんでした」
「一時的な都合だ。君が気にすることではない」
彼女は引き留められる前に一歩下がった。その目が広間の奥にいる父君を探しているのを見て、私は少し気の毒になった。
ヴィクトル様は、離れた腕より私の方を気にしていた。
「君はいつもそうだ。数字を並べて人を追い詰める」
「婚約を解消するとお決めになったのは、ヴィクトル様です」
「君が侯爵家に相応しい女なら、こんなことにはならなかった!」
私を妻にするつもりはなく、家の支援は手放したくない。そこだけは、たいへんよく伝わった。
「正式な書面をお待ちしております」
「待て。支援を続けると約束しろ」
「その条件では、父に勧めることができません」
私はマリアの袖から手を離し、一礼した。
顔を上げた時、ヴィクトル様が大きく踏み出してきた。
「この成り上がりの娘が!」
右の拳が引かれる。逃げなければと思ったのに、足が動かなかった。
黒いスカートの裾が視界を横切った。
マリアが私の横から、伸びてくる腕の内側へ滑り込む。彼女の手がその腕を外へ押すと、拳は私の頬から逸れていった。
けれど、大きく踏み込んだ上体までは止まらない。
ヴィクトル様の顔が前へ出るのに合わせて、マリアが顎を引いた。
ごつん。
何も飛ばなかった。卓のグラスも、給仕の銀盆も、その場にある。
代わりにヴィクトル様が鼻を押さえ、しゃがみ込んだ。
「マリア、怪我は?」
「ございません」
振り向いた彼女の額が、少し赤かった。私はそこへ手を伸ばしかけて、触れずに止めた。
「赤くなっているわ。痛むでしょう」
「お嬢様に当たるよりは軽微でございます」
あの拳が自分へ向かっていたのだと思うと、今になって膝から力が抜けそうになった。私がつかみ直した袖を、マリアは引かなかった。
「この侍女、頭突きを……!」
鼻を押さえたまま、ヴィクトル様が叫んだ。
「しておりません」
「額を出しただろう!」
「顎を引きました。殴られないように」
マリアは私の前に立ったまま、静かに答えた。彼を見上げていた時より、少しだけ話しやすそうだった。
「では、なぜ私の鼻が!」
「そちらから届きましたので」
近くで誰かが咳き込んだ。給仕の銀盆が小さく震え、グラス同士が触れ合った。
私は一部始終を見ていた。マリアは頭を振っていない。ヴィクトル様が踏み込んだ先に、ちょうど彼女の額があった。
ちょうど、あまりにも都合よく。
「おやめなさい、ヴィクトル」
ハルフォード侯爵夫人が人垣を分けて進み出た。
「母上、この侍女が私に――」
「見ていました。令嬢に殴りかかったのは、あなたです」
夫人は彼が指さす先のマリアを見て、それから私へ向き直った。
「ベルナール嬢。息子が大変な無礼をいたしました。侯爵家を預かる者として、お詫び申し上げます」
「母上! 成り上がりの男爵家に、そこまで頭を下げることは――」
「我が家が落ち目だからといって、品位まで失ってよい理由にはなりません」
ヴィクトル様の口が閉じた。夫人は私へ深く一礼し、姿勢を戻してから続けた。
「婚約解消の書面は、こちらから正式にお送りします。取引のお話は、そのあとで結構です」
支援を乞う言葉はなかった。困ると分かっていても、息子が言い出したことの責任を引き受けるつもりなのだ。
私はようやく、肩に入っていた力を抜いた。
「毛織物の取引については、父へ継続を進言いたします」
「お気遣いには及びません」
「気遣いではございません。品物が良いので」
夫人がわずかに目を見開いた。
私は男爵家の娘として、商会の娘として、顔を上げた。
「今後は、通常の取引として」
「もちろんです。こちらも、品物でお応えいたします」
夫人はその約束をしてから、次男のジュリアン様を呼んだ。
「兄を別室へ。医師に鼻を診せなさい」
「兄さん、立てる?」
ジュリアン様が差し出した腕を、ヴィクトル様は振り払おうとした。けれど鼻から手を離せず、結局、弟に引き起こされることになった。
「離せ。あの侍女が、私の鼻に――」
「兄さんから届いたらしいよ」
銀盆がまた鳴った。給仕は今度こそ、近くの卓へそっと置いた。
その向こうで、父君のそばへ戻ったエヴァンジェリン嬢と目が合う。彼女が小さく頭を下げ、私も同じだけ返した。
「参りましょう、マリア」
「はい、お嬢様」
広間を出ると、ようやく握っていた袖を離せた。マリアは皺になったところを直しもせず、私の顔を覗き込んだ。
「お顔の色が優れません。お休みになりますか」
「そうね。一緒に休みましょう。まず、あなたの額を冷やしてから」
彼女は額へ触れようとしたが、途中で手を下ろした。
「まだ痛む?」
「わずかに」
「なら、冷やしている間は大人しくしていてね」
私がその手を取ると、マリアは困ったように眉を下げた。あれほど綺麗に迎え撃った侍女が、主人に手を引かれると大人しくついてくる。
「ずいぶん、ぴったり合ったわね。あなたの額と、あの方の鼻」
「相手の踏み込みが優秀でした」
後日、私とヴィクトル様の婚約は正式に解消された。毛織物の取引は条件を改めて継続され、窓口にはジュリアン様が立った。
ヴィクトル様は領地で実務を学ぶことになったという。
王都ではしばらく、ハルフォード侯爵家の夜会が話題に上るたび、誰かが鼻を押さえた。
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