王子の恋を応援しただけなのに、悪役令嬢として処理されそうです
王太子殿下が恋をしている。
その相手が自分ではないことに、オリヴィア・レインフォードは三秒で気づいた。
春の王宮は、どこもかしこも甘い匂いで満ちている。庭園には白薔薇が咲き、銀の皿には砂糖漬けの果実が並び、令嬢たちは淡い色のドレスを揺らして笑っていた。王宮主催の茶会は、いつだって美しい。美しいものだけを集めて、不都合なものを絹の布で覆い隠したような場所だった。
オリヴィアは、その美しさに慣れている。
侯爵令嬢として育った彼女は、笑う角度も、視線を落とすタイミングも、沈黙の置き方も、幼い頃から教え込まれてきた。王太子レオンハルト殿下の婚約者候補として名が挙がってからは、それに王妃教育の基礎まで加わった。
だからこそ、気づいてしまった。
レオンハルト殿下の視線が、何度も同じ場所へ戻ることに。
その先にいるのは、ミリア・ベル男爵令嬢だった。
淡い水色のドレスを着た、明るい栗色の髪の少女。貴族令嬢としては少しだけ動きが素直すぎて、笑うときに肩が揺れる。宮廷の空気に慣れていないのだろう。けれど、その不慣れさを隠そうと背筋を伸ばしている姿には、妙な健気さがあった。
ミリアが笑えば、レオンハルト殿下の目元が緩む。彼女がカップを落としそうになれば、殿下の指が反射的に動きかける。ミリアが他の令嬢に囲まれて困った顔をしたときなど、殿下は会話の途中でさえ、そちらへ意識を奪われていた。
本人たちは隠しているつもりなのかもしれない。
あるいは、自分でもまだ気持ちの名を知らないのかもしれない。
けれど、オリヴィアには十分だった。
これは、恋だ。
胸の奥が、小さく痛んだ。
針で刺されたような鋭い痛みではない。もっと静かで、薄い紙を水に浸したときのように、じわりと形を失っていく痛みだった。
オリヴィアは婚約者ではない。あくまでも候補だ。だが、周囲はもう何年も前から、彼女を未来の王太子妃として扱っていた。茶会での席、夜会での順番、王妃の隣に置かれる時間。そのどれもが、彼女に一つの未来を示していた。
けれど、正式な婚約はまだ結ばれていない。
ならば、今ならまだ戻れる。
誰も決定的には傷つかず、少なくとも表向きは、きれいに収められる。
オリヴィアは、膝の上で指を重ねた。
恋は、正しい席順では始まらない。
けれど、間違った席順で潰されることはある。
ミリアは、王太子殿下と話したそうにしていた。だが、身分差と周囲の視線に押され、近づけずにいる。レオンハルト殿下も同じだった。王太子としての慎重さが、彼の足首に絹の紐のように絡みついている。
ならば。
オリヴィアは微笑んだ。
「ミリア様」
呼ばれたミリアが、びくりと肩を揺らす。
「は、はい。レインフォード様」
その声には、警戒と緊張が混ざっていた。無理もない。侯爵令嬢であり、王太子妃候補と見なされているオリヴィアから声をかけられたのだ。ミリアにとっては、春の茶会に突然、氷の彫像が歩いてきたようなものだろう。
オリヴィアは、できるだけ柔らかく言った。
「殿下は庭園の白薔薇をご覧になりたいそうですわ。ミリア様は花にお詳しいと伺いました。よろしければ、ご案内して差し上げて」
「わ、私が、ですか?」
「ええ。わたくしは少し、こちらで皆様とお話がございますので」
嘘ではない。
ここに残る令嬢たちの視線を、受け止める役目がある。
レオンハルト殿下が驚いたようにこちらを見た。オリヴィアは、ただ微笑んだ。殿下は一瞬だけ迷い、やがてミリアに手を差し出した。
「ベル嬢。よろしければ、案内を頼めるだろうか」
「は、はい。喜んで」
二人が庭園へ向かう。
その背中を見送るあいだ、周囲の令嬢たちはさざめいた。
「なぜオリヴィア様が……」
「殿下とベル男爵令嬢を?」
「どういうおつもりかしら」
どういうつもり。
その問いに、オリヴィア自身もすぐには答えられなかった。
ただ、二人が庭園の光の中へ並んで歩いていく姿は、思ったより似合っていた。レオンハルト殿下は少しぎこちなく、ミリアは緊張している。それでも、二人のあいだには確かに、始まりかけている何かがあった。
失恋というには、まだ何も始まっていなかった。
けれど、終わったものがないからといって、痛くないわけではなかった。
オリヴィアはカップを持ち上げ、冷めかけた紅茶をひと口飲んだ。
甘い香りがした。
少しだけ、苦かった。
それからのオリヴィアは、気づけば王太子殿下の恋を支える係になっていた。
もちろん、正式に任命されたわけではない。そんな役職があれば、王宮の職名一覧は今よりずっと愉快なものになっていただろう。
王太子殿下恋愛補佐官。
響きだけなら可愛らしい。仕事内容は、胃に小石を詰めて歩くようなものだった。
最初は、花束だった。
レオンハルト殿下がミリアへ贈る花を選ぶと聞き、オリヴィアは偶然、注文控えを目にした。王宮御用達の花屋が届けた控えには、黄色い薔薇と記されていた。
オリヴィアは、思わず眉を動かした。
「殿下。差し出がましいことを申し上げても?」
執務室の窓辺で、レオンハルト殿下は驚いたように顔を上げた。
「オリヴィア? どうした」
「ミリア様へお贈りになる花のことです。黄色い薔薇は、地域によっては誤解を招く意味を持ちます」
「誤解?」
「嫉妬や移り気と受け取られることがございます。もちろん、すべての場でそうではありません。けれど、今のミリア様には、余計な噂の種は少ないほうがよろしいかと」
レオンハルト殿下は、真剣に考え込んだ。
「では、何がよいだろうか」
「鈴蘭はいかがでしょう。控えめですが、誠実な想いが伝わります」
「鈴蘭か。分かった。ありがとう、オリヴィア」
礼を言われた。
悪い気はしなかった。けれど、その礼が王子自身の恋へ向けられていることを思うと、胸の奥にまた薄い痛みが滲んだ。
後日、ミリアは鈴蘭の花束を抱えて、頬を染めていた。
その表情を見て、オリヴィアは思った。
よかった。
そう思えたことに、少しだけ救われた。
次は、靴だった。
夜会前の練習室で、ミリアは宮廷舞踏の歩幅に苦戦していた。王宮式の舞踏は、足先の角度と重心の移し方が細かい。男爵家の舞踏会とは勝手が違うのだろう。
ミリアは懸命だった。だが、彼女が履いている靴は足首を支えるには頼りない。あのままでは三曲目までに痛める。
オリヴィアは扉の近くで足を止めた。
ミリアがこちらに気づき、顔をこわばらせる。
「レ、レインフォード様」
「その靴では、三曲目まで持ちませんわ」
言ってから、少し硬すぎたと思った。
ミリアの顔から血の気が引く。
「申し訳ございません。私、まだ作法が」
「責めているのではありません」
オリヴィアは静かに続けた。
「靴職人のアルノーを訪ねてください。足首を守るなら、リボンの位置を少し下げたほうがよろしいです。職人には、レインフォード家から聞いたと伝えて構いません」
ミリアは戸惑いながら、小さく礼をした。
「あ、ありがとうございます」
「夜会で転べば、あなたも殿下も困りますもの」
それだけ言って、オリヴィアは練習室を出た。
夜会当日、ミリアは無事に踊り切った。レオンハルト殿下は、彼女を見つめて嬉しそうに笑っていた。
オリヴィアは、離れた席から拍手を送った。
手のひらが少し冷たかった。
それから、恋文事件が起きた。
「オリヴィア。少し、見てもらいたいものがある」
王宮の小さな書斎で、レオンハルト殿下は妙に深刻な顔をしていた。国境で反乱でも起きたのかと思うほどの表情だったが、差し出されたのは一通の手紙だった。
宛名は、ミリア・ベル嬢へ。
オリヴィアは中身を読み、沈黙した。
レオンハルト殿下は不安そうに問う。
「どうだろうか」
「殿下」
「ああ」
「これは恋文ではなく、推薦状です」
レオンハルト殿下が固まった。
文面は、ひどく真面目だった。
貴殿の日頃の研鑽について、私は一定以上の敬意を抱いている。今後も互いに親交を深め、よりよい関係を構築したい。
恋というより、官職登用の前触れである。
オリヴィアはこめかみを押さえたくなるのをこらえた。
「殿下のお気持ちは誠実です。ですが、このままではミリア様が、表彰状を受け取った気持ちになるかと存じます」
「そうか……」
「大きく変える必要はございません。ただ、一文だけ足しましょう」
オリヴィアは羽根ペンを取り、白い紙に書いた。
あなたが慣れない場所でも背筋を伸ばしている姿を、私は美しいと思いました。
レオンハルト殿下の耳が赤くなった。
「これは……少し、率直すぎないか」
「恋文ですので」
「そうか。恋文だからか」
「はい。恋文ですから」
まるで新しい法律を学んだような顔で、殿下はうなずいた。
この人は悪い方ではない。
オリヴィアはそう思った。
悪い方ではないからこそ、少し困る。
人は、悪意のある相手より、悪意なく頼ってくる相手を拒むほうが難しい。
最後は、噂だった。
令嬢たちの輪の中で、ミリアの名が笑いの種になりかけていた。
「男爵令嬢が王太子殿下のお相手だなんて」
「ご本人は夢見心地でしょうね」
「誰かが現実を教えて差し上げるべきではなくて?」
オリヴィアは、静かにその場へ入った。
「皆様、来月の慈善市の寄付品はお決まりですか?」
令嬢たちの笑い声が止まる。
「レインフォード様」
「王妃陛下も、今年は刺繍品をご覧になるのを楽しみにしていらっしゃるそうですわ。どなたが何を出されるのか、わたくしも興味がございます」
話題は変わった。
ミリアの名は、それ以上出なかった。
誰も褒めてはくれない。ミリア本人も、自分が守られたことを知らない。ただ、噂にならなかったという結果だけが残る。
そういう仕事は、思ったより疲れる。
その日の夕方、オリヴィアは王宮文書室近くの廊下で、手帳にペンを走らせていた。自分が関わった茶会の席順、鈴蘭への変更、靴職人の紹介、夜会前の噂。そこに並ぶ文字は、誰かに見せるためのものではない。
忘れないためだった。
自分がどこで笑い、どこで胸の奥を押さえ、どこで何も言わずに一歩引いたのか。書いておかなければ、いつか自分でも分からなくなる気がした。
善意は、口に出さなければ美談にならない。
痛みは、残しておかなければ最初からなかったことにされる。
「ずいぶん丁寧に残されるのですね」
声をかけられ、オリヴィアは顔を上げた。
そこに立っていたのは、王宮文書室の記録官ユリウス・グランだった。濃い灰色の髪に、静かな琥珀色の瞳。年若いが、表情が薄く、感情よりも紙の匂いのほうが似合う青年だった。
「グラン様」
「失礼。覗くつもりはありませんでした」
「構いませんわ。たいしたことは書いておりませんもの」
「たいしたことではないものを、人はあまりそこまで丁寧に残しません」
妙なことを言う人だ。
オリヴィアは少し笑った。
「忘れないためですわ。誰かの恋を応援したことも、自分が少し痛かったことも」
ユリウスは、わずかに目を細めた。
「痛みも、記録なさるのですか」
「ええ。記録しない痛みは、なかったことにされやすいので」
ユリウスは黙った。
その沈黙は、不思議と不快ではなかった。
やがて彼は、静かに言った。
「その手帳は、捨てずにお持ちください」
「なぜですの?」
「王宮では、ときどき事実が飾られます。飾りのない記録は、あとで役に立つことがあります」
それだけ言って、ユリウスは文書室へ戻っていった。
オリヴィアは手帳を閉じる。
そのときはまだ知らなかった。
その小さな手帳が、やがて自分を救う盾になることを。
レオンハルト殿下が、ミリア・ベル嬢を妃に迎えたいと王妃陛下に告げたのは、それから間もなくのことだった。
王宮に噂が流れるより先に、オリヴィアのもとへ呼び出しが届いた。
王妃陛下の私的な応接室。
そこは、いつ来ても息が詰まるほど美しかった。薄桃色の壁紙、金の縁取りが施された鏡、香炉から立ち上る淡い香り。すべてが柔らかく、優しく、丸みを帯びている。
けれど、柔らかいものが安全とは限らない。
絹の布でも、人の口を塞ぐことはできる。
「よく来てくれましたね、オリヴィア嬢」
王妃陛下は微笑んでいた。
完璧な微笑だった。
「お呼びいただき光栄です、王妃陛下」
「今日は、あなたに王家のため、少し協力していただきたいの」
少し。
その言葉を聞いた瞬間、オリヴィアの胸の奥で、細い糸がぴんと張った。
王宮で使われる「少し」は、たいてい少しでは済まない。
王妃陛下が合図すると、側近が一枚の書類を机に置いた。
題名は、王太子殿下婚約候補解消に関する経緯記録案。
オリヴィアは、静かに目を落とした。
そこに並んでいたのは、彼女が二人のために費やした時間と善意を、すべて嫉妬に狂った悪行へとすり替えた罪状の数々だった。
席順の配慮は、不自然な介入。
鈴蘭の提案は、殿下の意思の歪曲。
靴職人の紹介は、ミリアへの精神的圧力。
恋文への助言は、王太子殿下の私信への不当な関与。
噂を止めたことさえ、周囲の令嬢を牽制してミリアを孤立させようとした行動にされていた。
事実を薄く切り取り、好きな向きで皿に載せれば、毒でも料理に見える。
オリヴィアは、書類から顔を上げた。
不思議なほど、声は震えなかった。
「王妃陛下。こちらは、どなたが作成されたものでしょうか」
「王宮の記録係です。もちろん、わたくしも目を通しました」
「では、この内容が事実であると?」
「事実の一面ではあります」
一面。
便利な言葉だ。
王妃陛下は、穏やかな声で続けた。
「殿下は、ミリア嬢を大切に思っています。わたくしも、あの子の気持ちを無下にはしたくありません。けれど、王家には体面があります。あなたを何の理由もなく候補から外したとなれば、レインフォード侯爵家にも傷がつくでしょう」
「それで、わたくしに問題があったことにするのですか」
「言い方を選びましょう、オリヴィア嬢」
王妃陛下は微笑んだままだった。
「あなたが少しだけ悪者になれば、殿下の恋は美しい物語になります」
その言葉は、静かな刃だった。
少しだけ悪者。
オリヴィアは書類を見下ろした。
そこに書かれているのは、少しの悪評ではない。嫉妬深く、陰湿で、王太子妃にふさわしくない令嬢という烙印だ。これが王宮の正式記録として残れば、社交界は一生それを忘れない。縁談も、家の名誉も、妹弟の将来さえ傷つく。
王子の恋を美談にするために。
オリヴィアの人生を、都合のよい影にする。
「少しだけ、とは何年分のことでしょうか」
王妃陛下の微笑が、ほんのわずかに止まった。
「どういう意味かしら」
「この記録が残れば、わたくしは何年も、あるいは一生、嫉妬に狂った令嬢として扱われます。それは、王妃陛下のおっしゃる『少し』に含まれますか」
「王家も、あなたの家には配慮します」
「配慮とは、名誉を削ったあとの包帯でしょうか」
空気が冷えた。
側近が息をのむ。
王妃陛下の目が、初めて笑わなくなった。
「オリヴィア嬢。あなたは賢い方です。ここで争うことが、誰の利益にもならないと分かるでしょう」
争う。
つまり、これはお願いではない。
処理だ。
王宮は、オリヴィアを処理しようとしている。
王子の恋を祝福するために。
ミリアを新しい物語の中心に置くために。
王妃の判断を軽く見せないために。
そのための悪役令嬢として。
オリヴィアは、静かに書類を閉じた。
「確認の場には、出席いたします」
王妃陛下は、勝ったと思ったのだろう。表情に柔らかさが戻る。
「ええ。それがよいでしょう」
「ただし」
オリヴィアは一礼した。
「署名は、内容を確認してからにいたします」
応接室を出ると、廊下の空気がやけに冷たく感じた。
胸の奥で煮え立つものを、オリヴィアはただ、冷えた指先を強く握りしめることで押さえ込んだ。応援した恋が、こんな形で返ってくるとは思わなかった。
足は自然と、文書室へ向かっていた。
扉を叩くと、中からユリウスの声がした。
「どうぞ」
彼は書類の山に囲まれていた。顔を上げ、オリヴィアを見るなり、わずかに眉を動かす。
「顔色が悪いですね」
「グラン様。事実を、事実のまま出すには、どれだけ紙が必要ですか」
ユリウスは数秒、黙った。
それから、机の上の書類を脇へ寄せた。
「王宮が最も嫌がるのは、感情論ではありません。言い逃れの通用しない客観的な事実の積み重ねです」
「積み重ね」
「花屋の控え、職人の記録、殿下の依頼文、同席者の証言。使えるものを集めます。数が多いほど、向こうは言い換えにくくなる」
「どれほど必要でしょう」
「二十枚もあれば、十分な盾になります」
オリヴィアは、初めて少し笑った。
「では、集めましょう」
「すでにお持ちでしょう」
ユリウスの視線が、オリヴィアの手帳へ向く。
彼は淡々と続けた。
「あなたは、最初から捨てずに残していた。王宮の記録より、そちらのほうが正確です」
オリヴィアは手帳を握りしめた。
そうだ。
自分は残していた。
誰かの恋を応援したことも。
自分が少し痛かったことも。
全部。
公開確認会は、三日後に開かれた。
王宮の小広間には、王妃陛下、レオンハルト殿下、ミリア・ベル嬢、レインフォード侯爵、数名の高位貴族、そして王宮記録官としてユリウスがいた。
オリヴィアは父の隣に立っていた。
レインフォード侯爵は、娘を見ることなく低く言った。
「言うべきことは、言いなさい」
「はい、お父様」
「家の名誉より先に、おまえ自身の名を守れ」
その言葉に、オリヴィアは一瞬だけ目を伏せた。
家のために我慢しろとは言われなかった。
それだけで、胸の奥にあった硬い石が少し軽くなった。
王妃陛下が口を開く。
「本日は、王太子殿下の婚約候補に関する経緯を確認いたします」
側近が書類を読み上げ始めた。
「オリヴィア・レインフォード嬢は、王太子殿下とミリア・ベル嬢の親交に対し、複数回にわたり不適切な干渉を行ったものと確認されます」
ミリアの顔が青ざめる。
レオンハルト殿下は、困惑したように王妃を見た。
おそらく、彼は知らなかったのだ。
自分の恋が、こういう形で整えられようとしていることを。
知らなかったから無罪、ではない。
けれど、知らなかった顔を見ていると、責める言葉の角が少し鈍る。
側近は読み上げを続けた。
茶会の席順。花束。靴。恋文。噂への介入。
すべてが、悪意のある行動として並べられていく。
王妃陛下は、最後にオリヴィアへ向いた。
「オリヴィア嬢。内容に相違ありませんね」
小広間が静まり返る。
オリヴィアは微笑んだ。
「相違がございます」
空気が変わった。
王妃陛下の眉が、ほんの少し動く。
「……何ですって?」
「王家の記録として残すのであれば、ぜひ事実も添えていただきたく存じます」
ユリウスが無言で書類箱を前へ出した。
箱が机に置かれる音が、小広間に乾いて響いた。
側近が、花束と靴に関する罪状を読み直そうとした、そのときだった。
「違います!」
遮ったのは、ミリアだった。
彼女は椅子から立ち上がり、両手を胸の前で握りしめていた。顔は青い。唇も震えている。それでも、声だけは小広間の奥まで届いた。
「鈴蘭の花束は、私が嬉しかったものです。殿下が私を軽く見ているのではないと、あれで分かりました。もし黄色い薔薇のままだったら、私、きっと意味も分からずに笑われていました」
「ミリア嬢」
王妃陛下の声が、柔らかく制した。
けれど、ミリアは止まらなかった。
「靴のことも違います。私は本当に足を痛めかけていました。オリヴィア様が教えてくださらなかったら、夜会で転んで、殿下にも恥をかかせていたと思います」
言葉がこぼれるほど、ミリアの目に涙が浮かんでいく。
「私は、ずっと怖がっていました。オリヴィア様に嫌われているのだと思っていました。でも違いました。私が、何も見ていなかっただけです」
小広間の空気が、音を立てずにひっくり返った。
王妃陛下の側近は、読み上げる口を閉じた。
レオンハルト殿下は、呆然とミリアを見ている。
オリヴィアは、胸の奥がわずかに疼くのを感じた。気づいてくれたことに救われる気持ちと、今になってようやく、という浅い痛みが同じ場所で触れ合った。
だから、彼女はただ静かに言った。
「嫌っていたなら、もっと楽でしたわ」
ミリアが唇を噛む。
オリヴィアは視線を王妃陛下へ戻した。
「今の件については、花屋の注文控えと靴職人アルノーの調整記録がございます。グラン様」
ユリウスが写しを差し出す。
高位貴族たちの視線が紙へ落ちた。
王妃陛下は黙っている。
オリヴィアは、そこで本命の紙を手に取った。
「次に、恋文について確認させていただきます」
その言葉に、レオンハルト殿下の顔色が変わった。
ユリウスが一枚の紙を持ち上げる。
「王太子殿下の原文です」
「待て、グラン」
レオンハルト殿下が思わず声を上げる。
ユリウスは淡々と答えた。
「確認会ですので、必要です」
「いや、それは分かるが」
「殿下の筆跡であることも確認済みです」
逃げ場のない声だった。
ユリウスは読み上げた。
「貴殿の日頃の研鑽について、私は一定以上の敬意を抱いている。今後も互いに親交を深め、よりよい関係を構築したい」
小広間に、何とも言えない沈黙が落ちた。
ミリアがぽかんとしている。
レオンハルト殿下の耳が赤い。
レインフォード侯爵が、口元に拳を当てた。咳払いの形をしていたが、少し遅かった。
オリヴィアは静かに言った。
「このままでは、ミリア様が表彰状を受け取った気持ちになるかと存じまして」
高位貴族の一人が、肩を揺らした。
場がほんの一瞬だけ緩む。
だが、オリヴィアはその緩みを逃がさなかった。
「わたくしが足したのは一文です。あなたが慣れない場所でも背筋を伸ばしている姿を、私は美しいと思いました。これだけです」
ミリアの頬が赤くなる。
レオンハルト殿下は、片手で顔を覆った。
オリヴィアは、さらに別の紙を出した。
「そして、こちらが殿下からの依頼文です」
ユリウスが広げた紙には、レオンハルト殿下の筆跡が残っていた。
ミリア嬢に不快な思いをさせたくない。君なら社交界の言葉が分かるだろう。助けてほしい。
小広間の空気が、再び重くなる。
レオンハルト殿下は青ざめていた。
自分が助けを求めた相手を、王宮が悪役にしようとしていた。その事実が、ようやく彼の胸に届いたのだろう。
「オリヴィア……私は」
オリヴィアは、殿下を見なかった。
まだ、終わっていない。
「最後に、噂について」
ユリウスが、令嬢たちの発言記録を机上へ置いた。
男爵令嬢が王太子妃気取り。
誰かが現実を教えるべき。
その場にいた者の名も、日時も、同席者も記されている。短い文面ほど、逃げ場がなかった。
「わたくしが止めたのは、ミリア様の交友ではありません。嘲笑です」
ミリアが息を詰めた。
王妃陛下は、なおも姿勢を崩さない。
「たとえ善意であっても、王太子殿下とミリア嬢の関係に過度に関わったことは事実です」
場の空気が揺れた。
それは、一理あるように聞こえる言葉だった。
オリヴィアはうなずいた。
「はい。関わりました」
王妃陛下の目が細くなる。
オリヴィアは続けた。
「ただし、それは殿下から頼まれたからです。そして、王家がその支援を受け入れていたからです」
ユリウスが、王宮側近から届いた連絡記録を出した。
ミリア嬢の夜会出席に関し、レインフォード嬢の助言を仰ぐこと。
王太子殿下の贈答に関し、レインフォード嬢の確認を受けること。
不適切な噂が広がらぬよう、必要に応じて調整すること。
王家は、オリヴィアの助けを利用していた。
その助けが都合よく働いているあいだは、黙って受け取っていた。
そして、王子とミリアの恋を美談に仕立てる段階になって、同じ行動を嫉妬による妨害と呼び替えようとした。
小広間は、もう王妃の思い通りには動いていなかった。
オリヴィアは、レオンハルト殿下へ向き直った。
「殿下。恋をするのは自由です。けれど、その恋の後始末を、誰かの罪にしてはいけません」
レオンハルト殿下は、何も言えなかった。
オリヴィアは、次に王妃陛下を見る。
「わたくしは、お二人をお助けしたことを否定いたしません。ですが、その結果をわたくしの悪意として記録されることには、同意できません」
その瞬間、レインフォード侯爵が静かに立ち上がった。
「王妃陛下」
低い声だった。
「我が娘に対するこの記録案について、レインフォード侯爵家は正式に抗議いたします」
王妃陛下の微笑が、ついに消えた。
レオンハルト殿下が立ち上がる。
「母上。この記録案は破棄してください。オリヴィアには、罪はありません」
王妃陛下は、冷たい目で息子を見た。
「あなたは、自分の立場を分かっているのですか」
「今、少し分かりました」
レオンハルト殿下は、オリヴィアに向き直り、深く頭を下げた。
「すまなかった。君がしてくれたことを、私は都合よく受け取っていた」
ミリアもまた、立ち上がった。
「私も、申し訳ありません。助けられていたことに気づこうとしませんでした。怖がるだけで、何も見ていませんでした」
二人の謝罪は、遅すぎた。
けれど、嘘ではなかった。
オリヴィアは静かに受け止めた。
「謝罪は受け取ります」
二人の顔に、わずかに安堵が浮かぶ。
だからこそ、オリヴィアは続けた。
「ですが、これから先は、お二人で守ってくださいませ」
王子の恋も。
ミリアの立場も。
社交界の風も。
王家の体面も。
もう、オリヴィアがひとりで支えるものではない。
公開確認会の後、王妃陛下が用意した記録案は破棄された。
新たな記録には、オリヴィアによる妨害の事実はないことが明記された。王太子殿下とミリア・ベル嬢の親交については、王太子殿下本人の依頼および王宮側の連絡により、オリヴィアが助言を行ったものと整理された。
婚約候補の解消は、王家側の事情によるもの。
レインフォード侯爵家の名誉を損なわぬよう、正式な文書も出されることになった。
それで傷がすべて消えるわけではない。
一度向けられかけた疑いの視線は、完全には消えない。社交界は事実よりも噂を好む。美しい真実より、少し汚れた嘘のほうが、茶菓子には合うのだ。
それでも、王宮の正式記録に悪役として刻まれることは避けられた。
それだけで、オリヴィアは息がしやすくなった。
レオンハルト殿下とミリアの恋は、すぐに祝福一色にはならなかった。
ミリアは王太子妃教育を受け直すことになった。身分差を理由に嘲笑する者もいるだろう。好奇の視線も集まるだろう。
レオンハルト殿下もまた、自分の言葉で貴族たちへ説明しなければならなくなった。
今までオリヴィアが先回りして整えていたものを、二人は自分たちで引き受けることになったのだ。
ある日、ミリアがオリヴィアのもとを訪ねてきた。
彼女は以前よりも少しだけ背筋を伸ばしていた。
「オリヴィア様」
「ミリア様」
「私、頑張ります。殿下の隣に立つなら、自分で立てるようにならないといけないと分かりました」
「ええ」
「それから……もう、オリヴィア様に全部助けていただこうとは思いません」
オリヴィアは微笑んだ。
「そのほうがよろしいですわ」
ミリアは少し困ったように笑った。
「でも、いつか、お茶に誘ってもよろしいですか。助けを求めるためではなく、ちゃんとお礼を言うために」
オリヴィアは少し考えた。
そして、うなずいた。
「そのときは、恋のお話以外でお願いいたします」
ミリアは目を丸くし、それから笑った。
「はい」
それは、悪くない別れ方だった。
数日後。
オリヴィアは王宮文書室に呼ばれた。
文書室は、相変わらず紙の匂いがした。窓から差し込む光の中で、細かな埃が金色に浮いている。ユリウスは机の前に立ち、一枚の記録紙を差し出した。
「最終確認です」
オリヴィアは受け取った。
そこには、今回の経緯が淡々と記されていた。
王子の恋。
オリヴィアの助言。
王宮側の記録案の撤回。
侯爵家への名誉回復文書。
そして、最後に一文。
オリヴィア・レインフォード嬢は、王太子殿下の親交を妨げたのではない。その成立を支えた。ただし、以後その役目を負う義務はない。
オリヴィアは、その一文を何度か読んだ。
胸の奥から、細く長い息が抜ける。
「ずいぶん、わたくしに優しい記録ですのね」
ユリウスは表情を変えずに言った。
「確認できた事実だけを書きました」
「記録官というのは、もう少し冷たいものだと思っていました」
「冷たいほうです」
「そうですの?」
「余計な感情を入れると、記録は使いものになりません。ただ、削ってはいけない事実まで削るのは、職務ではありません」
オリヴィアは笑った。
王宮で笑うときは、いつも角度を考えていた。口元をどれくらい上げるか。目元をどれくらい緩めるか。相手がどう受け取るか。
けれど、そのときの笑みは、何も考えずにこぼれた。
「グラン様」
「はい」
「わたくし、ずっと誰かの予定ばかり整えていましたわ」
「存じています」
「殿下の贈り物、ミリア様の靴、茶会の席順、夜会の噂。どれも必要だと思っていました。でも、自分の予定は、いつも後回しでした」
ユリウスは黙って聞いていた。
その沈黙が、やはり不快ではない。
「では、次はご自身の予定を入れてください」
彼は、淡々とそう言った。
オリヴィアは窓の外を見た。
庭園には、白薔薇が咲いている。
あの日、レオンハルト殿下とミリアが並んで歩いていった庭だ。
あのとき胸にあった痛みは、まだ完全には消えていない。けれど、それはもう、誰かに踏まれるためのものではなかった。
オリヴィアは手帳を開いた。
「では、明日の午後。お茶の予定を一つ」
ユリウスは、記録用紙を取り出した。
「相手は」
オリヴィアは、少しだけ微笑む。
「あなたのお名前を書いても?」
ユリウスの手が止まった。
ほんの一瞬だけ。
それから彼は、いつもの無表情で答えた。
「……予定として成立するなら」
「では、成立させましょう」
文書室の窓辺で、オリヴィアは手帳に新しい予定を書き込んだ。
誰かの恋のためではない。
誰かの体面を守るためでもない。
自分が望んだ、自分のための予定だった。
悪役令嬢として処理されるはずだった彼女の手帳には、明日初めて、自分のためのお茶の予定が書き込まれた。




