君がいない食卓(母)
知っている。
あの子に、何があったのか。
人づてに聞いた。
名前も、日付も、
ちゃんと。
だから、
来た。
あの子の家に。
何も持たずに行くのは違う気がして、
台所に立った。
昔みたいに、
好きだったやつを作る。
味見をする。
少し薄い。
あの子は、
これくらいが好きだった。
皿に盛る。
二人分、並べそうになって、
手が止まる。
一人分だけにする。
……違う。
今日は、
二人で食べるつもりで来た。
昔みたいに。
玄関の前で、
深く息を吸う。
チャイムを押す。
返事はない。
鍵は、開いていた。
「入るよ」
声に出してから、
扉を開ける。
家の中は、静かだった。
でも、
奥から声がする。
小さくて、
優しくて、
途切れそうな声。
「なあ」
足が止まる。
分かっている。
誰に向けている声か。
分かっている。
それでも話しかけていることも。
分かっている。
だから、
来た。
そのために来た。
手に持った皿が、
少しだけ震える。
廊下を進む。
一歩、また一歩。
あの子の部屋の前で、
止まる。
中から、声。
「……ごめんな」
胸が、痛い。
今だ。
今、開けて、
名前を呼んで、
「大丈夫」って言って、
「ご飯できてるよ」って、
昔みたいに言えばいい。
それだけでいい。
それだけで、
少しは戻れるかもしれない。
手を、ドアにかける。
冷たい。
力を込める。
——開かない。
違う。
開けられない。
この扉を開けたら、
あの子の顔を見たら、
もう、戻れない気がする。
知らなかった頃の、
あの子にも。
何もなかった頃の、
私にも。
それでも、
開けなきゃいけないのに。
分かっているのに。
「……ご飯、できてるよ」
小さく、言った。
届かない声で。
中の声は、止まらない。
私は、
扉の前に立ったまま、
もう一度だけ、
息を吸う。
言えばいい。
もう少し、大きな声で。
昔みたいに。
それだけなのに。
口が、動かない。
手も、動かない。
ただ、
立っている。
皿の湯気が、
ゆっくりと消えていく。
扉の向こうで、
あの子の声が続いている。
私は、
それを聞きながら、
何もできないまま、
そこにいる。
この作品は「君がいない食卓」シリーズの一つとして書きました。
誰かがいなくなった後も、 残り続けるものについて考えた話です。
もしよければ、別視点の作品も読んでみてください。




