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君がいない食卓(母)

掲載日:2026/05/02

知っている。

あの子に、何があったのか。

人づてに聞いた。

名前も、日付も、

ちゃんと。

だから、

来た。

あの子の家に。

何も持たずに行くのは違う気がして、

台所に立った。

昔みたいに、

好きだったやつを作る。

味見をする。

少し薄い。

あの子は、

これくらいが好きだった。

皿に盛る。

二人分、並べそうになって、

手が止まる。

一人分だけにする。

……違う。

今日は、

二人で食べるつもりで来た。

昔みたいに。

玄関の前で、

深く息を吸う。

チャイムを押す。

返事はない。

鍵は、開いていた。

「入るよ」

声に出してから、

扉を開ける。

家の中は、静かだった。

でも、

奥から声がする。

小さくて、

優しくて、

途切れそうな声。

「なあ」

足が止まる。

分かっている。

誰に向けている声か。

分かっている。

それでも話しかけていることも。

分かっている。

だから、

来た。

そのために来た。

手に持った皿が、

少しだけ震える。

廊下を進む。

一歩、また一歩。

あの子の部屋の前で、

止まる。

中から、声。

「……ごめんな」

胸が、痛い。

今だ。

今、開けて、

名前を呼んで、

「大丈夫」って言って、

「ご飯できてるよ」って、

昔みたいに言えばいい。

それだけでいい。

それだけで、

少しは戻れるかもしれない。

手を、ドアにかける。

冷たい。

力を込める。

——開かない。

違う。

開けられない。

この扉を開けたら、

あの子の顔を見たら、

もう、戻れない気がする。

知らなかった頃の、

あの子にも。

何もなかった頃の、

私にも。

それでも、

開けなきゃいけないのに。

分かっているのに。

「……ご飯、できてるよ」

小さく、言った。

届かない声で。

中の声は、止まらない。

私は、

扉の前に立ったまま、

もう一度だけ、

息を吸う。

言えばいい。

もう少し、大きな声で。

昔みたいに。

それだけなのに。

口が、動かない。

手も、動かない。

ただ、

立っている。

皿の湯気が、

ゆっくりと消えていく。

扉の向こうで、

あの子の声が続いている。

私は、

それを聞きながら、

何もできないまま、

そこにいる。

この作品は「君がいない食卓」シリーズの一つとして書きました。

誰かがいなくなった後も、 残り続けるものについて考えた話です。

もしよければ、別視点の作品も読んでみてください。

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