ピンク色の神、あるいは災厄
栃木の冬の朝は、驚くほど静かだった。
「れんれん」だった頃の派手な髪色はとうに黒く染め直され、土の匂いと防寒着に包まれた彼は、今や実家のイチゴ農家を継ぎ「本間蓮」として、黙々とビニールハウスの室温を管理している。
数年前、歌舞伎町のネオンに照らされていた彼の手は、今では「とちおとめ」を傷つけないよう、慎重に、そして実直に動いていた。
だが、彼がふとスマートフォンの画面を点けた瞬間、その静寂は無残に切り裂かれる。
「……また、こいつか」
画面の中で、ピンク色のフリルを暴力的に波打たせた少女が、何百万もの『いいね』を背負って不敵に微笑んでいた。
「おはよー、全人類。今日も私に依存してる? ドル安すぎてまじ病み。世界経済、一回死んだ方がいいかも。ぴえん」
「りのあ」だ。
彼が命の危険すら感じ、着の身着のまま歌舞伎町から逃げ出す原因となった、あの怪物。
SNSのタイムラインに流れてくる彼女の姿は、もはや一介のパパ活女子ではない。
最高級の地雷系ファッションを纏いながら、国家予算レベルの資金を動かし、気まぐれな一言で株価を乱高下させる「経済の女神」であり「災厄」そのものだった。
「……あは、今の解説、まじ天才すぎて自分のIQが怖い。みんな、私のポートフォリオ真似して破産しなよ。人生の断捨離、手伝ってあげる」
画面越しでもわかる。
彼女の瞳は、以前よりずっと透き通っている。
連は、いや「れんれん」は、彼女が1億のシャンパンを「溶かした」あの夜の光景を思い出し、指先が微かに震えるのを感じた。
あの時、彼は悟ったのだ。
彼女にとって、カネも、愛も、自分という人間ですらも、ただの「装置」に過ぎなかったのだと。
彼女は今、SNSという巨大な端末を通じて、世界全体を「パパ」として飼い慣らしている。
「蓮、そろそろ飯だぞ」
父の呼ぶ声が聞こえる。
手に持ったイチゴの重み。
土の感触。
今の連には、それはあまりにも確かな「現実」だ。
だが画面の中の彼女は、その「現実」という概念すらも存在せず、倫理も自尊心も削ぎ落とした純粋な「意志」として、虚空へと増殖し続けている。
「……あんな化け物……」
彼はスマートフォンの電源を切り、深い溜息を吐いた。
栃木の寒空の下、彼は自分の平穏を守るために、彼女という劇薬を視界から消そうとする。
しかし、彼がどれだけ逃げようとも、彼女の「ぴえん」という呪文が市場を揺らすたび、この静かな農村にまでその余波は届く。
一方、画面の向こう側の「りのあ」は、数百万の賞賛と数千億の数字に囲まれながら、完璧な虚無感の中で鏡を覗き込んでいた。
「あー、栃木のイチゴ、お取り寄せしよっかな。……ううん、やっぱりやめ。無駄な糖分摂取とか、私のミニマリズムに反するし。今の私は、数字だけでお腹いっぱい。まじ、最強すぎて草……」
彼女は、自分を捨てて逃げた男のことなど、もう1ビットの記憶容量すら割いてはいない。
ただ、磨き上げられた地雷系の装甲に身を包み、自らが作り上げた「新しい神」としての自分に陶酔しながら、今日も美しく狂った最適解を、世界へと発信し続ける。




