お人形遊びは、もうおしまい
私の名前はマキナ・アルス。
王立魔法技術院にその名を刻む、天才魔法技師。
そして、かつてはこの国の第二王子カイウス・レックス・インペリウス殿下の婚約者だった。
……そう、かつては。
玉座の間で、彼から婚約破棄を告げられたときの光景は、今も脳裏に焼き付いて離れない。
「マキナ!貴様との婚約を本日をもって破棄する!」
カイウス殿下声が、静まり返ったホールに響き渡る。
彼の腕には、か細く可憐な令嬢が寄り添っていた。
セレーネ嬢……最近、殿下がたいそうご贔屓にされている子だ。
潤んだ瞳で私を見つめ、怯えるように殿下の後ろに隠れる姿は、庇護欲をそそるのだろう。
「理由は分かっているな? 貴様がこのセレーネに嫉妬心から数々の嫌がらせを行った罪だ! その陰湿で醜い心根もはや王族の婚約者として相応しくない!」
周囲の貴族たちが、ひそひそと囁き合う。
同情、嘲笑、好奇。
様々な視線が、私に突き刺さった。
私は何も答えず、ただ静かに自分の腕をさすった。
ドレスの袖に隠された腕をかばうように。
「……考え直してはいただけませんか、殿下」
絞り出した声は、自分でも驚くほどか弱く震えていた。
「あなたのことを、本当の意味で支えられるのは私だけだと思うのです」
最後の警告であり、最後の慈悲。
けれど、その言葉は彼の耳には届かない。
「黙れ! 見苦しい言い訳は聞きたくない! 貴様のような女はこの国にいることすら許されん! よって婚約破棄の上国外追放を命じる!」
決定的な宣告だった。
セレーネ嬢の肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように私を見下すカイウス殿下。
その瞳には、かつて私に向けられていた熱など、一片も残っていなかった。
私はゆっくりと目を伏せ、踵を返す。
背後から投げつけられる蔑みの視線を受けながら、ただ、一歩ずつホールを後にした。
悲しい、という感情とは少し違う。
もっと冷たくて、重たい何かが、私の心を支配していた。
これで、よかったのだと。
そう、自分に言い聞かせながら。
◇ ◇ ◇ ◇
カイウス殿下は邪魔者がいなくなった宮殿で、ようやく手に入れた可憐な小鳥――セレーネ嬢との甘い夜を過ごしたことだろう。
きっと、彼は満たされていたはずだ。
すべてが自分の思い通りになったのだから。
……翌朝までは。
「どういうことだ……? セレーネ? おい、起きろ!」
王子の寝室から、悲鳴に近い絶叫が響き渡った。
朝食の準備を知らせに来たメイドが、恐る恐る扉を開ける。
そこには信じがたい光景が広がっていた。
ベッドの上で、カイウス殿下が美しい令嬢の体を揺さぶっている。
しかし、その令嬢――セレーネは人形のように微動だにしない。
肌は陶器のように冷たく、その瞳は虚空を見つめたままだった。
「ど、どういうことだ!? なぜだ! なぜ動かない!」
王子は半狂乱になり、駆けつけたメイドの腕を掴んだ。
「お前! お前が何かしたのか!?」
「きゃっ! 滅相もございません殿下!」
その細い腕に、容赦なく力が込められる。
恐怖に引きつるメイドの顔を見て、彼の口元が歪んだ。
「……そうだ、お前が悪い。お前たちのせいで、セレーネが……!」
王子が手を振り上げた、その瞬間だった。
「そこまでだ、カイウス殿下」
低く、厳かな声が響く。
ばん、と音を立てて扉が開け放たれ、屈強な騎士たちがなだれ込んできた。
あっという間に取り押さえられ、床に組み伏せられる王子。
「な、何をする! 無礼者! 私は王子だぞ!」
騎士団の壁が左右に割れ、その間から二人の人物が進み出る。
一人は、この国の騎士団を束ねる、アトラス・フォルティス騎士団長。
そして、もう一人は――。
「マキナ……!? なぜ、お前がここに……国外追放になったはずでは……!」
驚愕に見開かれたカイウス殿下の目に、昨日と変わらない私が映る。
私はただ、冷たい瞳で彼を見下ろしていた。
「ええ、殿下。すべて、計画通りですので」
◇ ◇ ◇ ◇
カイウス殿下と婚約を結んだ当初、私は確かに彼を愛していた。
聡明で、カリスマ性があり、未来の王として申し分のない方だと。
しかし、共に過ごす時間が増えるにつれて、私は気づいてしまったのだ。
彼の完璧な仮面の下に隠された、底知れぬ残虐性。
すべてを支配せずにはいられない歪んだ欲望。
始まりは、些細なことだった。
私の返答が少し遅れただけで、不機嫌そうに舌打ちをする。
私の意見が彼と異なれば、冷たい言葉で否定される。
そして、ある日。
初めて、彼は私に手を上げた。
二人きりの部屋で、私の些細な失敗をあげつらい、激高した彼の平手が私の頬を打った。
衝撃と痛みで、何が起きたのか分からなかった。
謝罪の言葉はなく、ただ「俺を怒らせるお前が悪い」と、冷たく言い放っただけ。
それが、すべての始まりだった。
暴力は次第にエスカレートし、見えない場所を選んで執拗に繰り返された。
ドレスの下は、青や紫の痣で覆われるようになった。
私は、自分の命にさえ危機を感じ始めていた。
逃げ出すことはできたかもしれない。
――けれど、私の頭脳はもっと残酷な未来を予測していた。
私が彼の元を去れば、彼の暴力の矛先は、他の誰かに向かうだろう。
侍女や、新しい婚約者……あるいは、国民へ。
王族という絶対的な権力を持った彼の狂気は、決して放置してはならない。
彼を、正常であるかのように偽装しなければならない。
彼の残虐性と支配欲を、安全な形で満たし続け、外に漏れ出さないように管理しなければ。
そこで私は、自らの最高傑作を創り出した。
私の持つ魔法技術のすべてを注ぎ込み、人間と見分けのつかない、完璧な魔法人形を。
それが――『セレーネ』。
『彼女』は私の分身であり、私の盾だった。
私は裏で糸を操る人形師のように、セレーネを遠隔で操作した。
カイウス殿下が好みそうな、儚げで、従順で、何も言い返さない、可憐な令嬢を演じさせた。
彼の意識は、面白いようにセレーネに釘付けになった。
思い通りになる美しい人形に、彼は夢中になった。
同時に私は意図的に彼と距離を取り、『お飾りの婚約者』を演じる。
そして、彼の関心を自分から完全に逸らさせることに成功した。
すべては彼の狂気をセレーネという『檻』の中に閉じ込めておくための苦肉の策だった。
だが、彼はセレーネに、私への婚約破棄を切り出してきた。
私がセレーネを虐げたとでっち上げ、婚約を破棄するそうだ。
セレーネという『人形』を、本気で自分のものにしたいと望んだのだ。
私の作った檻を、自ら壊そうとした。
もう、私一人では抑えきれない。
耐えられなくなった私は、すべてを打ち明ける覚悟を決めた。
私が選んだ相談相手は、国で最も公正で、強い意志を持つ人物。
アトラス・フォルティス騎士団長だった。
彼は私の告白と、ドレスの下に隠されたおびただしい数の痣を見て、静かに拳を握りしめた。
そして、彼は私の計画に、全面的な協力を約束してくれたのだ。
婚約破棄と国外追放の茶番。
私が悲しげに宮殿を去ったあの日、追放などされていなかった。
アトラス団長と彼の信頼する部下たちと共に、王子の部屋の近くで、その時が来るのをただじっと待っていたのだ。
彼がセレーネという『安全弁』を失い、その本性を現す瞬間を。
◇ ◇ ◇ ◇
「……というわけです、殿下」
私は、床に組み伏せられたまま呆然としているカイウス殿下に、静かに語りかけた。
「メイドに手を上げた、あの瞬間。あなたの残虐性がもはや制御不可能なレベルに達したと判断し、拘束させていただきました」
彼の狂気は白日の下に晒された。
もう、誰も彼を未来の王だとは思わないだろう。
王位継承権の剥奪、そして廃嫡は免れない。
カイウス殿下は、何もかもが信じられないという顔で、私と、そしてベッドの上で眠り続けるセレーネを交互に見た。
「人形……? セレーネが……人形だと……? そ、そんな……嘘だ……」
「ええ、嘘ではありませんよ。私の最高傑作です」
私はゆっくりと彼に近づき、しゃがみこんで、その絶望に染まった顔を覗き込んだ。
そして、あの日と同じように、自分の腕をそっとさする。
――皮膚の下にずっと残り続ける消えない痣を。
こらえていた涙が、頬を伝って落ちる。
「……お人形遊びは、楽しかったですか?」
彼の瞳が、大きく揺れた。
「いくら叩いても、蹴っても、あの娘が決して痣一つ作らなかったことを、不思議に思いませんでしたか?」
「あ……あ……」
声にならない呻きが、彼の喉から漏れる。
「警告したはずです。あなたのことを本当の意味で……その狂気ごと支えられるのは、この世で私一人だけだったのに」
愚かだと見下していた元婚約者。
その女が、自分のすべてを管理し、手のひらの上で転がしていた。
自分が心から愛した女は、ただの操り人形だった。
その事実は、彼の傲慢な心を砕く。
彼は、わななく唇で何かを言おうとしたが、言葉になる前に騎士たちに引きずられていく。
その瞳から光が消え、抜け殻のようになっていく様を、私はただ静かに見送った。
王子の姿が見えなくなり、部屋に静寂が戻る。
張り詰めていた糸が切れたように、私はその場にへたり込んだ。
もう、涙をこらえることはできなかった。
「……っ……う……」
終わった。
長くて苦しい戦いが、ようやく。
そのとき、力強い腕が、そっと私の肩を支えてくれた。
見上げると、アトラス団長が優しい目をして私を見下ろしていた。
「……つらかっただろう」
その一言で、堰を切ったように嗚咽が溢れ出す。
彼は何も言わず、私が泣き止むまで、ただ静かにそばにいてくれた。
やがて私が落ち着きを取り戻すと、彼は私の頬に残る涙の跡を、無骨だが優しい指先で拭ってくれた。
「マキナ嬢。……いや、マキナ。これで君は、君の人生を歩んでいいんだ」
「私の、人生……」
「そうだ。君の聡明さ、その献身、そして何よりその清い心を私はずっと見てきた。君のような素晴らしい女性は、あの男にはあまりにもったいない」
アトラス団長は、まっすぐに私の瞳を見つめると、はっきりと告げた。
「私の伴侶になってはくれないだろうか」
「……え?」
予期せぬ言葉に、私は目を見開く。
「もちろん、すぐにとは言わない。君の心が癒えるのを、いつまでも待つつもりだ。だが、これからの君の人生を、一番近くで支えさせてはもらえないだろうか」
彼の真摯な言葉が、凍てついていた私の心に、じんわりと温かく沁み込んでいく。
カイウス殿下との日々で失ってしまった、自己肯定感というものを取り戻せるような気がした。
――私の人生は、まだ、これから始められるのかもしれない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
星評価やブックマークしていただけると、参考にも励みにもなり、とても嬉しく思います。