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永夜の狼

作者: polio

降りしきる酸性雨が、廃墟ビル群のネオンサインを滲ませていた。カイは、強化コートのフードを目深に被り、巨大複合施設「ネビュラ・タワー」のサービス用搬入口の前に立っていた。背後には、腐臭漂う運河と、追手の気配を孕んだ夜のとばり。時間は、ない。


左腕の端末に表示されるホログラムを指先でなぞる。解錠シーケンス開始。複雑なコードが網膜ディスプレイに明滅し、数秒後、重々しい金属扉のロックが解除される。解除音が雨音にかき消されるように小さく響いた。


「…よし」


短く呟き、カイは素早く扉の隙間に身体を滑り込ませた。背後で再び扉が閉まり、ロックがかかる。外界の喧騒は完全に遮断され、代わりにひんやりとした、埃とオイルの匂いが鼻をついた。


ここはネビュラ・タワー。かつてはこのセクターの経済と文化の中心だった場所。だが、数年前の大規模システムダウン以降、上層階は閉鎖され、管理AIも機能不全。今ではゴーストタワーとして、闇市場の取引や、カイのような“グレーゾーン”の住人たちの通路として利用されることがあるだけだ。


今回の『荷物』は、その中でも格別にヤバい代物だった。


依頼主は顔も名前も知らない。仲介人から渡されたのは、古めかしいデータチップが埋め込まれた、掌サイズの黒いキューブ。中身は不明。だが、これをタワー最上階にある、今は使われていないはずの通信アンテナまで「夜明けまでに」届けろという指示。破格の報酬。そして、複数の組織がこのキューブを狙っているという、情報。


(…ハイリスク、ハイリターン。いつものことだ)


カイは自嘲気味に息をつき、コートの内ポケットに仕込んだキューブの感触を確かめた。これが成功すれば、今のしがない運び屋稼業から足を洗い、どこか遠くへ消えることができるかもしれない。過去から…あの忌まわしい記憶から、逃れることができるかもしれない。それが、カイの唯一の願望であり、この危険な仕事を引き受けた理由だった。


通路の奥へと進む。非常灯だけが頼りの薄暗がり。足音が、やけに響く。耳に取り付けた小型センサーが、周囲の微弱な電波や音波を拾い、網膜ディスプレイにノイズ混じりのソナーマップを描き出す。今のところ、侵入者の反応はない。


エレベーターは停止している。階段を使うしかない。最上階までは、途方もない距離だ。カイは非常階段の扉を開け、コンクリートの階段を上り始めた。一段、また一段。規則正しい自分の足音だけが、静寂の中に響く。


五階層ほど上っただろうか。

ふと、センサーに微かな異常反応が表示された。階下。ほんの一瞬、扉の開閉音のようなものが拾われた。


(…気のせいか?)


ノイズかもしれない。このタワーは古い。配管を伝わる音や、風の音も拾うことがある。だが、プロの勘が警鐘を鳴らしていた。依頼を受けた時点で、追跡者がいる可能性は考慮していた。仲介人も警告していた。「特に“赤い影”には気をつけろ」と。


カイは足を止め、息を殺した。センサーの感度を最大にする。階下のソナーマップを凝視する。


…何も映らない。動くものはない。

だが、妙な圧迫感があった。見られているような感覚。


(…いや、いる!)


確信した瞬間、カイは階段の手すりを飛び越え、下の階層へと身を翻した。着地の衝撃を膝で殺し、即座に近くの配電盤の影に身を隠す。同時に、数秒前まで自分がいた場所に、鋭い金属音が響いた!


カンッ! キィン!


何かが壁に弾かれ、火花が散るのが見えた。投擲武器? あるいは小型のレールガンか?


(…何者だ…!)


カイは舌打ちし、腰のホルスターから小型のパルスガンを引き抜いた。状況は最悪だ。タワー内部、しかも逃げ場のない非常階段で捕捉された。


「…出てきたらどうだ? “運び屋”カイ」


静かな、しかし芯の通った女の声が、響いた。反響して、どこから聞こえるのか判別しにくい。


「その“荷物”、素直に渡してもらおうか。無駄な争いは、私も好まない」


声の主は、姿を見せない。

カイも応じない。下手に言葉を返せば、位置を特定される可能性がある。今は、相手の情報を少しでも多く引き出すのが先決だ。


息詰まるような沈黙。


互いの気配を探り合う、見えない神経戦。


カイは配電盤の影から、ゆっくりとミラーを取り出し、慎重に階下の様子を窺った。ミラーに映ったのは、一瞬だけ翻った、鮮やかな赤い布の切れ端。そして、闇に溶け込むような黒いシルエット。


(…まさか…赤い影か!?)


噂は聞いていた。神出鬼没、残忍にして正確無比な始末屋。その姿を見た者は少ないが、常に赤いスカーフを身につけているという。そして、ターゲットを確実に仕留める。


(あの身のこなしは…レイラ…!?)


カイの脳裏に、忘れかけていた名前と顔が浮かび上がった。まさか。彼女が“赤い影”? あの時、組織を裏切って姿を消したはずの…!


動揺が、カイの判断を鈍らせた。

その一瞬の隙を、相手は見逃さなかった。


ヒュンッ!


風を切る鋭い音と共に、何かがカイの隠れる配電盤めがけて飛んでくる! 反射的に身をすくめる!


ガギンッ!!


配電盤の金属カバーがひしゃげ、高圧電流の火花が散った! EMPグレネード!?

網膜ディスプレイの表示が一瞬でブラックアウトする! センサーも、通信機能も、全てが使えない!


情報という命綱を断たれたカイに、暗闇の中から、赤い影が音もなく迫る――!


視界と聴覚以外のセンサーが死んだ。まるで原始時代に戻ったかのような、心細さと恐怖。だが、カイはプロの運び屋だ。この程度の状況は想定内。いや、想定していた。


(落ち着け…焦るな…!)


カイはパルスガンを強く握りしめ、背後の壁に身体を押し付けた。EMPの影響は一時的かもしれないが、回復を待つ余裕はない。相手は確実にこちらへ向かってきている。


足音は聞こえない。相手もプロだ。気配を殺す術を心得ている。

頼りになるのは、壁を伝わる微かな振動、空気の流れの変化、そして、研ぎ澄まされた感覚だけ。


(…左か!)


微かな空気の揺らぎを感じ取り、カイは即座に右方向へ飛び退いた。

その直後、カイがいた場所に、黒い影が音もなく滑り込み、特殊合金製のナイフがきらめいた!


「…勘がいいな、カイ。昔と変わらず」


低い、抑揚のない声。間違いなくレイラだ。暗闇に目が慣れてきて、ぼんやりとその輪郭が見える。黒い戦闘服に、首元で揺れる赤いスカーフ。


「レイラ…! なぜお前が…!?」


カイは距離を取りながら、低い声で問いかけた。動揺を悟られないように、冷静に。


「なぜ? 簡単なことだ。そのキューブは、私が取り戻さなければならないものだから」


「取り戻す? どういうことだ!」


「お前には関係のない事だ。あの中身は…いや、余計な詮索は無用だ。大人しく渡せば、命だけは助けてやってもいい」


レイラの声には、感情が感じられない。だが、その言葉の端々に、尋常ではない執着が滲んでいた。


(こいつ、何かを知っている…キューブの中身を…!)


そして、なぜ俺がこの仕事を受けたのか、知っている可能性もある。


「断る」


カイは短く答えた。


「これは俺の仕事だ。それに、お前に渡すわけにはいかない理由がある」


「…そうか。残念だ」


レイラの声が、わずかに温度を下げた。


「ならば――ここで死ね」


次の瞬間、レイラが再び闇に溶けるように動き出す! カイも即座に反応し、パルスガンを発射! 青白い光弾が暗闇を切り裂くが、レイラは壁を蹴ってそれを回避! 天井近くの配管に飛び移り、信じられないほどの身軽さでカイの死角へと回り込もうとする!


(速い…! 昔よりもさらに…!)


カイはレイラの動きを追いながら、連続して射撃! パルス弾が壁や配管に着弾し、火花と金属音を散らす! !

レイラは配管から飛び降りると同時に、左手に持っていた小型デバイスを床に叩きつけた!


パシュン!


閃光弾! 強烈な光がカイの網膜を焼く!


「ぐっ…!」


思わず目を閉じる! 最悪のタイミング!その隙を突き、レイラがカイの懐へと一気に踏み込んできた! ナイフの切っ先が、カイの喉元めがけて突き出される!


視界が回復しない! だが、死の気配は肌で感じる!

カイは咄嗟にパルスガンを盾にするように構え、身体を捻った!


キィィン!!


ナイフの切っ先がパルスガンの銃身を滑り、火花を散らす! 衝撃でガンが手から弾き飛ばされ、床を転がった!


武器を失った! 体格ではカイがやや有利だが、相手は武器持ち! しかも、レイラの動きは予測不能だ!


「死ね!」


レイラは間髪入れずにナイフを翻し、横薙ぎにカイの胴体を狙う!

カイはバックステップで回避! 同時に、床に落ちていた鉄パイプを蹴り上げ、それを掴む!


鉄パイプとナイフが、薄暗い階段室で激しく打ち合わされる!


カン! カン! ガキン!


金属音が絶え間なく響き渡る! 火花が散り、二人の影が壁に踊る!

スピードと技術ではレイラが上回る。ナイフの鋭い切っ先が、何度もカイの身体を掠める。強化コートが数か所切り裂かれ、浅いが確実に急所を狙ってきている。

だが、カイもただ守っているだけではない。鉄パイプのリーチと重さを活かし、レイラの体勢を崩そうと全力で攻撃する!


「遅い!」


レイラはカイの振りかぶった鉄パイプを、ナイフの柄で巧みに受け流すと同時に、カイの軸足めがけて鋭いローキックを叩き込んだ!


「ぐぅっ!」


膝が砕けるような衝撃! カイの体勢が大きく崩れる!


チャンス! レイラはナイフを逆手に持ち替え、無防備になったカイの心臓めがけて突き込もうとした!


(…ここまでか…!)


カイの脳裏に、諦めがよぎった、その瞬間!


ガシャァァァン!!!


突然、二人のすぐ近くの壁が、内側から破砕された!

粉塵とガラス片が舞い上がる中、壁の向こう――隣接する、今は使われていないはずの研究室らしき場所――から、異形の影が現れた!


それは、故障した警備ロボットだった。システムダウンの影響で暴走し、壁を破壊して出てきたのだ! 赤い緊急ランプを点滅させ、両腕の先に装備されたドリルとカッターを不規則に回転させながら、無差別に動き回る!


「なっ…!?」


レイラの動きが一瞬止まる! 予期せぬ第三者の出現!

この隙を、カイは見逃さなかった!


(…運は、まだ俺を見捨てていなかった!)


カイは崩れかけた体勢から、最後の力を振り絞ってレイラの身体にタックルした!


「うわっ!」


不意を突かれたレイラは、暴走ロボットの方へと突き飛ばされる形になった!

ロボットは、最も近くにいる動く物体――レイラ――をターゲットと認識! ドリルアームを振り上げ、襲い掛かる!


「くっ…!」


レイラは咄嗟にナイフでドリルを受け止めようとするが、ロボットのパワーは凄まじい!


その間に、カイは床に落ちていた自分のパルスガンへと転がり込み、それを拾い上げた!状況は一変した! レイラはロボットに足止めされている!


カイは銃口をレイラ…いや、暴走ロボットへと向けた。引き金を引けば、ロボットを破壊できるだろう。だが、それではレイラを助けることになる。

彼女をここで見捨てるか?


それとも――


カイの指が、引き金にかかる。

脳裏に、かつてレイラと共にいた頃の、断片的な記憶が蘇る。笑顔、背中合わせの戦い、そして…裏切り。


(…俺は…)


一瞬の逡巡。

だが、カイの選択は決まっていた。


パルス弾が、暴走ロボットの頭部ユニットを正確に撃ち抜いた!

火花を散らし、けたたましい異音を発しながら、ロボットは動きを停止し、床に崩れ落ちた。


レイラは、間一髪で難を逃れたものの、呆然とカイを見ていた。なぜ、助けた? と言いたげな表情。カイは、パルスガンを構えたまま、ゆっくりと立ち上がった。身体中の傷が痛む。出血も続いている。だが、その瞳には、確かな意志の光が宿っていた。


「…行け、レイラ」


カイは低い声で言った。


「キューブは渡さない。だが、お前をここで殺す気もない」


レイラは、しばらく無言でカイを見つめていたが、やがてナイフを収め、静かに言った。


「…なぜだ?」


「理由はない。借りは返したぞ…。」


そう言うと、カイはレイラに背を向け、再び階段を上り始めた。キューブを届ける、という自分の仕事を完遂するために。


レイラは、その場に立ち尽くしていた。カイの背中を見送りながら、その表情には、これまで見せたことのない、複雑な感情が揺らめいていた。赤いスカーフが、破壊された壁から吹き込む風に、静かにはためいていた。


カイは、最上階へと続く長い階段を、一歩一歩、確実に上っていく。だが、彼の足取りには、迷いはなかった。荷物を届けた後、何が待っているのかは分からない。報酬を受け取れるのか、それとも更なる追っ手か。レイラは、そしてキューブを狙う他の組織は、どう動くのか。


だが、カイは一つの選択をした。過去に決着をつけ、自分の意志で未来へと歩み出すという選択を。


タワーの最上階に近づくにつれ、東の空が、わずかに白み始めているのが見えた。


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