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糸ー紡がれる組曲  作者: 漱石
1/1

第一章 春はまだか


1

 金曜日の夜は、サラリーマンたちにとって仕事からの解放の時である。たとえ二日後には仕事が待っていたとしても、息をつけるのだ。

 居酒屋は、そんな人々の集まりだった。

そんな中に、白髪混じりの男二人が机を挟んで向かい合っていた。

「まあ、飲め」白髪、短髪の男が言った。

向かい合わせに座る同様に白髪混じりの男は、気の進まぬ表情だがそれでもおずおずとお猪口を差し出した。痩せ肩で、銀縁めがねだが、めがねの奥の目は鋭い。仕事は有能なのだろう。

 だが、今はその視線は、優しくて弱い。

 「戴くよ、真之兄さん」

「隆之と差し向かいで飲むなんて久しぶりだな」

 真之兄さんと呼ばれた白髪・短髪の男は、浅黒い叩き上げでのし上がった苦労のしわを顔に刻んでいた。

兄弟は、申し合わせたように同時にビールを飲み干した。

 しばらくお互いの仕事や家庭について話した。短髪・白髪の真之は、しばらくすると、咳払いをして話題を変えた。

「…さてと、そろそろ今夜の本題の話を始めようか」

隆之は、肩を落としてうなだれた。

それには理由があった。

 昨夜、珍しく残業もなく定時に帰宅でき家族揃って夕食ができたのである。

 その直後、隆之の上機嫌な夜を一本の電話が台無しにした。

「あなた、お義兄さんから電話」

隆之は受話器を受け取り、

「…俺だよ。兄さん何の用だい」

妻の雪子の不機嫌なふくれっ面を横目に見つつ隆之は答える。雪子にも聞こえるほどの声で義兄の話に応答する夫が、雪子には不満だった。

「…わかったよ。明日の八時だね。必ず行くよ」

以上の会話の上で、並木兄弟は居酒屋にいるのだった。

「実は、お前の娘冬子ちゃんに仕事というか依頼があるんだ。

 冬ちゃん今は無職だろう」

隆之は、渋面を浮かべて兄を見る。

 真之は、弟の痛いところを不遠慮についてくる。

「まったく、冬子が勤めてる会社で女子社員が自殺したからって、無理矢理辞めさせることもなかろうに」

 「兄さん、俺だって冬子のことを考えて…」

 隆之の声を真之は手で抑える。

 「悪かった。そうだよな、父親として娘はかわいいものな。

 で、俺にとってもかわいい姪なんだ。その冬ちゃんに俺は仕事を依頼するんだ」

 「この不景気にまともな仕事なんだろうね、兄さん」

 真之は、うなずく。

 「俺の勘が正しければ、この仕事は、冬ちゃんにしかできないかもしれない!」

 隆之は、兄の大袈裟な言葉に、内心呆れながらも娘のことなので、姿勢を前屈みにした。

 花金の夜、居酒屋は、サラリーマン達の話に時は費やされていく。

 そのなかに、白髪頭の男が顔つき合わせて話し込んでいる光景は、滑稽なおかしみを滲ませていたが、それをも含めて、夜は更けていった。

             2

古めかしい板張りの雨戸は、昨夜の雨に濡らされて、滑らかに動かなかった。それを懸命に動かそうとする声がする。

「えい、うん、なんで動かないのよ。動きなさいよ」

声に張りがあり、まだ十分に青春の華やかさを感じられる。声の主は若い女性のようだ。

女性の声に根負けしたのか、頑健に抵抗していた板張りの雨戸が動き出した。

やがて、カーテンコールに応えるカーテンのように滑り出し、部屋に朝日が存分に降り注いだ。夏の強い陽射しではなく、冬の冷気を和らげる優しげな光を注いでいた。

 「ふう。いい天気」

左手を額にかざして空を見上げる。

空は、雲一つない蒼い顔を女性に見せていた。

深呼吸すると、大股に歩きだしキッチンに顔を出した。冷蔵庫から野菜ジュースを取り出し、豪快に立ち飲みで飲み干す。

「なんですか。いい歳した娘がはしたないわね。着替えてきなさい」

「良いじゃない。私は哀れな無職の身。慌てて着替える必要はないのであります」

と、おじぎまでした。

「冬子!」

母の剣幕に驚いて、冬子はキッチンを飛び出した。

赤い毛糸のセーターに、ロングスカートというスタイルで、冬子は戻ってきた。

「これでいいでしょ」と、冬子。

母の雪子は、値踏みするような視線で娘をしばらく見ると、無言で頷いた。

「朝御飯にしましょう」とトーストを乗せた皿を、冬子と自分の前に置き、カップに紅茶を注いだ。

しばらく無言で母娘はトーストを齧っていたが、雪子がまた話し出した。

「…あなたが今無職なのは、父さんや私の早合点だったのは認めるけれど、心配だったのよ。あなたが勤める会社のあるビルでストーカーで若い女の子が、飛び降り自殺したじゃない。もしも冬子がそうなったらって、お父さんも私も気が気じゃなかったんだから」

冬子は、眉間に皺を寄せて答える。

「その話を何度するのよ!それに会社を辞める決断をしたのは、私なんだから、別に母さんやお父さんを恨んでなんかいないわよ」

 実は、両親には秘密だが、勤務していた部の部長に、しつこく言い寄られ、不倫関係を求められていたのだ。彼女は、毅然とした態度で断ったのだが、それを逆恨みして、上司は彼女にセクハラを繰り返していたのだった。耐え切れなくなった冬子は、退職を決意し、辞表を提出しようとした矢先に、セクハラが原因で、部は違うが同僚の飛び降り自殺事件があり、そのニュースを見た父から、

 「こんな所で働かなくてもいいぞ。早く辞めなさい」と言われて、渡りに舟と事後の引き継ぎもーお茶くみや書類のコピー仕事ばかりだったがー早々に退職した。

 退職金は僅かだった。

後日、会社に勤めていた女子社員が、大量に辞めたと、冬子は噂に聞いた。

真実を話したら、母は卒倒するかもしれない。

          ★

「それはそうと、真之おじさんが今夜くるそうよ。冬子に頼みたい仕事があるって」

「真之おじさんが来るの。私、苦手なのよね」

 「なんですか、おじさんに向かって」しかし、たしなめる雪子の表情も歪んでいた。

 「お母さんもそうなんでしょ」冬子の指摘を否定しようとした雪子だったがうなずいた。

 「まあ、本音言うとね」と、舌を出した。

 朝のキッチンに母娘の笑い声があった。

            3

一月下旬の大寒を過ぎたばかりの寒気が残る夜、真之は弟の家を訪れた。

 黒革のコートに黒い帽子紺色のネクタイという姿は、一昔前のスパイ映画を思い出させた。

「いらっしゃい、兄さん。寒かったろう」

 隆之は、帽子を受け取りながら言った。

「ああ、今夜は冷えるな」

 「おじさん今晩わ。お久しぶりです」

 冬子は、父の背中から顔を出して、えがおで挨拶した。

 「やあ、冬ちゃん。また背が伸びたね。それに美人さんだ」

 真之は、笑顔で言う。

 雪子は、無言で頭を下げた。引きつった笑顔を隠すために。

外は寒かったが、リビングはエアコンが効いて暑いほどだ。

ソファーに家族全員が座った。

真之は、出されたカップのコーヒーを一口飲むと、話を切り出した。

「実は、冬子にお願いしたい仕事があるんだ」

「どんな仕事なんですか、おじさん」

「俺が編集長をしている出版社に契約社員として来てくれないか。そして、ある作家の秘書として勤めて欲しいんだよ」

冬子も隆之も雪子も言葉が出てこなかった。

「いきなりで驚くのは当然だが、冬子ならできると俺は思ってるんだ」

「ちょっと待ってよ。作家の秘書なんか私にはできないわ。第一、その作家の名前すらおじさん教えてくれないじゃない」

「そうだったな。どうも先走るのは俺の悪いところだ。『副島隆三』というんだが、冬子は聞いたことないか」

冬子は目を丸くした。

「知ってるわ。実は親友が大ファンで、無理やり何冊か読まされたわ。そ、そうね。素人だから批評なんてつもりはないけど、いい小説書くなあと思ってるわ」

と、戸惑いながら答える。

「でも、本に必ずある、"著者近影"がなくて、謎めいているって、親友はいってるわ」

「実は、出版社の横のつながりで、まだ噂なんだが、副島隆三が、芥川賞の候補に上がってるらしい。だから、うちの社から彼の本が出れば、ベストセラー間違いなしだと思うんだ」

冬子の眉が曇る。

「私が、その副島さんの秘書になって、小説を書かせろなんて無理よ、おじさん」

冬子は拒否した。それに合わさって、今まで黙って二人の会話を聞いていた母の雪子が口を挟んだ。

「もう、我慢できないわ。家の大事な娘をなんだと思ってるんですか」

 普段は、おとなしい”良妻賢母”だと思っていた義理の妹の剣幕に、真之はたじろいだ。

 ため息を一つつくと、

 「そうだな。雪子さんの言うとおりだ。俺が身勝手過ぎる。わかった諦めよう。この話はなかったことにするよ」

 冬子は叔父の悲しげな横顔をみつめていたが、真之に言った。

 「おじさん、本当に私にそんな力があると思っていたの」

 真之は、冬子に向き直り、はっきり言った。

 「ああ。冬子には人をやる気にさせる言葉の力があるって前から思ってたよ。大学を卒業するとき、よっぽどうちの会社に来て欲しいというつもりだったんだがな」

 冬子はしばらく考えるように自分の手を見つめていたが、顔を真之に向けると、

 「分かったわ。おじさんの話受けます。副島さんも承知してるのよね」

 「副島さんには伝えるが、一応面接してもらうことになる」

 「じゃあ、その面接に不合格だったら…」

 冬子の顔が曇る。

 「冬子の再就職は、なしということになるな」

 真之は、冬子に挑むような視線を向ける。

 「上等よ。おじさん」

 「冬子、そんなこと言っていいのか」

 隆行が口を挟む。

 「お父さん。私も一人の女性として立ちたいの。このままではいられないわ」

 「心配するな。冬子は我が社の契約社員ということになる。だから無職ではなくなるが、もし秘書になれたら、我が社のサラリーと副島隆三の秘書としての給料も出る」

 冬子はその条件に心を動かされた。

 わずかな退職金も底をつこうとしている冬子なのだった。

 「あと一人相談したい人がいるの。その人に相談してからでいいでしょ、おじさん」

 「まあ、いいだろう。ただし遅くとも2月中には返事をくれよ」

 冬子はうなずいた。

4

数日後の昼前に、冬子はショルダーバッグを引っかけて、外出しようと玄関から降りた。その時、彼女を雪子が呼び止めた。

 「待ちなさい、冬子」

 「なに、お母さん。私急いでるの。待ち合わせに遅れそうなのよ」

 「そのお相手は、町田奈津子さんでしょう。先日の件で相談に乗ってもらうんなら、ホテルでのランチぐらいごちそうしなさい。あんな気持ちの良い方が、あなたのお友達でいてくれて、わたしはどんなに安心か。

 だから、そんな友達は大切にしないとね」

 「お母さんの言うとおりだけど、軍資金がないのよ」

 「はいこれ。使いなさい。私のへそくりからだから安心して」

 と、二万円も渡してくれた。

 「助かるわ。それにしてもお母さん、へそくりなんかしてるのね」

 「それぐらい主婦のたしなみよ。さ、いってらっしゃい」

 冬子は、自宅を飛び出した。

     ★

 町田奈津子は、少しだけ大柄な体を揺らしながら、親友が現れるのを待った。週末の昼前に、高級ホテルで待ち合わせというシチュエーションは、奈津子にとって馴染みのないことだった。

不安な視線をドアに向けたところにドアを開けて冬子が入ってきたので、彼女は、ほっと胸を撫で下ろす。

「ごめんなさい。"相談がある"って私が言いながら遅れて」

「実は、奈津子に折り入って相談があるの」

奈津子は、ふくよかな顔に柔らかな笑顔を乗せて言う。

冬子の話を聴きながら、奈津子は嬉しく懐かしい既視感を感じていた。


中高一貫校で二人は同じクラスの隣の席同士になった。自然に会話するようになり、冬子も奈津子も文芸部に入り、『赤毛のアン』や『足長おじさん』と少女文学について熱く語り合ったのである。勉強も二人でクラスの一位、二位を競いあった。やがて、大学へと他の友人達は、進学するに連れて、連絡を取らなくなったが、冬子だけは、昔と変わらない友情を向けてくれる。

奈津子はそれが嬉しかった。

「…で、私どうすればいいのかしら」

「話は分かったわ。つまり要約すると、冬子はその仕事を是非したいのよね。私に背中を押して欲しいのよね」

冬子は苦笑いを浮かべる。それは、親友の"イエス"の証だ。

奈津子は、おもむろに頷いた。

「ぜひやるべきよ。副島隆三の大ファンとしては、私がやりたいぐらいだけれど、冬子に譲るわ」

冬子は、親友の後押しを受けて、不安な気持ちが和らぐのを感じた。

二人で、ホテルの少し高いランチを楽しんだ。

「ああ、美味しかった。お礼に今から映画見に行かない。冬子が見たがっていた映画の前売券二枚あるの。悩むのはほどほどにして、行きましょう」

奈津子は笑顔で冬子を誘う。

冬の午後の日の傾きは早く、繁華街を歩く人々の足元を暗くしていく。

足早に、駅へと向かう、冬子と奈津子だった。

辺りはすっかり暗くなった夜の帳の中、冬子は帰宅した。

「ただいま、お母さん」

雪子は玄関で仁王立ちで娘を出迎えた。

「お帰り。遅くなるなら電話しなさい。心配するじゃない。まあ、奈津子さんが一緒だから、そんなに心配してなかったけれど」

雪子の中では、奈津子への信頼度は高い。

「それで、決心はついたの」

「ええ。私、おじさんに受けますって、今から電話するわ」

母の雪子は、小さくため息をつくと、

「そう。お母さんはもうあれこれ言わないわ。がんばりなさい。お父さんは出張だから、私から連絡しておくわ。疲れたでしょう。今日はお風呂に入って早く寝なさい」

「はい」

冬子は答えると、階段から家の庭が視線に入った。花の名前に詳しくない彼女だが、一輪花びらを伸びをするかのように、彼女に向いた花が咲いていた。

(安心なさい)

その花が語りかけているように冬子は感じた。

 


 


 




 

 

 

 

 

 




 



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