クリスマス特別編-12
和装の老人、井上の周囲を無数のつむじ風が駆け巡る。
右から左へ、左から右へ。
前から後ろへ、後ろから前へ。
彼の元にまで届いた風は西陣織りの着物の裾をはためかせるが、井上に動じる様子は無く、むしろ風を楽しんでいるかのようですらある。
旋風の正体。
それは老人の姿をした悪魔ハズウェルであった。
悪魔は山羊の下半身に魔力を漲らせて目にも止まらぬ速さで駆け続けていたのだ。
ハズウェルは井上が自身の動きに対応できていない事に気を良くして犬歯を剥き出しにして笑う。
(……先ほどのはまぐれか……)
自分の喉に突き刺さっている木片。
それがどこかハズウェルの胸の奥でしこりになって残っている。
一応、井上の後方から黒文字なる木片を持っている右手側を避けて左側を抜けて、十分な距離を取って左から右へ、右から井上の後ろを走り抜けていく。
ハズウェルは井上が自分の動きを追えていない事を確信する。
井上の前方を左から右へ駆け抜けた時、井上の眼球は微動だにしなかったのだ。
(……ならば、今度こそ!)
ハズウェルは井上の背後から一直線に襲いかかった。
骨と皮だけのような細い首を狙って右腕を振るう。
「何!?」
またもやハズウェルの腕は宙を切り、悪魔はバランスを崩して転げそうになるのを必死で食い留まる。
井上は先ほどまでいた位置から1歩、左に動いた位置に立っていた。
そして井上の位置を確認してホッとした瞬間、ハズウェルの首の左側に冷たい感触が走り、一気に血液が噴出した。
いつの間にか、いや、恐らくは井上が背後から来たハズウェルを躱した瞬間に黒文字で悪魔の頸動脈を断ち切ったのだろう。
ハズウェルは首に手をやり、治癒魔法で切断面を閉じて止血する。
「貴様! 見えていなかったのではなかったのか!?」
「後ろから来たモン、見えるワケが無かろう?」
「何だと!」
井上は「言わなくとも分かるだろう」と笑う。だが、すぐに気を取り直して異国の悪魔に説明してやった。
「お主、一応は茶道の事は知っておったようじゃな?」
「ええ……」
「それでは聞くがの? どうしてワシら茶人は“客”に背を向けて茶を立てられると思う?」
「……背中に目が付いているとでも?」
「まっ、似たようなモンじゃな……」
「馬鹿な!」
井上が顎を撫でながら意味深に笑う。柔和そのものといった微笑みでとても戦闘中の敵に向けるものとは思えない。
「“客”を“もてなす”ために自己すら滅して茶室と調和する事で茶人は茶室を完成させる。調和とは溶け合う事じゃ。すなわち陰は陽へ、陽は陰へ……」
「世迷い事を!」
「そうかの? だが実際に自分で体験してみたじゃろ? 茶人というのは茶室で起こった事なら背後の事でも良く分かるモノなんじゃ」
「茶室だと! 茶室などどこにある!?」
ハズウェルは半狂乱になって両手を振り、周囲を見渡す。
一々、確かめるまでもない。場所は茶室などではく子羊園の園庭だった。
だが、井上の目が光ったような錯覚をハズウェルは覚えていた。
「ワシは『野立』即ち野を茶室とする事を得手としておる」
「なん……だ……と……」
ハズウェルはまるで後頭部を鈍器で殴られたような感覚を味わう。
悪魔であるハズウェルはその感覚を他人に与えるのみで、自身で味わった事が無かったために知らなかったが、人はその感覚を「絶望」と呼んでいた。
「ところでお前さん。アレは作れんのかの?」
井上は急に話を変えて、アスタロトとベリアルが戦っている結界を指差す。
「……ベリアル様ならばともかく、私には無理ですね。それが何か?」
「いや、何、お前さんの技、あれはあの結界の中でこそ真価を発揮するものではないかの?」
「…………」
ハズウェルには「痛い所を突く」という言葉を声にする事が出来なかった。
それを言ってしまったら井上に対して勝ち目が無いと言うような物だったからだ。
確かに井上の言う通り、ハズウェルの超高速移動魔法はリングという閉鎖空間でこそ威力を発揮する。リングに張り巡らされたロープを使う事で方向転換の際の減速も最小限に抑える事ができるのだ。
「ま、それはともかく、リングを作れないという事はお前さんはアスタロトよりも格下なんじゃろ? どうじゃ、このままとっとと帰ってくれんかの?」
「な、何を!?」
「あのベリアルとかいうのはワシらで何とかするでの、アスタロトの事は放っておいてはくれんか?」
「何故、貴様は、貴様らはアスタロトに肩入れする!?」
ハズウェルは叫んでいた。
目の前の老人だけではない。テンガロンハットのガンマンも、武骨な戦闘ロボットを操るツナギの男もだ。
何故か彼らは悪魔であるアスタロトの救援に現れたのだ。それもベリアルたちを前に仕方がなく手を組んだという様子でもない。むしろ彼らが駆けつけた事にアスタロト本人ですら驚いていたのだ。
さらに言えば子供たち、ハズウェルと同じ悪魔であるアスタロトが駆けつけた時、子供たちは一様に希望を取り戻したような目をして彼女を見ていた。
何故、同じ悪魔で自分たちとアスタロトでこうも違うのだという思いがハズウェルを叫ばせたのだ。
「あの娘、アスタロトは良い娘じゃよ。自分の好き勝手に生きると言って憚らんし、時には思いつきで人様に迷惑をかけるがの。それでも非道はせんし、見逃しもせん。大人を困らせて笑っていても、子供や年寄りのような弱い者を虐めるような事もせん。そっちの方が簡単なのはお前さんも分かるじゃろ?」
幾多の戦いを乗り越えてきたであろう茶人が何故か寂しそうな顔をする。
「そうさな。お前さんもなんならヒーローにでもならんか? このH市はお前さんみたいなのが真面目に生きるというならいつでも大歓迎じゃ。どうじゃ? 『ゴートマン』とか?」
「……ふ……」
「ふ?」
「ふざけるな! 数千年もこうやって生きてきて、今更……!!」
ハズウェルは再び駆け出していた。
山羊の蹄で大地を蹴り、魔力で加速して縦横無尽に駆ける。
一方の井上は落胆したような顔を見せたが、すぐに気を取り直して懐に手を入れる。
茶人が見せた寂しそうな顔。その理由は自身の説得が恐らくは実らない事を知っていたからだった。
懐から取り出したのは小さな青い布袋。錦絵の刺繍が施された絢爛な物だ。
井上は慎重に布袋に付けられ縛られた紐を解いて、仲から漆塗りの容器をとりだす。
そして研ぎ澄まされた感覚で悪魔が自分の前方に来る瞬間に容器の中身を宙に撒いた。
「……! な、なんだ? 目潰し?」
ハズウェルの魔力で加速された思考能力は宙に撒かれた物体を捕えていた。
緑色の粉末。非常に細かい微粒子状の何かが撒かれていたのだ。
避けるか? それとも、このまま駆け抜けるか?
今ならばこのまま減速せずに走り抜ける事で微粒子を浴びずに済むと判断したハズウェルは両脚へさらに魔力を集中。
だが、次の瞬間、ハズウェルの右足へ激痛が走った。
何かが足裏に突き刺さった痛みにハズウェルは転倒して、慣性の勢いで地面を滑っていった。
「こ、これは……!?」
足裏に刺さっていたのは菓子切り楊枝であった。
だが、先ほどまで井上が使っていた黒文字の菓子切り楊枝ではない。鈍く光りを反射するその素材は銀だった。悪魔や吸血鬼など邪悪な存在に効果を発揮する銀である。
足裏の銀製品に驚愕しているハズウェルの頭上から例の微粒子が降り注いできた。
非常に細かいその粉末は目に入れば厄介そうな物だが、それ以上の物ではなかった。少なくとも毒物や刺激物の類ではない。
ハズウェルは不思議に思ったが、はたと気付いて緑色の粉末を指ですくって口へ運ぶ、……苦い。
「まさか……。これは抹茶?」
「いかにも」
井上は袖から長い竹製の茶杓を取り出してハズウェルに近づいてくる。
「貴様! 抹茶の粉末で私の注意を頭上に向けさせて、その隙に地面に銀の菓子楊枝を……!」
「いかにも」
邪悪なモノを祓う効果のある銀でできた傷は治癒魔法でも再生に時間がかかる。
スピードを武器とするハズウェルは丸裸の状態で井上と戦わなくてはならなくなっていた。
「さあ! 『一期一会』の時間じゃよ!」
茶道の神髄「一期一会」を井上が口にした時、それは目の前の標的の死を意味する。
仕掛けて仕損じ無し。
1人の標的のために行われる茶事はたったの1度だけ。
これぞ「一期一会」也。
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