ハロウィン特別編-3
熊本という地名は古くは「隈本」と書いていたという。
それをかの加藤清正公が城を築く際に、「隈」の中に「畏れる」という字が入っていることを嫌って「熊」の字を充てるようになったのだと歴史書に記されている。
豪傑として知られる清正公の人柄を偲ばせるエピソードの1つではあるが、だが何故、古の熊本の人々は自分たちの住む土地に「畏れ」という字が含まれた漢字を使ったのだろうか?
そもそも後に「虎殺し」の逸話で知られる豪傑の加藤清正公が熊本へ配された理由とは何だったのだろうか?
古い時代の話であれば、まだある。
熊本の隣県、長崎にて寛永14年(西暦1637年)に島原の乱が勃発したが二天一流で知られる剣豪、宮本武蔵も反乱を鎮圧する幕府軍側として参戦し、その後、細川忠利に熊本に招かれて厚遇を受けたという。
武蔵も熊本の地で広く門弟を募り二天一流を広めた。
だが二天一流は類稀な豪剣として知られる剣術であり、刀2振りを用いるのも武蔵の膂力に刀が耐えられずにすぐに壊れてしまうからだ。同じように武蔵は木刀を好んでいたと知られているのも竹刀では彼の剣に耐えられないからである。
熊本の武士たちは一体、そんな豪剣を修めて何と戦うつもりだったのだろうか?
剣術の話をすれば熊本の隣県、鹿児島の剣術も異質である。
東郷重位を流祖とする示現流の極意は「一之太刀を疑わず」「二之太刀不要」という初撃必殺を旨とするものであり、重位はブ厚い将棋盤を刀で叩き斬ったという。
事実、近代に入って西南戦争で薩摩の士族と戦闘した官軍の兵の中には、自分の刀の峰を頭部に食い込ませて絶命していた者が記録に残されている。これは示現流(もしくはその傍流)の剣撃を刀で受けようとした結果である事は言うまでもない。
しかも示現流にはその雲耀の初撃から繋げられる連続技も用意されているのだ。
明らかに「人間」に対して用いるにはオーバーパワーである示現流を使う薩摩の武士たちの敵とは何だったのだろうか?
そのいずれの答えも吸血鬼が関係している。
熊本の人々が「畏れ」ていたのも、「虎退治」の加藤清正公が熊本に配された理由も、日本一有名な剣豪が熊本に招かれたのも、熊本や鹿児島の武士たちが過剰なまでの剛剣を修めていたのも、全ては熊本の地に発生する吸血鬼に関係していたのだ。
他にもまだ熊本とその近隣に吸血鬼の活動の痕跡を見る事ができる。
加藤清正公の兜は「杭」のように尖っている物が有名であり。
熊本の隣県、鹿児島を治めていた島津氏の家紋は丸の中に「十字」を配したものである。
同じく隣県、長崎の対馬には日本最古の「銀」山遺跡がある。
九州で特に多かった禁教下の隠れキリシタンたちがイエス像やマリア像を彫っていたのは「鏡」である。
また観光客にも人気がある熊本の郷土食、馬刺しも熊本ラーメンも「ニンニク」が欠かせない物である。
そして江戸時代の幕藩制においては各藩ごとに「お国言葉」と呼ばれる方言が生まれているが、その中でも九州各藩の方言は独特で隣県の人間でも理解不能である事は読者諸兄も良く知っている事だろう。
これも「招かれなければ、初めての家には入る事ができない」という習性ゆえに熊本から侵攻してくる吸血鬼を防ぐための知恵である事が近年の研究者から指摘されている。
そして真に恐ろしいのは、九州の人間たちはその豪胆な気性ゆえに長らく吸血鬼を抑え込んできたという事実であろう。
他にいくらでもおっとりとした気性の県などあろうに吸血鬼たちは阿蘇の地を離れる事はないのだ。
その事は阿蘇と同様のカルデラ地形である屈斜路カルデラが古代アイヌ民族によって水没させられた事と関係しているのであろうか?
また阿蘇という地名に含まれた「蘇り」という字もそれに関係しているのか。
それを知る者は誰もいない。
彼ら吸血鬼自身を除いて。
ワイ「そもそも後に「虎殺し」の逸話で知られる豪傑の加藤清正公が熊本へ配された理由とは何だったのだろうか?」
ワイ「ちょっとwikiで調べてみるか……」
wiki「(虎殺しの逸話について)本来は黒田長政とその家臣の逸話であるが、後世に清正の逸話にすりかえられている」
ワイ「\(^o^)/」




