Ⅶ それでおしまい…?
すべてが始まった天秤橋の上で僕とダナルは無言のまま向き合った。頬を打つ風が冷たい。
僕が向こうの世界の首都マリアハルの天秤橋から【裏返しの世界】に飛び込んだ一週間前もこんな夜だった。月の位置こそ異なっているけれど、今夜と同様、人気の無い、暗くて寒い冬の夜だった。それなのに金塊をいくつも詰め込んだ外套を着た僕の体は熱くて、川に飛び込んだ瞬間は氷水を心地よく感じたほどだった。
ふと思い出して、僕は再度着こんだ外套のポケットから残っていた金塊を取り出して、元の世界へ戻るときの心得を説いていたダナルの掌に押し付けた。
「なんだよこれ、もらえねーよ」
「いいのいいの、アルフレドが必要経費をちゃんと払ったのはわかってるけど、僕なんちゃって大富豪なんで」
色々無理聞いてもらったし、多すぎるっていうならその分シエラとユミンの様子見ててやってよ。
ことさらに軽く言うと、ダナルは照れ隠しだろう、舌打ちをした。
「ギイ、お前、またこっち来んなら連絡しろよ、案内とかしてやっから。そんときは金いらねーから」
「やっだダナルさんかっこいい……!」
「おーよ、惚れんなよ?」
「やっだぁーどっちかっていったらぁー最初はダナルさんの方がぁー」
「だまれええええ」
人通りがないのをいいことに、声をひそめることなくふざけた応酬をする。楽しいなあ。心底そう思った。こんな同年代との会話を最近してなかった。ビジネスの交渉と勉強ばかりしていたから、のびのびと自由に笑えたのは久しぶりだ。
「でもさあ、お前がこっちに来たの、あのシエラって女のためなんだろ? 色々やってやったこと、言わなくていいの?」
僕はかぶりを振るだけで答えに代えた。
『――私の【半身】が何不自由なく暮らしているのが妬ましいわ。
そんな私が醜くて、大嫌いよ』
あのとき、シエラはそう言った。
僕を嫌う当然の権利があるのに、彼女はそうしないで己を厭わしく思い続けていた。自分自身しかよすがとするところのない、誇り高いシエラにとって、それはどれほど辛いことだったろう。
そんな僕が彼女を幸せにしようとするなんて、なんておこがましいことだろう。
そうして、僕はあのとき決めた。僕の挑戦が成功するか否かにかかわらず、僕の関与をシエラから隠し通す。僕は一言もシエラと喋らないし、僕が【裏返しの世界】にいたことをシエラが知ることはない。
僕は【半身】を幸せにすることに挑戦しはじめた最初の頃、人を幸せにするのは簡単だと思っていた。相手を観察し、機会を掴んで一気に介入すればどうにかなると思っていた。シエラの意向など一顧だにせず、完全な自己満足で物事を進める予定だった。シエラを救い出すのは僕の義務であって、見返りなど何も要らないと思っていた。
でも、そうじゃなかった。
シエラが僕の写真を指差したとき、僕が【半身】であると口にしたとき、正直に言おう、僕は嬉しかった。シエラが僕の存在を認識しているということを知って。僕がシエラに彼女自身を嫌わせる原因だということを知ってもなお、だ。
シエラの傍にいるようになって、彼女を知るにつれて僕の意識は代わった。頑なさに呆れ、苦言を呈したくなり、その反面その意思の強さを尊敬するようになった。でも、彼女が弱さを垣間見せたときは、僕にもっと寄りかかればいいのにと願った。僕はいつの間にかシエラの好意を求めるようになっていた。そして、シエラを幸せにするのは、どんどん難しくなっていった。
今なら、それがなぜかわかる。
シエラ、君を幸せにすると言いながら、僕が幸せにしようとしていたのは僕自身だった。いくら有り余る富があっても他人を幸せにすることは出来ない。それが【半身】であってもだ。人が幸せに出来るのは自分自身だけだ。自分以外の人間の幸せについては、それこそ、天秤が傾くよう女神に祈るほかない。
だから、ずっと祈っている。自分を自分自身の意思で縛り付け、助けを乞うことも、甘えも許さない。そんな君がいつか幸せになれるように。
ダナルは僕が正体を明かさない訳を追求しないでいてくれた。腹の立つにやにや笑いを浮かべながら、だったけれど。
「ま、お前の金の使い方、俺は嫌いじゃねーよ」
「ありがとう」
一応の礼儀として御礼を言って――僕は目を見開いた。ダナルの背後から物凄い勢いで闇の塊が迫ってくる。【ヴィジター】であることに加えて、その効果の真偽はともかく【茨鎖の錘】をも体内に取りこんだから、死魔を引き寄せるだろうとは思っていたけれど、予想以上に早かった。
避ける間もなく突進してきた死魔に飛びつかれて、僕は後ろにバランスを崩した。ダナルの驚いた顔、空に浮かんだ月の順に目に映る。ぐらっと不安定な浮遊感に足下をすくわれ、背中が手摺りを擦る感触がした。頭の後ろの毛が逆立つ。
そうして、僕は、天秤橋から再び転落した。
そして、世界の境界を越え、自分の属する世界へと戻った。
死魔は流水が弱点だし、そもそも世界の境界を超えられないから、墜落した僕を追いかけてアルシ河に落ちた瞬間に消滅した。僕は冬の最中に水浴びをする羽目になっても風邪ひとつ引かず、元気だ。執事のアルフレドとセバスチアンは羊のぬいぐるみから意識をひきはがし、元通りの姿で働いている。
一週間【裏返しの世界】に滞在したことによるこちらの世界への影響といえば、この二人の「死魔も可哀相に……巻き込まれて無駄死にですな……」とか「また女装します? 似合っていましたぞ?」とかいう主人をちっとも敬わないいじりと、不在の間に溜まった仕事の量くらいか。と、能天気に考えていたのだが、どうやらそれは砂糖壺の中身を全部溶かした紅茶くらい甘すぎたらしい。
「お客様ですぞ」
ぼんやりと窓の外のミルクのように濃い霧を眺めていたら、書斎の外からセバスチアンが知らせてきた。仕事をさぼっていた僕は思わずびくっとし、その拍子にペンを落とした。
絨毯にインクの染みがつくまえに拾おうと、あわてて机の下にかがみこむ。廊下から客人とアルフレドの会話が聞こえてきた。
「ダナルとユミンは元気ですかな?」
「元気よ、ありがとうアルフレド。今回、ダナルがこっちに送ってくれたのよ。ユミンは来年から絵と服飾の勉強に留学すると決めてがんばっているわ。そのせいで今回来れなくてごめんなさいって」
まさか、いやそんな。
動揺して立ち上がることを忘れた僕の視界に、黒いエナメルの靴が現れた。視線を徐々に上にずらす。黒い絹の膝丈の靴下、濃紺のワンピースには白い大きな衿がついている。
あの学校で過ごした数日間、何回も目にした制服に身を包んだ少女が目の前に立っていた。
僕は、彼女が目の前に立った途端、以前と同じように喋れなくなった。沈黙に構わず、つややかな黒い髪の少女は僕の前にかがむ。
「最初からやり直しましょう。わたくしはシエラ。シエラ・クルー」
落としたペンを拾った彼女の暖かな手が、ペンを戻すついでに僕の手を握った。冴え冴えとした緑の目が僕を見据える。
だから、僕の口もそろそろ言葉を発さなくてはならない。
「わたし、あなたと話したいことが、たくさんあるの」