カロン
火の粉が舞っていた。黒い空へ立ち上っていく煙を見上げながら、彼女は無表情で佇んでいる。
業火に飲み込まれて崩れ去る大都市を、彼女はじっと見つめていた。
誰一人として逃がすつもりはない。
町を囲む要塞は崩落した。隔てるものが何もなくなった先で、餌を求めた獣達が荒野に低く唸る。
「これで良いのよ」
彼女は唇を動かさずに囁いた。彼女が彼を抱き締めると、彼は黙って涙を溢した。その雫は音もなく彼女の肩に落ちる。
見上げても上が見えないほどに高く築かれた塔が、礎から順に崩れ、上から落ちてきた階は下の階を押し潰しながら大破した。
依然として都市は燃え盛り、栄華を誇ったその姿は見る間に見る影もなくただの瓦礫と化す。
彼女は、未だ燃え盛る故郷に、静かに背を向けた。
行く宛などない。けれど、彼と一緒ならどこにだって行ける。
彼女は彼を愛していた。彼は決してそんなことを言ってくれやしないけれど、その心は同じであることを彼女は確かに知っていた。
死んだ人は、天国へ行くか地獄へ行くか、自由に選択出来るようになったという。どうせ、冥府の裁判官が言いくるめられでもしたんだろう。
カロンは一人で、船を漕いでいる。業務時間は朝10時から夜の6時まで。その時間外に死んだ人は、生憎だが冥府の入り口、裁判所の門前で待っていて貰うことになっている。
先代のカロンのときは、裁判所まで死者を連れて行くのがカロンの仕事だったこともあったそうだが、今ではすっかり道も整備され、橋がかかっているからその必要もない。
今日は地獄行きは一人もいなかった。否、今日『も』地獄行きは一人もいなかった。
恐らくカロンは、生前は少女だったのだと思う。鏡などにはついぞ縁がないので、自分の姿を見たことはないが、体の造形は、天国へ登っていく少女のものが一番似ている気がしたから。
川を、櫂で、一掻き、二掻き。
裁判所の裏手の船着き場に船を止めて、カロンは船の上でくるりと丸くなった。今日の業務はもう終わり。また同じような日々が明日からも続く。
どこか遠い遠いところにある地上に光が射して、生命が息を始めるまで、冥府も、休みである。
アイアコスが冥府の入り口に鍵をかける音が、冥府に、高らかに響いた。
カロン、と名を呼ばれた。
はい、と応じて、立ち上がる。
ミノスが親指で背後を指し示した。
地獄に行きたい人だってさ、とミノスは告げる。
奇特な人もいるもんだ、と、カロンは内心呟き、柵に結び付けていた縄をほどき始めた。
船に乗り込んだその青年は、大きく揺れた船によろめく。
良いかい、故人の意思を尊重するんだよ、とミノスは人さし指を立てた。
かつては天国と地獄行きは、ミノスたち冥府の裁判官が決めていたが、今は故人の自由である。天国はさぞや賑やかであるだろう。
そんな中、わざわざ地獄を選ぶ変人。
カロンは暗い水を割るように、船を動かし始めた。波などない水面、当然だ、波を起こすようなものは何もない。あまりに黒い水は何も映さない。誰だって絶対に身を浸したくはないと思うこの大河の底が、実は、楽園エリュシオンに続いていることを、カロンだけが知っている。
「君は、カロン?」
カロンは緩慢な動きで頷いた。
「驚いたな、カロンは男なのかと思っていた」
水面を見つめる男の後頭部を、カロンは静かに見つめた。
「こんなに可愛らしい少女が舟守をしていると知られたら、地獄行きを選ぶ人が増えてしまうな、そうしたら君も大変だろうね」
この期に及んで戯れ言を言う故人が、船縁を掴む。その真っ白な指先が震えているのを、カロンは見ていた。
「俺、生前、恋人と二人で、ものすごい罪を犯して」
私に懺悔して何になるのだろう、と、カロンは漠然と思う。カロンは神でもなければ審判でもない。
ただ、それで故人の気が済むならそれで良いのだ。それは故人に対する労りではない。哀れみでもなければ無償の愛でもない。職務だ。
故人の意思を大切にする、それがカロンの役割を継いだ彼女の使命だ、ただそれだけのこと。
「良心の呵責に耐えかねた恋人と一緒に、地獄へ堕ちようと言って、二人で毒を飲んだ」
カロンは、かこん、かこん、と、櫂が時おり船にぶつかる音を聞きながら、何もない虚空に視線をさ迷わせる。
「でも、俺は、すぐにその毒を吐き捨てた。隣では馬鹿正直に毒を服した恋人が眠っていた」
最低な男だ。
カロンは櫂で暗い水を掻く。
生ける人間の倫理観が、現在どのように変化しているのかは知らないが、人を殺すことは悪いことだという基本は変わっていないのだろうか。
「それから俺はしばらく逃れて、そして結局捕まって、処刑されて、このざまだ」
カロンは、返事をしなかった。この男がどのような末路を遂げたかなんて興味ない。ただ、もし反応を彼が望むなら、望むだけの哀れみを、同情を、いっそ慈雨のごとく美しい涙でも、その薄汚れた手に落としてやろうか。
「でも、裏切った恋人のことが忘れられないんだ。きっと俺との約束を馬鹿みたいに守って地獄へ堕ちた彼女の笑顔が、どうやったって離れない」
カロンは故人の意思を理解した。彼は地獄に行きたいのではない。彼は先に亡くした恋人に会いにゆきたいのだ。
最近では地獄へ行った人は全くいませんよ、とカロンは口に出した。
この振り分け方になってからというもの、わざわざ自分から好き好んで地獄へ行こうとする人はいないのです。
カロンは彼の奥底にある、楽園への憧れを感じた。それを覆い隠す、恋人への罪悪感。
「いや、彼女はきっと地獄で俺を待ってくれているに違いないさ」
私は、ここ数百年、故人を地獄へ送り届けた記憶がありませんよ。
故人は愕然とした様子だった。
エリュシオンに、行きたいですか?
カロンは船を漕ぐ手を止めて、船の舳先へ掲げていた、心もとない灯籠を掴み上げた。故人はカロンを見上げて、目を見開く。
あなたは天国へ行きたいのですか?
男の目が、大きく揺らいだ。カロンの真っ直ぐな瞳、灯籠、船縁、順番に巡っていく視線を、一呼吸遅れて追いかける。
「俺は、」
選んでください、とカロンは畳み掛けた。男は哀れな程に狼狽し、カロンから逃げるように、船尾に身を寄せる。船が小さく揺れた。
「……楽園に、行きたい」
カロンは僅かに頬を緩めた。
男に近付くように足を踏み出し、身を屈めると、船が船尾の側へ大きく傾く。手に持った灯籠で男の顔を照らして、カロンはそっと男の顎を掴んだ。
刹那、乾いた唇に自らの唇を押し付けると、船がぐらり、一際大きく傾いた、その勢いのまま、男の肩に手をかける。
こうして人を船から突き落とすのは、二回目ね、とカロンは囁いて、その肩を、強く、押した。
何の手応えもなく、元々体が後ろに傾いでいた男は、あっさりと水に落ちた。
行きなさい、底は楽園へ繋がる道よ。
カロンは唇を親指で拭いながら吐き捨てる。
ゆっくりと水に飲み込まれていく男の顔が、絶望に歪んでいった。カロンの言うことが信じられないか。それとも恋人の裏切りに衝撃でも受けたか。
冥府に着いた時点でお前がいない、それだけで恋人は全てを悟っただろうに、とカロンは囁く。
貴方はもう、恋人に対して一片も疚しいことがないだなんて世迷い言は言えないわね。
不貞がなかったと言い切れないわね。
船縁に片足をかけて、カロンは男を見下ろした。
これが、カロンに出来得る限りの、最大の地獄の罰。そのまま水底へ引きずり込まれていった男はきっと、罰されたがっていた。
そして、それはきっと、カロンも。
結局地獄までは行かず、裁判所に戻ると、お前は随分と甘いのね、とラダマントゥスに言われた。
エリュシオンを統治する貴女の方が余程甘い、とカロンは素っ気なく返し、踵を返す。
今日も、アイアコスが、冥府に鍵をかけた。籠った硬質な音が、水面をほんの少し、揺らす。
どれほどの時が経ったか分からないが、冥府も様変わりした。冥府の裁判官の三人のうち二人は務めを別の故人に譲り、自らは楽園へ昇っていったらしい。
「君がカロン?」
新たなアイアコスが、船の上で立つカロンを見下ろして微笑んだ。
「私は新しいアイアコスになった者だ」
アイアコスは笑顔で生前の名を紹介する。カロンは彼女を見上げて、心もち顔をしかめた。そこに含まれたのは若干の嘲りと同情、侮蔑。このアイアコスは長続きしないかもしれないな。
「君の名前は?」
カロンは暗い表情で、アイアコスを見上げる。
記憶の全てをレーテーに置いてきました、とカロンは答えた。
「……そっか、忘れたんだね」
アイアコスは慈愛に満ちた表情で、カロンの頭を撫でた。カロンは視線を落とす。
やっぱり、このアイアコスは、すぐにやめてしまうだろうな。それでも良い、故人はいくらだってやって来る。
カロンの予想通り、そのアイアコスは、百年も経たないうちに代替わりした。
冥府の裁判官も、幾度となく代替わりを繰り返し、感慨も何もない別れと出会いが繰り返された。その間にもカロンの仕事はほとんど無く、それは地獄へわざわざ行きたがる存在などないことを意味しているのだろう。
珍事は何かなかっただろうかと頭を巡らせ、そういえば今の4代前のミノスは確か、強制的にその役目に就かされたのだっけと思い出した。
地獄行きであると、まだ誰も何も言っていないにも関わらずそう思い込み、冥府の裁判官に危害を加えようとした。アイアコスの持つ鍵に手を伸ばし、それを防ごうとしたミノスを突き飛ばした。
冥府で働く者を、その地位から追い出した者は、強制的にその地位に就くことになっている。それは、冥府の裁判官などというものよりもっともっと上位の存在が定めたことであったはずだ。そうでなくばその仕事に就く者なんて、誰もいなくなってしまう。
突き飛ばされたミノスはそのまま勢い余って水に落ち、自動的にエリュシオンへと送られた。
「やっと、」と囁きながら水に沈んでいくミノスは、どこか安らかな顔をしていた。
カロンはミノスを突き飛ばした不届き者を櫂で殴り、無理矢理に裁判官の椅子に座らせた。
他の者は誰も、このような事態の対処法を知らなかったからだ。最も古くからこの冥府に勤めるカロンしか、不足の事態の対処法を知らなかった。おろおろするばかりのアイアコスとラダマントゥスを見上げて、カロンは、仕様がない、と溜め息をついた。
そういえば、自分もそうであった。
カロンは船の上で一人膝を抱える。先代のカロンを、自分は、この水底に突き落とした。彼女が地獄へと運ばれる最中のことだった。
「地獄までってどれくらいかかるの?」
カロンは目を瞬いた。櫂についた汚れを落としている最中に、無遠慮にも背後からかけられた声である。
「何かさ、みんな天国行くみたいだし、あたし他の人に迎合すんの、あんま好きじゃないんだよね」
カロンは振り返り、目の前で唇を尖らせる少女を見上げた。女でありながら男性のような格好をし、髪を短くしている。
地獄行きを希望ですか、とカロンは訊いた。
「うん、今のところそうしようかな、って。で、地獄までってどれくらいかかる?」
カロンはしばらく悩む。時間のことを訊いているのだろうが、もしかしたら値段について訊かれているのかもしれない。
「あんまり時間かかるのは嫌なんだよね」
時間の話だったことは察したが、それはそれで返答に困る質問ではある。
貴女が想像しているのと同じだけの時間がかかります、とカロンは答えた。すぐに着くと感じる者もいる。永遠のような時を経てやっと到着すると感じる者もいる。
「ふうん、なら一瞬で着くかな、まああたしの希望だけど」
アイアコスが顔を出し、カロンたちの様子を伺いに来た。胸元で、冥府の鍵が揺れる。
どうやら地獄希望のようですよ、とアイアコスは言い、そのまま裁判所へと戻ってしまった。
どうしますか、地獄へゆきますか?
カロンは少女を見上げて問う。彼女は「どうしようかな」と頭を掻き、それから迷いのない足取りで船へ乗り込んだ。前回、どれほど昔のことだったかは忘れたが、その時乗った青年は、随分と体勢を崩していたな、と思い出す。
申し訳程度に船を押さえてやると、彼女は小さく笑い、「どうも」と呟いて、軽やかな足取りで船底へ下りた。
貴女は、どうして地獄へ行こうと?
カロンは櫂を持ち上げ、黒い水に浸しながら問うた。彼女はしばらく黙ってから、快活な声音で答える。
「先に死んでいった人はたくさんいたし、あたしの後に死んでくる人もたくさんいるでしょ?
あたし、そんな、他の人と同じにはなりたくないんだよね」
こんなところで個性の発露。何とも馬鹿げた悪足掻き?
「生前は誰にも覚えて貰えない人生だったの、死後ぐらいは良いと思うんだけど」
まるでカロンの心中を読んだよう。彼女は澄んだ瞳でカロンを見据えた。
居心地悪くなって、カロンは櫂を掴んだ手を見下ろす。何度か足踏みし、虚空を眺める。
「それにしたって、えらく古めかしい服着てるんだね。あたしそんな服、博物館でしか見たことないよ」
はくぶつかん、とカロンは復唱した。それが何かは分からないが、彼女が自分を小馬鹿にしていることだけは察した。
「待って、怒んないでってば」
肩を竦めて彼女は言う。カロンはそんな彼女を一瞥し、別段怒っていない旨を伝えた。
「そうだ、じゃあ冥府について教えてよ」
冥府について、ですか、とカロンは呟き、目を伏せる。それが故人の意思なのであれば尊重せねばならないだろう。
「ほら、例えば、ここ、見た限り色んな国籍の人がいたけど、何で話通じてるの? あたしとあなたも、多分時代とかも違うし話通じないはずだよね?」
そのような事態が起こらない為に、冥府では言語は統一されています。天国に行きたいのか地獄に行きたいのか、希望が取れねば何の為の裁判官か分かりませんので。
「へえ……便利なもんなんだね」
誰が定めたものかは存じませんが、助かってはいます。
カロンとて話が通じない者の相手をするのは苦痛である。こうして話が出来るのはとても助かる。
無論、生前どんな言葉を話していたかなんて、全く、これっぽっちも、欠片も、記憶に残ってなんていないのだけれど。
「あなたはずっとここで?」
かつて生を全うし、そして冥府へ来てから、ずっと。ええそうですね、ずっとここで船を漕いでいます。
「どれくらいの期間やってんの? まさか世界が始まって以来なんて言わないよね」
さあ。ここでは時間の感覚は不確かなものですから。ただ、数えきれないほどの故人が、エリュシオンへ昇っていくのを見ました。
「エリュシオンって?」
楽園のことです。裁判官は三人いたでしょう、その内の一人、ラダマントゥスが治める、死後の楽園。
「じゃあやっぱりみんな天国に行くんだ」
そうですね、数百年前に青年が地獄行きを選択しましたが、結局はエリュシオンへ行きました。
彼女は興味を引かれた様子で身を乗り出す。船を漕ぐカロンを見上げて、目を輝かせた。
「どういう経緯?」
訊かれてカロンは口ごもった。あまり故人に聞かせるような話ではない。ましてや、これから地獄に行こうという、同じ境遇の人間には。
……その青年は、生前、恋人と共に地獄へ行こうと約束し、地獄へ行くことを選択したのですが、私はそのような恋人を運んだ記憶がありませんでしたので、そうお伝えしました。
「ひゃあ、残酷なことするねぇ」
色々と取り繕って伝えた概要に、彼女は呆れたように笑った。カロンはぼんやりと彼女を見る。
突き落とした青年が、静かに水に飲み込まれていく、その姿を、少女の向こうに見た。
この川の下は、エリュシオンに通じています。
彼女は身を乗り出して水面を見下ろした。へえ、と興味深げな溜め息一つ、あまりの暗さに何も写らない水面に飽きたのか顔を上げる。
何が起こったのかは大体察したらしい。
「他にここに落ちた人っていんの?」
大抵は事故です。何百年か前に裁判官が突き飛ばされて落ちたことがありました。
「え、そりゃすごいね、大事件だったんじゃないの?」
いえ、特に。冥府で働く者を、働けない状態にした場合、その仕事は張本人が継ぐと決まっているので。
「そういうことってよくあるの? そうじゃないときはどうやって引き継ぎ?」
何となく、その代の人間が、仕事を放棄したいと思ったときに、そのときにいた故人に直談判して代わって貰うのが通常です。
カロンは灯籠をぼんやりと見つめた。
冥府で働く者達が、入れ替わり立ち替わり、変化していくのをずっと見てきた。
「じゃあ、あたしがその仕事、代わってあげようか」
少女の申し出を、カロンは一瞬たりとも迷わずに棄却する。結構です、と頑なな一言で。
「……あなたはどうしてこんなところで船を漕いでるの?」
質問の多い人、とカロンは内心呟いた。私の訊かれたくないところばかり突く人だわ。
忘れたくないからです、とカロンは囁く。
ずっと待っている存在があって、もしかしたらまた、ここで会えるかも知れないと思ったから。
「誰かをずっと待ってるんだ?」
はい、とカロンは頷いた。
「ここに来てから、ずっと?」
カロンは無表情のまま目を伏せる。少女は微妙な表情で、カロンを上から下まで眺めた。少なくとも千年はここにいるであろうカロンを観察して、溜め息をつく。
「そっか」
船縁に頬杖をついて、少女は呟いた。
カロンは遥か昔に、その生を全うした。その待ち人が、今さら冥府に現れるはずもないのだ。
「その人は、もう、その……何だっけ、エリュシオンにいるんじゃないかな」
ひどく気を遣ったような声音で、少女はカロンに呼びかける。
カロンは頑なに、それはないです、と首を振る。
彼と、また相見えるまで、私はこの職を辞めるつもりはありません。
カロンは頑固である。少女はそれ以上何も追及はしなかった。
二人が黙りこくって、だいぶ経った頃、少女は口を開いた。
「地獄まで、あとどれくらい?」
カロンは暗闇をひたと見据える。
もう、それほど遠くはありません、とカロンは答えた。
「地獄に行ったらどうなるの? 天国とはやっぱり違うのかな」
冷え冷えとした空気に身震いして、少女はカロンを見上げる。
さして変わりませんよ、とカロンは応じ、櫂を動かす手を少し遅くした。
エリュシオンへ行けば、そちらで古い友人と語らいながらゆるゆると魂が浄化され、そののち新たな生命として生まれます。地獄へ行けば、罰を受けながら魂が浄化されてまた新しく生まれ直します、ただそれだけです。
「結果は同じなんだ、方法が違うだけ?」
はい、とカロンは頷いた。
遠くに見えた炎の揺らめきを、カロンは黙って見つめる。地獄のある対岸は、もうすぐそこに迫っていた。
その炎は久しぶりに見る。
「あれが地獄、」
少女は身を乗り出した。彼女は楽園に行くことを望んではいない。船から落ちないよう、じっと注視しながら船を動かす。
地獄に人が来るのは久しぶりのことですので、きっと地獄の番人も喜ぶでしょう。
カロンは呟いた。一体何百年ぶりだ。地獄に行く人が少ないのは悪いことではない、悪いことではない、が。ずっと人が来ないまま待ち続けるその空しさを、カロンは知っている。
ひょっとしたら役目を引き継いでくれと言われるやも知れません。ですが、それを受けるかどうかは貴女が決めることです。
ひょっとしたらではなく、十中八九言われるだろうな、とカロンは遠い目をした。他に人がいる環境で、なおかつ船を使って自由に行き来出来るカロンとは違って、地獄の番人は常に待機していなければならない。暗い川の向こうをひたすら見つめ続けるだけの仕事。
気が狂いそうだ。
しかしそれを、その体は許さない。冥府で働く者の体は、老いを許さない、病を許さない、勝手に職を放棄することを許さないのだ。
「へえ……。受ければ、そのまま、地獄の番人になるの?」
ええ、とカロンは迷いなく頷き、それから、心持ち眉を潜めて続けた。
しかし、大変な仕事ですよ。
船着き場に、船の先が、こつん、とぶつかった。櫂を止めて、カロンは、船底で膝を抱える少女を振り返る。
心細い表情だった。死んでまでも決断を強いられるのが嫌なら、初めからエリュシオンに行けば良いのだ。
カロンは暗い水を見下ろした。
この川は人を弱くする。
珍しく手なんて差し伸べて、カロンは少女に立ち上がるよう促した。少女は大人しく従う。
大丈夫ですよ、心配せずとも。
カロンは少女に囁いた。
生きているより苦しいことなんて、どこにもありやしないのですから。
少女ははっとしたようにカロンを見上げる。その瞳が揺らいでいた。
「……あなたは、どうして、その仕事を引き受けたの?」
心なしか震えている唇が紡いだ問いに、カロンはしばらくの間、何も答えなかった。似たような質問にはさっき答えた。二度も答える必要はないだろう。
少女は船着き場の上に上がると、ぐるりと辺りを見回す。カロンは共に上がることを許されない。さようなら、とカロンは口の中で呟いた。彼女のことは嫌いではなかった。
少女が一度カロンを見つめ、それから振り切ったように顔を逸らす。唇を噛んだその顔を、カロンは無表情で見ていた。
最後の質問、それくらい答えてやろうとカロンは口を開いた。
ーー私は。
私は、突き落としたのです。
少女はカロンを振り返り、怪訝な顔をする。
前任のカロンを、私は船の上から落として、その櫂を奪ったのです。
かつて、カロンは地獄行きを宣告された。どちらへ行くかを裁判官が決めていた、そんな、遥か昔のことだ。
地獄の炎が見えて来た、そのとき、彼女は、船を漕ぐカロンに手を伸ばした。頬のこけた、老いた男だった。無愛想で仏頂面をしているカロン。
全身でぶつかるようにして突き落とした。櫂をその手から無理矢理もぎ取って、抵抗しようとする老人の腹を蹴り飛ばした。
そうして船の上に残されたのは、櫂を握ったただ一人。
私は、魂を浄化なんてされたくなかったので。
少女の目の奥に怯えが垣間見えた。理解が出来ないものに対する怖れ、それはカロンに向けられている。
言ったじゃないですか、とカロンはいつもの仏頂面のまま呟いた。
私はずっと待ってる相手がいるのです。
少女は思わず一歩下がったようだった。大きく見開かれたその瞳に、果たしてどのようにカロンが映っているのか。それは、彼女の表情を見れば、大体は予測が出来るものだ。
私は彼がここに来るまでここで待ち続けるため、この仕事を奪い取りました。彼が天国を選んだとしても地獄を選んだとしても、私がまた相見えることが出来るよう。
船着き場の桟橋の上、少女は首を横に振る。
「そんなの、もう、」
彼女を見据えて、カロンは真顔で目を伏せた。都合の悪いことだけは塞ぐ耳が、少女の言葉を全て撥ね退けた。
さあ、そろそろ地獄の番人も待ちかねている頃でしょう。
カロンは少女の目を見返した。大きく揺らめいたその瞳の奥の奥を、射抜く。
「私はここで彼をずっと待ち続けるわ」
カロンははっきりと言い切った。それは、カロンが先代を突き落としてから、ずっと心に決めていること。千年以上も貫いてきたその意志を、今さら曲げることなど、決してしない。
少女はカロンを見た。その服装と顔立ち、眼差しを観察して、彼女は小さく喘ぐ。
そのまま踵を返して、地獄の奥へと小走りで進んでいった彼女の背中を静かに見、カロンは大きくため息をついた。
それからまた数百年の時が流れ、数えきれないほどの死者が、冥府を通り抜けては楽園に消えた。最後に人を地獄へ送り届けてから今まで、残っている裁判官は一人だけ。
それにしたって、最後に地獄まで行ったのはいつだろう。恐らく、かつて船に乗っていたあのお喋りな少女で最後である。それ以外の人は、どこか楽園への憧れが透けて見えたため、皆船から落として差し上げた。彼女は要するに、余程の変人だったのだろうな、と今になって思う。
カロン、と呼びかける低い声が響いた。既に就業時間が過ぎていたカロンは、船の上で丸まって寝る準備の最中である。
何ですか、と心持ち迷惑そうな声音で体を起こしたカロンに、ラダマントゥスは難しい顔をして腕を組んだ。
唯一、裁判官として、長い間冥府に留まり続けていた存在だ。今のラダマントゥスは中年の男だった。
これから裁判官同士で話し合いたいことがあるんだが、一番古株のお前にも意見を聞きたい。
ラダマントゥスはそう告げて、背後の裁判所を指さした。裁判所の窓から、アイアコスとミノスが顔を覗かせる。
三人揃ってのご指名とは、相当の大事だろうか。
カロンは船縁に手をついて立ち上がる。手を差し出したラダマントゥスを無視して、桟橋へ上ると、カロンは鋭い目でラダマントゥスを見やった。
わざわざ私を呼ぶってことは、何かあったの?
父のような年齢の、今のラダマントゥスとはそこそこに気安い仲だった。
何かあったという訳ではないが、何か起こそうとは思っている、とラダマントゥスは苦笑いする。面倒だわ、と応じ、カロンは肩を竦めた。そんなカロンの頭を撫でようとした手を振り払い、カロンはきっ、とラダマントゥスを睨み付ける。
悪い悪い、と思ってもいない素振りで詫びたラダマントゥスを置いて、カロンは裁判所へ入った。
裁判官三人の椅子は一段高いところにあって、空いている椅子は故人用の粗末な椅子のみである。カロンは一瞬逡巡したのち、その椅子に腰かける。
話って何ですか?
カロンは机に突っ伏しているアイアコスを見上げた。軽薄そうに見える男だが、これでなかなか真面目に仕事をこなす男である。
カロンちゃんはさ、と言いかけたアイアコスをカロンは軽く睨む。
ちゃん付けは止めろ、という無言の圧力に、お手上げだ、と言わんばかりにアイアコスは肩を竦めた。首に下がっている鍵も、今のアイアコスの前では、ただの銀細工の首飾りの一つに見えるから不思議だ。
カロンは、最近故人の数が増えているのに気付いているか?
問われて、カロンは今日の冥府を思い返す。確かに、考えてみれば、人を捌くのが大変そうではあった。
「ちょっとあっちの窓から門の向こう見てみて下さい」
ミノスに言われて、カロンは立ち上がる。窓に歩み寄って、裁判所の前を見てみた。
これは、とカロンは呟く。
これは、大変ですね。
裁判所の建物と門の間にはそこそこに広い庭がある。本来そこは、ただ通り抜けるだけの場所で、決して寝泊まりする区域ではない。
ところが今や、庭は故人で一杯になっている。
俺がエリュシオンを管理してるのは知ってるだろ、とラダマントゥスは頭を抱えながら溢した。
あれはみんな、天国行きを選択した人達だ、と溜め息をつく。
いやぁ、現世でどんな噂が流れているのやら、皆して地獄を極端に嫌がってさぁ、とアイアコスも渋い顔である。別に、人々が地獄を嫌がったところで、カロンの仕事が楽になるだけなので、カロン自身に問題はないのだが。
エリュシオンはもう満杯だ、魂を浄化する処理速度に対して、新しく来る故人が多すぎる。
どうやら庭にいる、数えきれない群衆は、楽園行きを選択したが残念ながらエリュシオンが満杯なので、あそこで待機中らしい。
しかし魂は浄化していかないと、現世に影響が出る。魂は再利用するものだからな。要するに輪廻転生ってやつだ。
したり顔でラダマントゥスは説く。別にんなこと説明されなくても知ってる、とカロンは冷めた目を向けた。釈迦に説法するのと同じくらいに馬鹿馬鹿しい。
地獄も使いたいってこと?
カロンが心なしか顔をしかめる。不機嫌そうな顔ばかりじゃなくて、たまには笑いなよ、と自身の頬に指を当てるアイアコスは見なかったことにして、カロンは話を進めた。
天国と地獄の形態はどうやったって私たちに変えられるものではありませんよ、どのようにして魂を浄化するかは、私たちより高位の存在が定めたことですから。
「そうなんですか?」と驚いた顔をするミノスに、ラダマントゥスは頷く。
同じ目的の為に作られてはいるが、楽しみながら徐々に魂を浄化、いつしかふっと新たな生命に魂を移すのが天国だ。
「じゃあ地獄は?」
地獄へ行くのは、大概は汚れた魂です。例えば、人を殺めたりとか、そういう殺生に関わることで、魂は汚れてしまうのです、そこに悪意や故意が在ろうと無かろうと。
一筋縄では浄化できないので、悔い改めさせるため、厳しい罰を与えながら魂を浄化するのです。その後、新たな生命に転生します。
カロンは長く息を吐く。かつては彼女も地獄行きを命ぜられた一人であった。どのような経緯でそうなったのかは、もはや朧気にしか覚えていない。記憶のほとんどをレーテーに置いてきた。
で、だ。
呟くと、ラダマントゥスは威勢良く長机を掌で叩いた。机に突っ伏して頬を押し付けていたアイアコスは、慌てて飛び起き居住まいを正す。
今のままだと、そのうち冥府がパンクしちまう。
今の、天国のみを稼働させている状態では、ということだ。
「え、じゃあ……?」とミノスが問う。彼女はまだここに来たばかりだったはずだ。
カロンには、ラダマントゥスの言いたいことが分かっていた。
良いの?
カロンは呟いた。外から、大勢の人間が息をする音が聞こえる。身動ぎする音や、足音、ささやかな話し声。
私がカロンになってからしばらく経ったときから、天国と地獄が自由に選択出来るようになったの。それはもちろん故人の希望によるものだったけれど、その意見が裁判官に通されたのにも理由があるはずだわ。
その希望制度が適用されてから、裁判官一人に対する任期がだいぶ長くなったのをカロンは知っている。
それはきっと、裁判官の負担が減ったから。負担とはただの労力の話ではない。
貴方達は生前、人を裁く立場にあったの?
カロンは真っ直ぐに裁判官を見上げた。弛んだ態度のアイアコスを一瞥する。神妙な表情でカロンを見下ろしているミノスが、ぴくりと動いた。
貴方達は別に、元々人の頂点に立ってきた訳じゃあないんでしょう。そんな貴方達に、数え切れない故人の、この先の数百年、数千年を定める資格があるのか、その覚悟があるのかと問うているのよ。
はっきりと、裁判官達の顔が強張った。
ぐ、とラダマントゥスが唇を噛む。眉間に皺を寄せるその眼差しから、カロンはふいと目を逸らした。
更に言うなれば、今までは自由に選択させて貰えていたのに、自分は強制的に行く先を決められる故人の不本意は如何程でしょうね。
カロンは試すようにラダマントゥスを見やった。これで揺らぐようなら、提案を実現したところで、すぐに憔悴して辞めてしまうのは目に見えている。
それでも、このままではいけないんだ。
ラダマントゥスは苦渋の表情で低く呻いた。その目は窓の外で身を寄せ合って楽園を待ち望む人々を捉えている。少し待てば愛しい人に会いに行けると言うのならば、やはり皆、天国を選ぶのだろう。冥府には時間の概念はない、いくらでも待って良いと言う人は多いはずだ。
やはり、故人を裁くこととしたい。そのせいで出た不都合があれば、その責は俺が取る。
貴方が責任を取るとしたらずっとその席に付いていることが最大の贖罪だよ、とカロンは内心呟いた。責任を取るだなんて尤もらしい大義名分で辞めて貰われては困るのだ。
話は済んだか、とカロンは腰を浮かせかける。結局、別に自分は何もしなかった。ちょっと決意を揺さぶっただけだ。そして、彼らはその揺さぶりに打ち勝った。カロンに言うべきことはもうない。
「私、……いえ、」
私達、とミノスは言って、先程よりずっと毅然とした態度で顔を上げた。
私達が人を正しく裁けるかどうかなんて分かりません、でも。
ミノスは視線を落として囁く。
この目に映るものが、人の魂であるのなら。それなら、少しは真っ当な判断が出来るんじゃないかと思うんです。
カロンは視線を上げた。その眼を見返して、ミノスはほんの少し、泣き笑いのように顔を歪めた。
裁判官はその地位に就いたときから、故人の魂が見えるようになるらしい。カロンがカロンになったときから、教えられてもいないのに船を漕げるようになったのと同じような原理だろう。
アイアコスが瞼を上げてカロンをひたと見た。首に提げられた銀色の鍵が揺れる。疑いようもない、彼がアイアコスであることの証明。アイアコスにも、カロンの魂の様相は見えていることだろう。
むしろ、お前に、偉そうに御託並べる資格はあんの?
馬鹿にしたようにアイアコスは眉を上げてせせら笑った。ラダマントゥスが手を伸ばしてアイアコスの言葉を遮ろうとするが、アイアコスは口角を吊り上げて吐き捨てる。
お前の魂、随分と真っ黒だよな。
それは恐らく、アイアコスにとっては軽口の範疇だった。生前のことには大して興味はないと常に言っているアイアコスだからこその軽口だろうが。
カロンはさっと表情を変えると、椅子を倒して立ち上がった。待て、とラダマントゥスも腰を上げる。
そんなこと、言われなくたって知ってるのだ。カロンは奥歯を噛み締めて、アイアコスを苛烈に睨み付けた。
カロンの魂はどす黒く汚れている。それは、カロンが生前、多くの命を奪ったことによる汚れだ。
自分の生まれも名も捨てた。家族も友人も、もはや一欠片も記憶には残っていない。いや、或いは初めから持ち合わせてなどいなかったか。それでも、カロンは、自分の罪を捨てることは許されなかったのだ。
待て、カロン、とラダマントゥスは珍しく声を荒げた。どうせラダマントゥスだって、今までも、今だってカロンの魂の汚れが見えているのだ。
人殺しだって罵りたければ罵れば良い、とカロンはアイアコスに告げる。カロンの逆鱗に触れることを全く想像していなかったアイアコスは目を白黒させ、困ったように頭を掻いた。
そうして裁判制度が復活して一日目。それにしたって随分と手心を加えたらしい。今日の地獄行きはたったの一人である。現状は全く改善されていない。
カロンが冷めた目で三人を見つめると、三人は揃って、ちょっと優しくしすぎた、と渋い顔をしていた。
だから明日は恐らくもっと大勢を船に乗せる羽目になるだろう。ひょっとしたら何往復もしなければならないかもしれない。
地獄行きが決まったのは、まだ若いのに、不釣り合いなほど暗い目をしている男だった。もちろんもう死んではいるのだが、死んだような、という表現がよく似合う。
昨日の失言をすっかり忘れたような様子でアイアコスは満面の笑み、更にはカロンに手を振って、いってらっしゃい、と告げた。
無表情でふん、と鼻を鳴らし、カロンは故人である男を船の上に導く。久々の仕事である。これは完遂せねばならない。
船を出そうとしたちょうどそのとき、ラダマントゥスが顔を出し、そいつは落とすなよ、と釘を刺した。分かってる、この非常事態にそんな情け、かけやしない、とカロンは返し、仏頂面を背ける。
故人と仲良く話すのはカロンの好むところではない。しかし、この沈黙はかなり耐え難い。
男は無言、身動ぎ一つせず、虚ろな瞳で、ただ、虚空を見つめている。カロンの小さな背中を一瞥することもなく、ただ、その目は闇を見据えていた。
……あの。
カロンはついに声をかけた。わざわざ人の為に心を砕くのは、別にカロンの趣味などではない。カロンが自分から話しかけねば辛いと感じるほど、この故人はただの骸のようであった。このままでは地獄へ送られたって、悔い改める前に自我を失いそうだ。
男はゆるりと顔を上げて、カロンの顔を初めて正面から見た。男はカロンを見ると、はっと息を飲むようにして目を見開く。カロンは男に無表情を向けてから、ついと視線を逸らした。
「……何でしょうか」
男は掠れた声で返した。思いの外厳しさのない声音だった。
カロンは戸惑う。取り合えず話しかけてみたは良いものの、話したいことも訊きたいことも別段なく、話題はない。にも関わらず、男はカロンの次の言葉を待つように、心持ちカロンの方に体を傾けているのだ。
地上は、どのような様子ですか?
男はしばらく黙り込んだ。カロンは、まずい、と咄嗟に思った。
ややあって、男は口を開く。
「……凄惨な、地です」
カロンは目を見開いた。カロンがその生を終えてから数千年、どうやら現世は相当に様変わりしたらしい。
「悲惨なのは地上のみではない、海も、空も、どこもかしこも戦争だ」
戦争、と、カロンは思わず繰り返した。男は沈鬱な表情で頷く。
「あなたのように年若いお嬢さんには想像がつかないかも知れませんね、……人は誰もがただ一つを求めて争っているのです」
年若い、と言われて、カロンはむず痒さに足踏みした。それに気付いた様子はなく、男は言葉を吐き出すように唇に乗せる。
「私も戦地へ赴きました、……そこはあまりに惨かった」
カロンは、ふっと顔を上げて、地獄の炎を探した。炎はまだ見えない。地獄までの距離は遠い。
男は要するに、ただ話したいだけなのだ、とカロンは気付く。それで満足するならば勝手に喋らせるくらい良いではないか、と自分を納得させると、カロンは船を漕ぐのに集中した。
「多くの人間を殺しました。そうでなくば自分達が屠られるのだと知っていたからです」
けれど、と男は言葉を繋ぐ。
「殺意のない一般人、とりわけ、まだ首も座っていないような赤子、それを庇うように抱えたその母を貫いたことは、決して許されることではないと、自覚しています」
自分が地獄に行くことを受け入れてはいるらしい。それに何故か安堵した。カロンとて嫌がるものを地獄まで連れていくのは嫌なのだ。無論、その理由のほとんどは面倒だから、というところにあるが。
……あなたの来世が幸せなものになりますよう。
カロンは思わず呟いた。この男は、きっと、戦など無ければ虫も殺せないような善良な人間だ。「ありがとうございます。素敵な祝詞ですね」と目を細めたその顔が痛々しい。
それにしたって、何故そんな戦争が?
カロンは船を漕ぐ手を緩めず訊いた。男は嘲笑するように頬を歪めて吐き捨てる。
「皆、泉を求めているのですよ」
泉、と、カロンはまた男の言葉を反芻した。
「そう、ただの泉です。実在するかどうかも確かではないと言われている、小さな泉」
カロンは男を横目で見る。傷付いた服と焼け爛れた肌、焦げた毛先を眺める。
ただの泉の為に、戦争が起こるはずもない。
本当に、ただの、何の変哲もない泉なのですか?
カロンは囁くようにして問う。男はほんの少し笑みを漏らすと、「いいえ」と答えた。
「それは、どのような怪我や病気でもたちどころに治してしまうと言われている、魔法の泉です」
そんなもの、私が生きている間にはありませんでしたね、とカロンは呟く。魔法などというものには、とんと縁のない人生だった。
「発見されたのはごく最近のことでしたから」
男は苦く笑って頭を掻いた。カロンはその頭頂部を静かに眺める。
「その泉はどこにあるのか、誰も知らないのです。それなのに、誰もがその泉を求めて争っている」
水を掻く音が続いた。櫂が時おり船体に当たって、湿った木の音が水面一枚挟んだ向こうから聞こえる。
「でも私は見つけたんですよ」
男は、遠くに見えた地獄の炎を目にして、つい、魔が差した、とでもいうように溢した。
「でも駄目でしたね、悲しいほどに、分かってしまったんです」
男は生暖かな笑みをその口元に浮かべて吐き捨てる。
「あの泉は私の為にあるわけではありませんでした」
カロンは、男に目を向けることさえせずに、ゆっくりと瞬きをした。話したいなら話せば良いのだ。それが、故人の望みであるなら、カロンはそれを止め立てしない。
「あなたは、ここでずっと?」
男はカロンを見据えて問う。
そうですね、とカロンは言葉少なに答えた。
「どうして、こんなところで?」
カロンは真っ直ぐに男を見返す。男の瞳は先程までの生気のない表情ではなく、どこか挑戦的な色を孕んでいた。
ずっと待っているんです、とカロンは目を伏せる。早く地獄に着かないだろうか、と思わず手を早める。
「彼を、待っているんですか?」
カロンはぴたりと手を止めた。
彼、とその唇が動く。そのまま紡がれた名を男は黙って聞いていた。
「私は死の間際に例の泉を発見しました」
男はカロンの小さな背中をじ、と見据えながら、慎重に言葉を選ぶ。
「最果ての森、大木の根の隙間の奥」
カロンの指先が、ぴくりと震える。
「その奥は洞窟、鍾乳洞だ」
目は落ち着きなく水面を滑る。
「そこに泉があったのです」
揺れていた水面が徐々に静まり出す。
「その泉に半身を浸けたまま、目を閉じて横たわる少女を見ました」
カロンははっと目を見開き、男を恐る恐る振り返りかけ、怯えたようにまた前を向く。
「その側に侍っていたのは、」
やめて、とカロンは弱々しく呟いた。唇を戦慄かせて櫂を握り締める。
その話は聞きたくないです、とカロンは男に告げた。
船着き場に船を止めると、迷った様子もなく男は船から降りる。
「どうせじきに魂が浄化されて、私が今持ち合わせている記憶も消えてしまうんですよね」
よくご存知で、とカロンは軽く首を傾げた。
「誰も見てはいませんでしたが、看板に説明がありましたからね。私はそういうのはきちんと見る質なんです」
何が言いたいのだ、と、カロンは剣呑な目付きで男を見張る。その視線を意に介した様子もなく、男はどこか無気力な、虚ろな笑みを浮かべた。
「まあ、……あなたたちの絆には恐れ入りますね」
何か言いたげに口ごもったのち、男は薄ら笑いをその顔に貼り付ける。
「ここまで運んで下さってありがとうございました」
男はいっそ慇懃な態度で礼をすると、船着き場を一人で歩き出す。
もしかしたら地獄には、かつてカロンが送り届けたあの少女もいるかもしれない、とカロンは気を散らした。
その矢先、男は足を止め、くるりとカロンを振り返る。
「あなたのことは一生忘れません」
カロンは思わず一歩下がった。眉を潜めて、その言葉の真意を探る。カロンは覚えられるほどの重要人物ではない。冥府の従業員の一人でしかないのだ。
「だって忘れられる訳ないじゃないですか」
やめて、カロンは囁いた。男はそれを気にも止めずに、ゆっくりと、見せつけるように口を開く。
「そうでしょう、大罪の聖女さま」
船底に、櫂が落下する、鈍い音がした。
「民に救いを!」
「憎き咎人に天罰を!」
「国に繁栄を!」
どうだって良いわ、と彼女は、祝詞のふりをして密かに吐き捨てた。
四肢を鎖に繋がれたまま、彼女は祭壇の前に跪く。
彼女はこの国が、反吐が出るほど嫌いだった。
だから同じように祭られていた彼を連れ出して、神殿や町並みに火を放った。憎んでいた都市が崩れ落ちるのを見るのは快感だった。
カロンは船をゆっくりと漕いでいた。水面は相も変わらず大人しく、全てを飲み込んでしまいそうな漆黒が、どこを見渡しても広がっている。
記憶を全てレーテーに置いてきたなんて嘘だ。本当は全部覚えている。
自分の名はもう忘れた、かつていた町の名も、周りにいた人達のことも何一つとして覚えていない。
けれどただひとつ、大切に大切に保管してある記憶を、彼女が捨てるはずがないのだ。
彼と過ごした悠久の時の記憶を、彼女はまだ、馬鹿みたいに大切に隠し持っている。
「ねぇ、」と彼女は彼の名を呼んだ。彼は彼女を振り返ると、緩やかに目を細める。
「私達、いつまでこうしていられるかしらね」
苦笑いを浮かべて、彼女は彼を見上げた。彼はふ、と目を逸らすと、小さく笑む。
大罪の聖女と呼ばれるようになって久しい。日の光の下を歩くことが出来なくなったのはとっくの昔のことで、彼と彼女はいつだって影に隠れて生きてきた。
人のいるところで隠れて暮らしているのにも限界がある。人里を離れるのが最も簡単な方法だった。
誰も立ち入らない森の奥の奥、神木とも言われる大樹の足元には、一目では気付かない穴がある。その穴を辿れば地下の洞窟に着き、そこは人の気配の全くしない鍾乳洞だったので、彼女と彼はそこを住みかにした。
森には狂暴な獣もいるし、人智を超えた神秘も起こりうる。彼女と彼がいる影響で、森は一層静かになり、人の立ち入りを拒むような頑なさを備えていった。
いつしかその森が最果ての森と名付けられるほど永い間、彼女は彼と寄り添い続けた。
船の上にカロン以外の生き物は何もない。周りを見回しても、カロンを見つめるものは何一つとして存在しなかった。
カロンはそっと、微かに記憶に引っ掛かっていた讃美歌を口ずさみ始める。息混じりの歌声は遠くまで響くことなく水面に落ちた。
待っていちゃ駄目なのか、とカロンは視線を落とす。
だって彼が言ったのだ。……彼が約束したんだ、待っていてくれ、と。
自分が君に会いに行くまで、ずっと待っていてくれ、と。
だから、カロンは待っている。魂が浄化されてしまえば、もう二度と彼を待つことは叶わない。魂が浄化されるのはどうしたって避けたかった。
だからこうして、舟守として彼がこの冥府を訪れるのを、一人待っていると言うのに。非難される謂れはないわ、とカロンは鼻を鳴らす。
カロンは恐らく、その決意を曲げることはないだろう。もしその立場を奪い取ろうとする輩がいれば、手に馴染んだ櫂を振り上げてでも拒む。
だって約束したのだ。
彼とまた相見える日まで、ずっと待ち続けるのだと。
ゆっくりと頬を吊り上げ、緩慢な動きで顔をあげる。
カロンは凄絶な笑みを浮かべた。
火の粉が舞っていた。黒い空へ立ち上っていく煙を見上げながら、彼女は顔を歪めて涙を溢す。
烈火に飲み込まれてもなお、果てのない森を、彼女はじっと見つめていた。
誰一人として逃がすつもりはない。
森を囲む低木は燃やし尽くされたとて、森は消滅などしない。裸になった大地に足を立てた獣たちが、居並ぶ軍隊に牙を剥いて唸る。
「良いのよ、やってしまって」
彼女は唇を動かさずに呟いた。声は出なくとも、言いたいことは伝わったらしい。彼女に忠実な忠犬達は黙って地を蹴る。
彼は彼女を抱き締めると、彼女は黙って涙を溢した。その雫を拭うと、彼は静かに彼女に頬を擦り寄せた。
見渡しても果てが見えない大自然が、端から炎に包まれていく。彼と彼女が愛した最果ての森が消滅することはなくとも、被害は簡単に取り戻せるものではない。
向こう数十年は荒れ地になっているであろう、森の端を思いながら、彼女は彼の背中に手を回した。
彼女は彼の胸元に顔を埋め、それから、最期に彼の目を見上げると、静かに、ふ、と息を止めた。
なんて呆気ない、彼女の最期。
僕が行くまで、ずっと待っていてくれ、と、彼は彼女に告げる。
僕も、きっといつか、必ず君の後を追うから、と、彼は、鋭い切っ先に貫かれた彼女の胸元を見下ろした。
炎に包まれた森の中で、木が倒れる音がする。ぱちぱち、という火がはぜる音、獣の遠吠え、精霊の悲鳴が空気を震わせていた。
星が泣いている。風が、森の隙間を掻い潜るようにして、炎を大きく煽っては舞い上がった。梢の花々は叫ぶように歌い狂う。
きっといつか、愚かな人間達は、最果ての森に手を出した代償を払うだろう。
尊い命が、いくつも、月へ向かって一直線に昇っていく。
直に冷たくなる彼女の体を抱き上げて、彼は密かに涙を溢した。
彼女は彼を愛した。彼は決してそんなことを言ってくれやしないけれど、その心は同じであることを彼女は確かに知っていた。
だって、そうだろう。
私の為に死ぬ、という言葉は、きっと、不死鳥である彼にとっては、愛していると同義であるだろうから。