先日の火事話
天明五年(一七八五)六月。
「先日の火事を知ってますか」
善継は天幕の中を綺麗に掃除しながら、黒兵衛に聞いた。善継の目には隈ができていて、今にも衰弱死しそうなほど、窶れた顔つきであった。
まるで何かに取り憑かれたような狂気めいた目の色をしていた。
「これじゃあ、子供も怖がるから、今日は休み」だと、黒兵衛が来たとき座長に言われていた。
確かに善継は、おぞましいほど内面の恐怖を引き出してくれそうな目をしていて、浮世絵の化け物だの妖怪だのを思い出す。
そんな目で火事の話を持ち出されれば、今にも火付けでもする気かと、止めたくなる。
そもそも、火事なんて頻繁に起きるので、どれがどの火事の話か、さっぱり判らぬ。黒兵衛は善継の言葉を待つ。
「先日、そう八重洲河岸から出火した火事で、あの火は大名小路、新橋、数寄屋橋、木挽町、築地が焼けました。あの火事で、俺も大事な物を失ったんですよ」
寝不足の声が元気なく天幕に響く。黒兵衛はどう見ても隈ができてる善継にこりゃあ火を起こしても変じゃないと、化け物じみた強い感情を悟った。
憎いという思いを。
「何だ、大事な物ってぇのは。金か、刀か?」
「刀なんて、あなた様、俺はお侍さんじゃないんですから。侍だったら、今の冗句に苛ついて斬りつけてやってましたよ。化け物屋敷です」
善継の声にも表情にも生気がない。
黒兵衛にとっては本題が来た――そう、いよいよ本題だ。語り出してから数ヶ月、ようやくその話をしてくれた。昔は春だったのが、今では、夏である。
こういう企ては、じっくり取り組んだほうがいいと、死に神も思っているのか、「まだ話さないのか」と催促はされなかった。
それどころか、あれきり死に神とは会っていない。善継は黒兵衛を気にした様子もなく話を続ける。
「俺は、化け物屋敷も担当してましてね、それを燃やされたんです、あの火事で。いや、あれは風の所為じゃない、あれは誰かが燃やしたと、俺ぁ思ってるんです。ご覧くださいな、これが切り絵図です」
善継は、鬱憤を晴らしたいのか、わざわざ小屋掛け用の切り絵図を広げた。
切り絵図には細々と地域が文字で書かれていて、少し文字を囓ってる黒兵衛は、いたく感心した。
今いるのが浅草だとすると、以前の化け物屋敷は、成る程、新橋に近い。
「新橋から見ると、確かに風向きは化け物屋敷の方角ですが、それにしては、いい香りがしたんですよ。こう、胡麻油くさいといいましょうか。何者かが燃やしたに違いないです。どさくさに紛れて、なんということを」
善継は広げた切り絵図をぐしゃぐしゃに丸めて、それから今度は設計図を持ち出して、広げた。
小屋掛け用の切り絵図をそんな風に粗末に扱っていいのか、と黒兵衛は心配になるも、設計図を見やった。
胡麻油くさい? 胡麻油は高い物だというのに、どうやったら集められるんだ?
金子は黒兵衛みたいな泥棒にはすぐには集められるが。
それとも、化け物小屋を燃やしたいがために、わざわざ高い物を買ってきたのだろうか。
これは犯人からの恨んでるぞ、という伝言?
等々、謎はとうてい尽きぬものだ。
「まぁ、燃えちまったものは、燃えたからね、どうしようもないんですが、次はこれ、あなた様、別の化け物屋敷を編み出さなければならない。いつまでも釜と板に血の組み合わせで、かまいたち、だなんて、誤魔化せないんですよ」