涙がたとえ溢れても
この男は、いつだって感情を隠すのが上手くて、幼い頃から感情を殺していた。そうすることが処世術だと思っていたのだろう。
善継が幼少の頃に、春が出入りしていたときも、そうだった。再会した頃には、感情を露わには滅多にしない男となっていた。
「あいつは、碌でもない悪党だったんだよ、善継。いいか、泥棒ってぇのは、人ならざる道だったんだ。化け物屋敷っつうのを作ってるおめぇにとっちゃ、人ならざる者と接するのは良かったかもしんねぇけど――」
「うるさいね、お黙りよ!」
男の言葉に、響くような精錬の声が破邪のように響く。男は一瞬びくっと怯んだ。
が、すぐに立ち直る。
「春、こいつに俺は真実を教えてるんだよ。第一、変だと思わなかったか? あんな毎日毎日、遊び歩く金が、どこにあるってえんだ。遊びたいよう。俺も、人の金で遊びたいよう」
旅団の一人が、あからさまに善継を馬鹿にしている。
日頃から、口では勝てない善継に今なら勝てる。
大吉は普段勝てない鬱憤を晴らしている。善継は旅団には睨まないと知りながら。
耐えきれなかった春は、何かしら言ってやろうとした。ところが、善継がその場から立ち去ったので、慌てて追い掛ける。
走った、走った。東海道を目指す駕籠のように、急ぎで走り、速さもいつもより割り増しだった。
景色がくるくると季節のように変わる。賑やかな町並みから、静かでこぢんまりした黒兵衛の長屋へと向かってる。
棒手振りの魚売りにぶつかりそうになっても、めげずに走っている様子だ、遠くから声が聞こえ、魚売りが文句を走り抜く善継に罵倒していた。
春が従いてゆこうとするが、追いつかないほどの速さ。何より、善継は人混みをするすると抜けるようにうまく走っていた。
目的地を解っているからこそ、こんなにも素早い善継の位置を、春は目だけで、じっと追った。
春は、慌てて、善継を止めようとした。
ところが、善継は止まらない。
(ああ、さっきの馬鹿を睨みたいだろうに、我慢して馬鹿な子――)
春は泣きたかった。
大声で泣いて、「嫌だ、行かないで」と止めてしまいたい。
だが現実を知って欲しい気持ちもある、それも他者の存在で。
春自身の所為にしたくはないのだ。そのためには、春は止める存在でいなければならない。
女という生き物は厄介だ。
涙が武器だというが、どこで泣けばいいか解らないのに、涙がこみ上げてくる。
たかが人間一人の命が死ぬだけなのに。
それも泥棒などというとうてい善継には近づけたくはない、人種。本来ならば。
あの日どうして賭け事をしてしまったか、今こうして後悔しても遅い。
(泣いちゃ駄目だ、泣いたら駄目よ。自業自得なんだから――)
長屋に着けば、春も追いつき。善継を見るなり、人々は避けて、長屋の中へ入っていく。阿蘭陀人の独特の濃さと、青い瞳に怯えたのだろう。
善継は祈りを注ぐように、両手をすりあわせて、南無阿弥陀仏と唱えながら、黒兵衛の長屋の真ん前にいた。
着いてもしばらくは怖いのか、腰高障子を開けていない。春が後ろにいると気付くと、勇気が出たのか、きりっと前を向く。
善継は腰高障子を開けて、中へ入った。
中は人が数ヶ月いなかったように、虫や埃が衣服と共に寝っ転がっている。二畳一間の長屋。
善継は、散らかっている室内を笑い、膝を曲げて徳利を一つ手に取り、まだ中身があることに笑った。
徳利をゆらゆら揺らし、ちゃぽんと鳴る音が現実味を遠ざける。他に中身が残っている徳利が、現実味を引き寄せる。
「お春、俺はね、聡いほうなんですよ――旅団の皆が、俺に何かしら気遣っていたのは、知っていたのですが、……馬鹿ですね」
声が、枯れている。
善継は、中身のある徳利を置く。放り投げ出されている他の徳利に手を伸ばす。
徳利の数だけ、共に酒を飲んだ日を思い出している。最初の日だけじゃなく、もっと酒を覚えろと、飲み比べをさせられたこともある。
そのときは、春も一緒に審判をしていたのだったから、よく覚えてる。
「俺は――愚かです。今まで、どうやって黒さんが生計を立ててるか知らなかった。碌でもない人だとは思っていたけれど……本当に、お馬鹿です、俺も、あの男も」
善継の声は、悲しみに満ちていた。
ただの悲しみではない。色々と感情が交ざって鍋でぐつぐつと煮込んで「はい」と出した煮物のような味わい深い悲しみに聞こえた。
何かの芸術作品から悲しみを感じ取ったように、善継は徳利から悲しみを得たのかもしれない。
突如、善継は立ち上がった。市中引き回しの声が聞こえたからである。黒兵衛に違いないと判断したのだろう。
だが、春が引き止めた。




