〝英雄〟の話
「最近、黒さんを見かけませんね」
たいてい、芸術家というのは、世に疎い。
田舎小僧という盗人が捕まった日と同時に黒兵衛が来てない事実に、気付かない。黒兵衛は泥棒だったと、町中が噂している状況にも気付いてない様子だ。
黒兵衛はいつも現れたり現れなかったりするから、大して気にしていなかったが、ここしばらくずーっと会っていない。
流石に無頓着の善継でも心配になってくる。
ただでさえ碌でもない人なのだから。
これから見せ物を見せるために朝早く天幕を掃除して、舞台設置している。調子の悪い絡繰りがあれば、ちょっと見るよう頼まれる善継。
簡単な絡繰り人形を二つにぱかっと割り、後で糊で接着すれば問題ない。人形の動かなくなった原因の根深い埃を取る。
善継は綺麗に掃除し終わると、他にその人形の細部まで見て、紐が緩いと感じると紐をぴんと張らせる。
目が汚いなと感じると綺麗に磨いて、同じ色を作り出し、塗る。
ここらの工程が終わったら、糊付けして、乾燥させるために明るい陽が天幕越しでも判る位置に置いておく。
春は、糸のチェックをしていて、張ってるか張ってないかだけを見るだけの作業であった。
薄暗い天幕の中で、その中で荷物を持ってきたりする大男が一人。
でかいので、皆は福を込めて大吉と呼んでいる。
中は、暖かみが厚手の布を透かして入っていて、春から見れば右斜めに善継、左斜めに大吉という位置関係なっている。
人形はその間の陽が当たる真ん中に転がっていて、踏まないように大吉は気をつけていた。
善継を怒らせるのは、座長である虎吉を怒らせるよりも遙かに怖いと、旅団は知っている。
小屋は相変わらずの帳で、埃っぽくて、でも一回ちゃんと干したから埃は取れている。だとしたら、古くさい年の数だけの香りが漂っているのだろう。
練り香水でも欲しがる春は、おかしいだろうか。汗くさい天幕じゃないだけましだと思わなければ。荷物がまた積み重なり、大吉が首にある手拭いで、汗を拭いた。
大吉が来た頃に、善継が黒兵衛の話を始めた。大吉が来てるとも気づかず、三角形の立ち位置で、善継は話し出した。
善継は絡繰りに長けているわけではないが、他の者より、多少は詳しい。最後の点検をしながら、春に善継は尋ねた。
どうして天才とは、こんなにも自分の世界以外に興味がないのか、と春は胸が切なくなる。
真実を見せたくない。真実を見せて、楽しいという心を消させたくはない。
楽しいという心は、爪に点った灯火のようだ。一瞬で消えてしまう。
だが、いつか真実を知ったとき、善継はなんと思うだろうか。流石に、楽しいとは思えないだろう。
(昔、あのとき――捨てなければ、この子には未来があったはずなのに)
近頃、特に昔を悔やむ瞬間が多い。春が化け物屋敷から引き離したいのには、訳があった。
この見せ物小屋を嫌っていたら、すぐにも引き離せたのに、善継は化け物屋敷を好いている。今の生活を好んでいる。引き離して、もっといい生活をさせてやりたかった。
誰だって、わが子には幸せになってもらいたいと願うだろう――。
黒兵衛は「はっきりと言ったほうが良い」と忠告していた。なのに、どんな時に言って良いのかが、まるで判らぬ。
ああだこうだ悩んでいると、善継が天幕で設計図をしまいながら、春にまた同じく「見かけないですよね」と話し掛けていた。
何処か間抜けた声で、善継は春にもう一度、しつこく聞き返した。
男というのは、どうしてこうもまあ、鈍いのか。否、普段は鋭い善継が鈍いのは、本当なのか?
もしかしたら、何かに気付いているのかもしれない。
目をよく見たら、はっきりと「どこかで見たと言って欲しい」と瞳と表情に出ていた。
今にも雨に降られそうな、嫌そうな表情。口調は静かだが、苛立っていた。
いったん居なくなったのに、また来て同じ話題に飽きたのか、大吉が斜めに三角形の直角に向かって声を掛けた。
春はちょっとよろしくないことを言われる予感がした。そこで、立ち上がり、三角形を崩して人形や物を片付けた。
それでも善継は気づいていない。
「げ、おめぇ、まだあの〝ちゃらんぽらん〟が英雄だったって話を、知らねぇのか?」
旅団のうちの一人が善継に話し掛けてきた。春はまずいと思い、慌てて善継を外に連れ出そうとした。
ところが、善継の足が動かなかった。
大事な人形を落として、口を開けて、だらりとして、かさかさした唇からは、驚きが漏れる。
目の前で対立する二人の図ができていた。
「ちゃらんぽらんが、どうしたんですか、知ってるんですか」
挑むかのような穏やかではない瞳が、大吉を見上げる。
「おうともよ。あいつは、田舎小僧っつー、大泥棒だっつー話しよ」
大吉は見下ろし、得意げに話し出す。今までどこの家に入って、いかに捕まったかまで嘘も混じった話を。
いかに捕まったかは、大吉のような生きることだけに必死で、うわさ話だけで生きている男には知るところはない。
「……――そんな、まさか」
善継が笑い掛けて、春を見やったので、春は苦笑とも憂い顔とも言えぬ表情をするしかなかった。
やっぱり、知らなかった。知らなかったから、何処かにいると言って欲しかったのだろう。
表情を思い出し、春は拳を握って、辛くなる。
辛くて辛くて、目を閉じかけるが、これは見据えなければいけない現実だ。
ゆっくりと目を開きうつむく。
今まで、ここまで善継を間接的とはいえ、傷つけたことはなかった。
これほどまでに胸が痛むなんて知っていれば、賭け事などしなかった。黒兵衛など選ばなかった!
もっと強欲な浅ましい人間を選んでいれば、勝てたかもしれなかったのに!
そう、あれは、自分自身との賭けでもある。自分自身ではどうしようもないから、運命を人に託した。面倒くさがらず、自分が問題と向き直っていればよかったのだ。
悔しさが、つい顔に出る。
春の表情で、話は本当だという現実を、善継悟る。表情からして感情は窺えない。善継は感情を隠すのが上手いから。




