天明五年八月十六日。
一橋卿は興味津々に問いかけ、月を指さす。今は満月だ――。
満ちた、とても満ち足りた気分であった、一橋卿も。
黒兵衛は自分に運命の最後を託している。捕まえれば、大名から感謝されるだろう。そんな大きな役割を与えようとしている。
(これは、この前の小判の御礼かな――)
一橋卿は一人で穏やかに、満月の満ち足りた顔のように、黒兵衛を見やる。
黒兵衛も満ち足りている。満ち足りている人が二人もいるから空は満月なのだろう。
否、空が綺麗なだけで、きっと町人も満ち足りているかもしれない。
今頃、町の人々は見上げたり、明日のために心安らかに寝たり、月見酒をしたりしているかもしれない。
満月の日は、そんな日だ。
確かに、獣の疼きがある動物はいるかもしれないし、危険な言動をするものもいるが、大体が非日常と繋がることはない。
今宵を言い表すなら簡単だ。月が大きい夜。
月が大きく丸く、平穏か異形の夜。善継に睨まれた者にとっては、死に物狂いの夜。満月はどうしてここまで人の気持ちを変えるのだろうか。
青い月は不安になるし、紅い月は不気味だし。なんだかんだいって、今の黄色いまぁるい月が一番落ち着く。
「今日は、きっと良い日だ。月が、あんなにも大きい。其方は、そんな日に、捕まりに来たと申すのか?」
確かに今宵の月は、大きく見える。
錯覚かもしれないが、雲一つなく、やけに爛々としていて、黒兵衛を祝福しているように見える。
春の気持ちなど知らずに、黒兵衛を応援してるみたいで、月は大きく明るい。
春にとっては曇天になってしまえと願う夜だが、黒兵衛の門出には綺麗な夜。綺麗すぎて、異形も起こるのも仕方ないと思える夜。明るさが太陽に勝っているわけではない。それなのに、どうしてここまで人に安らぎを与えることができるのだろうか。
薄い薄い金を振りかけられてる明かりなのだ。金は皆大好きだからだろうか。
天候は、昼で言うなれば、太陽がぎんぎらと光ってる、とでもなろうか。
「満月のがいいだろ? さっぱりしてて。今が満月になるかどうか、不安だった。あんたさぁ、化け物屋敷って知ってるかい? すげえ面白いんだ。現世の人間のがよっぽど恐ろしいっつーのがよく判るぜ」
善継の化け物屋敷を宣伝する。
いかに恐ろしくいかに楽しい小屋だったかを、二種類説明してやった。
一橋卿は興味なさげだったが、身振り手振りの黒兵衛の必死ぶりにそこまで魅了されるものとはどんなに才覚ある人物だろうと、ふと見てみたくなった様子だ。
黒兵衛の話が弾めば弾むほど、独りがいかに寂しかったかが伝わる。
寂しいと口にする勇気を持つ黒兵衛を嫌えなかった一橋卿。
春もどこか寂しいという気持ちはわかるようで、「ちょいと待った」と止めることができなかった。
春は死に神だから如何様にもできるのに。
「自分もその一人だ」とでも言いたげな黒兵衛の言葉を遮り、一橋卿は黒兵衛を最後まで「悪人」にしようとしなかった。
ただ、落ち着いた若い瞳が、こんなこともあるのかと、興味深げに見つめている。
「ほお、それは見に行かないとな。――……本当に、捕まりたいんだな。判った、人を呼ぼう。償いをしたいという願いを託されるのは、悪い気はしない。ただ、少々寂しくなるな。其方の盗みで、悔しがる大名たちを見てきたから、それが楽しかったんだ」
一橋卿が「誰か! 誰か来い! 泥棒だ!」と騒げば人が来て、一気に番士たちが、黒兵衛を押さえつけ町奉行所の元へ連れて行く。
春は捕まる様子を眺めていた。柳の下から。
泥棒だから、乱暴に扱って良いと思った番士が乱暴に黒兵衛を何もしてないのに、押さえつける。
無抵抗なのをいいことに、蹴ろうとしたが、一橋卿の侮蔑が混ざった視線に気付くとやめて、「町奉行所へ連れていけ」と命じられ、連れて行くことになった。
何に対しても無抵抗なところが、ふと思い出させる。
秀吉が石川五右衛門に会ったという話を。もしかしたら彼らもこういう秘密の縁があったのではないのだろうか。器が鳴ったというよりは縁で、五右衛門が諦めたというほうが納得がいく。
春は不思議な気持ちで連れて行かれる様を見守っていた。番士が、一橋卿の元へ行き、無事かどうか、怪我がないかを確かめている。
もうすぐ、悪人も「仏」になる。南無阿弥陀仏だなんて唱えて、一橋卿は寝所へ向かっていったのを春は見た。
眺めて、春はなんて人間は馬鹿なのだろう、と思った。
(そのまま騙しきれば、騙したということにはならずに済んだかもしれないのに――)
盲人に、林檎は紅いと、腐った茶色い林檎を指さしてしまえばいいのに。もしかしたら匂いや空気でばれるかもしれないが、自分をも騙せば、それは真実だ。
誰しもが真実を追い求めるわけではないのだ。なのに、どうして――。
春は一橋卿の様子を見てから、黒兵衛を追い掛け、屋根の上を移動していると、黒兵衛と目が逢い、悪ガキのような笑みを向けた。一橋邸の従者たちはどこに笑みを向けたか捜すが、分からない様子だ。
春は思わず苦笑した。男の心は、女には所詮は判らぬ――天明五年八月十六日。田舎小僧捕縛。




