第1話
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「……うわぁお」
思わず口から感嘆の声がもれ出る。
だって想像してみてくださいよ、朝起きて朝食前にちょっと散歩していたら、森の中心にある大樹の側でうつ伏せに倒れている少年を発見。数えるのが面倒くさくなるくらい生きてきた僕でも、初めてのことである。これに感嘆せずにどうしろというのか。
上着の裾をはらってその少年の側にしゃがみ、まじまじと観察。
見たところ歳は十六・七歳といったところかな。ストレートに見えてちょっとはねた黒髪がサラサラと風になびく。ちょっとだけ薄汚れているようだ。手足にかすり傷は見られるけど、大きな傷はないみたい。着ている服は、っと、おお、見たことない服だ。どこから来たのかなあ。やっぱ異世界からかな。扉が開くなんて珍しい。……長く生きていても、この世の中には知らないことがたくさんあるから、生きているだけでも苦はない。むしろ毎日を楽しんでいる。ほら、また興味深いことができた。
と、そうだ、あまりずっとほったらかしだとこの子がかわいそうだ。春とはいえ、冷えてしまう。つんつんと頬を試しに軽くつついてみるが、なんの反応もない。随分深く眠り込んでるね。
すっと立ち上がり大樹に向かって回れ右。その幹にそっと右手を当てて、茂る緑を見上げた。
「大樹。森の大樹よ。あなたがこの少年を送り込んだのですか。私に、この子を育てよ、と仰せで?」
ざわり。肯定のように緑が揺れる。
「私で、よろしいのですか? 私は隠居同然のただの魔法使いにすぎません。そんなところに預けるので?」
ざわざわ。またしても緑が揺れる。
((お主だから、預けるのだよ。魔法使いシエル。))
人ならぬ声が頭に響く。男とも女ともつかない、重みのある声。大樹の意思が、触れる右手を通して伝わってきた。
僕だから、か。苦笑をひとつこぼして、幹に当てていた手を外し、そのままその手を腹のあたりにあてて一礼する。
「わかりました。お預かりいたしましょう。しかし、ずっとというわけではありますまい。その、いつかの時が来るまで。それで、よろしゅうございますか、大樹」
ざわりざわり。揺れた緑の返答は、まるで肯定とも否定ともとれなかった。まあ、なるようになるかな。
もう一度、深く大樹に一礼する。そして、うつ伏せ状態の少年を抱き上げ、家に向かって歩き出した。
* * *
ふ、と意識が浮上した。懐かしい夢だ。カーテンの隙間から朝日が差し込み、鳥のさえずりが耳に届く。朝か。寝ぼけた頭で考えられるのはそれくらいだった。
あ、でもそろそろ来るかな。だんだんと明朗になっていく思考のなかそう思った瞬間、バタバタバタと近づいてくる足音が。ほら、扉が開くーーー。
バタンっと勢いをつけて開けられた木製の扉。まあ強度はあるから歪んだりはしないけどさ。
「師匠っ、おはようございますっ!いや微妙に寝坊ですね、おそようございます! もー、いい加減起きてくださいよ、朝ごはんの支度ができないじゃないですか! ほら、起きて、ベッドから出る!」
手を引っ張られてズルズルと体を起こす。そのままベッドの外まで引き出された。慌てて出した両足がたたらを踏む。体勢を整えて、ようやく手を離した弟子の顔を見た。薄い茶色の瞳が怪訝そうに細められる。
「なんです、師匠」
「いーや、もう二年も経ったんだなーって思ってさ。ユーリは出会った頃と比べたら随分変わったねぇ」
なでくりなでくり。伸ばした左手で弟子の頭を撫でる。彼はむっとした顔でおもむろに僕の手を掴んで下ろさせた。照れ隠しなのは丸わかりだけど。
「変わってませんよ。この世界の、ヴィルジールの時の流れはゆっくりなんだって師匠が言ったんでしょうが」
「変わってないのは見た目、だよ。見た目なんてのは些細な違いさ」
あの日、あの後家に連れて帰ってしばらくして目覚めた少年は、それらしいことはなにも覚えていなかった。自分がどこから来たのか、どうしてここに来るようなことになったのか。そして、自分自身の名前でさえも。だけど、基本的な道具の使い方などは、解っていた。いわゆる、エピソード記憶喪失というものだろうと思われる。
とりあえず、名前がないと不便だろうということで、僕が名前をつけることにした。『ユーリ』と。特に意味があったわけでもない。たまたまその時思いついた、まあ言うなれば魔法使いのカンってやつかな。
目を覚ました彼は、不安そうな顔をしていた。そりゃそうだ。自分のことがなにもわからない、ここがどこなのかも当然、わからない。
今では気の強そうなきまじめ一本調子なユーリだけど、あの頃は本当にまるで自信喪失、という言葉がぴったりあてはまるほどぼんやりとしていた。言葉を発することなどあまりなく、発したとしてもほんの一言二言で。話しかけてみても、ぼーっとしていて反応は薄かった。彼の身を襲った何らかは、どれだけの何を彼にもたらしてしまったのだろう。ただ今見ているだけのこっちだけど、そのことを思うとツラくて泣きたくなった。
「……。俺は先にダイニングに行ってますから、師匠も早く身支度して、来てくださいね!」
「はいはい。 ……っと、そうだ。ユーリ」
背を向けて去ろうとしていたユーリだったが、振り向いた顔にはまだなにかあるのか、とはっきり書いてあった。
「今日は、街に行こうか!」
あっけらかんとそう告げた直後の愛弟子の驚いた顔は、たぶん当分忘れられない。まんまるく見開いた目。ぱかっとかっぴらいた口。去ろうとしたちょっと不安定な格好のまま固まる姿。サプライズ大成功、とにんまりした笑みを浮かべたくなるのを必死でこらえる。きまじめ一本なこの弟子の表情を変えるのは、ちょっと、いや、かなり楽しい。性格悪い?失礼な。面白おかしく過ごしてるだけじゃないか。
街は、今まで二年間ずっと森で過ごしてきた彼にとって、初めての地。そろそろ彼も、そしてたぶん僕も、変わり始めなくちゃね。いつまでもこのままってわけにはいかないから。まずは小さな一歩から。無計画だって、だいじょーぶ、きっとなるようになる!