2.指輪
「未来、大丈夫?」
べッドの上でペタリと座り込んでいるわたしのそばに両親が歩み寄ってきた。二人は、将太を見ても何も言わない。というか、視線をそちらへ向けることさえしなかった。
「えっと……」
あの、そこに居る男子、見えません?
「嫌な夢を見たのか?」
父さんの大きな手が頭を撫でてくる。全然。っていうか起きてましたから。
「いや、その……」
どう言えばいいんだろう。二人とも、将太の存在を無視している。というか、全く気付いてないみたいだ。
それってつまり、将太がわたしにしか見えてないってこと? マジで?
となると、この部屋に将太が居るなんて言わない方がいいってことになるよね。いよいよ頭がおかしくなったかと思われるってことだもん。
「気分転換に、三人でどこかお出かけする? 来月から高校生なんだもの、新しい服を買ってあげるわよ」
母さんが優しい声で言ってくれたけど、正直それどころじゃない。だって将太が。いるんだもん、ここに。
ひとまず二人に出て行ってもらおう。わたしは精一杯の、疲れていて、且つ、無理やり笑顔を張り付かせているっていう設定の表情を作り上げた。
「ありがと。でも今日は、一日家で休んでたいかな」
「そう……。そうね。ゆっくりしなさい。ご飯のときは呼ぶからね」
「うん」
二人が出て行ったので、わたしはようやく将太の方へ向き直った。背中を丸め、体育座りのようにして膝小僧に鼻より下をうずめている。
わたしは彼の顔半分をじっと見つめた。どこからどう見ても将太だ。すっきりとした短髪に、綺麗な新月眉。意志の強そうな丸い目。軟骨の形が見える鼻が、なぜかたまらなく好きだったのだ。
「あ、あんた、どうしたのよ、一体」
恐る恐る話しかけた。将太は顔をゆっくりと上げ、顎を膝小僧にのせた。
「ごあいさつだな。会えて嬉しい、じゃないの?」
「ふざけないでよ。何でここに居るの?」
「何でって、分かるだろ? 未来が会いたがったからさ」
「は? どういうこと?」
「さっきのおじさんたちの反応見ただろ? 俺はお前以外には見えてないの。つまり、未来の世界でだけ、俺は存在しているって訳」
どういうことよ? わたしが幻影を見てるってこと? え、つまり、わたし、ビョーキ?
「うそよ……」
こんなにハッキリと見えてるのに、わたしにしか見えてないって。有り得ない。なにかの間違いだって。
「いやいや、そんなに絶望的な顔すんなよ。死んだと思ってた最愛の彼氏が居てくれて、しかも自分の部屋に住んでくれるなんて、サイコーにハッピーな展開じゃん。高校生で同棲できるとかなかなか無いぞ?」
「えっ、あんた、わたしの部屋に居つく気なの?」
「当たり前じゃん。未来しか俺のこと見えないのに、違うとこに行ったら意味ないじゃん」
将太が立ち上がり、こちらにやって来た。手をわたしの頭の上にかかげる。手首が動くのが見えたが、頭には何も感じなかった。どうやら、ポンポン、としてくれたようなのだけど、ほんとに、何も。
「肌の感触はないんだね」
「そりゃそうだよ。だって俺、幻だもん」
なんだこのふてぶてしい幻覚。ホントにこの将太は、わたしが作り出しちゃったものなの? 寂しさ、辛さのあまり?
うん、確かに超ーー辛いよ。大好きだった人が死んで。だけどさ、それとこれとは別じゃん。実際に生き返ってくれるんだったら、そりゃあ嬉しいけど、幻っていうか、ある意味、妄想? 妄想で蘇ってもらったって、何の生産性もないっていうか。うん。そのことは、わたしが一番理解してる。ほら、わたしすっごい正常じゃん。幻覚見ちゃう人の思考回路じゃないよ、これ。
「なに考えてんの」
うおっ。隣っていうか、超至近距離に将太がいた。左半身がほぼ密着してる。体温も息遣いも何も感じないから、全然気が付かなかった。
わたしはギロッと睨みつけることで返事代わりにした。もちろん、なんでこんなことになったのか考えてるのよ。
「まあ、別にいいけどさ。ところで、さっきの件だけど」
えっと。さっきの件? なんだっけ? 首を傾げて先を促す。
「お前なあ……。指輪だよ、ゆ・び・わ!」
あ。そうだ。ヤバ。そうだった!
怪しいと思っていたベッドを捜索していたら、二十分ほどで見つかった。はあ、良かったあ。薬指にはめたまま寝て、そのまま外れてしまったみたいだった。確かにわたしの不注意だけど、こんなサイズオーバーの指輪をくれた将太のせいでもある訳で。
「わたしの指輪サイズ、知らなかったでしょ」
学習机の前にある椅子に座り、左手薬指にはめた指輪を右手でぐるぐると回しながらわたしは言った。将太はベッドの上であぐらを掻いている。
「まあね。でも、サイズ直しも無料で承りますって店のポスターに書いてあったし、まあ大丈夫っしょって思ったんだよ」
お直しか。そっか、私がお店に行って、薬指のサイズに合わせて直してもらうっていう手もあるのか。でも。
「こういう指輪のお直しを、一人で行くのはちょっとなあ……」
普通は男がついてくるものだもん。あるいは男だけで行くとか。左手薬指にはめる指輪を自分でお直しなんて、空しいし、怪しい。
指輪から視線を上げると、将太が申し訳なさそうな顔をしていた。
「俺、もちろんついて行くことはできるけど、周りには見えないもんな。ごめんな」
え、そんな、やめてよ。切なくなっちゃうじゃん。
わたしは薬指から指輪を引き抜き、右隣の指、つまり中指にはめこんでみた。急に思いついたのだ。もしかしたら、いけるんじゃないかって。
思惑通り、指輪は中指にぴったりだった。お誂え向きとはこのこと。嬉しくなって、手を将太の顔の前に掲げた。「どう?」
「いいね」
将太が笑った。片側だけにある八重歯が小さくのぞく。少し照れくさそうに笑うのが彼の癖だ。この笑顔にいつも癒されてきた。
物心ついた時から、将太は隣りに居た。誕生日は三ヶ月だけこっちが遅いけど、同い年。親同士の交流もあって、幼稚園の頃は組も同じで、しょっちゅう互いの家で遊んでいた。力も気も、わたしの方が少しだけ強かった。だから主導権はいつもわたしだった。おままごとに延々と付き合わせたり。それでも将太はそばに居てくれた。
小学生になると、さすがに二人で遊ぶことは無くなった。四年生まではクラスも違ったから、会話を交わすことさえしなくなった。登下校で偶然擦れ違うときに、軽く挨拶をする程度だった。
でも五年生のクラス替えで、遂に一緒のクラスになった。貼り出されたリストを見て「あ、嬉しい」とは思ったけど、もちろん口には出さなかった。教室で実際に将太に会ってもそれは同じで、わたしが「おひさ」と言うと彼は「おう」と答えただけだった。帰り道、途中で友達と別れたわたしは一人で歩いていた。次の角を曲がったら将太の家だな。そんなことを考えていたら、ふいに肩を叩かれた。驚いて振り返ると、将太が立っていた。「よう」
「あ、うん」
唐突のことだったから、それ以上の返事ができなかった。しかも少しだけ顔を伏せてしまった。そんなわたしが予想外だったらしい。将太は気まずそうに「ごめん」と言った。
わたしは慌てて首を振った。
「何で謝るのよ」
「なんか、話し掛けなかった方が良かったかな、と思って」
「そんなことないよ」
「そう?」
「うん」
「ならいいんだけど」
「そうだよ」
わたしの返事を最後に沈黙が訪れた。お互い、視線を逸らしあっていた。なんでこんな不自然な会話になっちゃうんだろ? はあ。どうしようかな。このまま帰るのも微妙だし……。
将太の顔をちらりと見ると、ちょうど将太もわたしの顔を盗み見ようとしているところだった。視線がぶつかり合い、思わずわたしは吹き出した。それは将太が吹き出すのと同じタイミングだった。将太はしばらくわたしを見つめたあと、あの照れくさそうな笑顔を見せながら「良かった」と小さく言った。
その日から、わたしと将太の交友関係は再開した。もちろん幼稚園の頃のように、ずっとべったりとくっついている訳ではない。けれども休憩時間や登下校時など、毎日必ず数分は、二人で話す時間を持つようになった。それは二人で決めたことではなく、自然とそうなっただけだった。すぐにわたしと将太は、周囲から「カップル」とからわれるようになった。けれども将太が否定も肯定もせずに淡々とした態度を取ってくれたので、わたしも安心して同じ対応をすることができた。
しばらくすると、クラスメイトたちもからかうことに飽きたらしく、二人で居るときに囃し立てられることもなくなった。その代わり、いつの間にかセットで「老夫婦」と呼ばれるようになっていたのだった。