1.彼の死
三月二十三日の午後三時頃、わたし、杉浦未来の彼氏、鏑木将太は死んだ。青信号の横断歩道を歩いていたところを、タクシーに跳ねられた。すぐに降りてきたタクシー運転手と乗客を薄目で見ながら、「何でだよ、チクショウ」と呟いたらしい。その言葉を最後に目蓋は閉じられ、二度と開くことはなかった。一応、救急車で運ばれたけど、搬送先の病院で死亡が確認された。
タクシー運転手は明け方まで飲んでいたらしく、重度の二日酔いだった。呼気には酒気帯び運転に値するアルコール濃度が検出された。危険運転致死傷罪が適応されるかもしれない、許し難い事故だった。
二十四日の夜、わたしはハッピーバースデイを歌ってもらっている筈だった。だけど耳に入ってくるのは、お坊さんのお経。意味が分からない。ナンなのこれ。なんでわたしがこんな目に合わなきゃいけないのよ。
お通夜の参列者は凄い数だった。「若い人が亡くなると集まる人の数も多いのよね……」と誰かが話すのが聞こえた。わたしは将太の妻ではなかったし、もちろん家族でもなかった。でも近所の人や中学の同級生、将太の部活の後輩たちは、わたしの顔を見るなり「こんなことになるなんて」と声を詰まらせたり、何も言えずに滂沱のごとく涙を流したりした。みんな、わたしたちが付き合ってることを知っていた。告白してきた翌日に、将太自身が周囲に吹聴しまくったのだ。あのときは怒ったけど、今はもう、それさえもかけがえのない一瞬で、思い出すのも苦しい。
辛いなんてもんじゃないよ。心臓が張り裂けて、散り散りになって、もう胸の中は空っぽになってしまったような感覚だった。
通夜が終わり、おばさん、つまり将太のお母さんの所へ行った。通夜が始まった時から意味ありげにこちらを見ていたし、元々ちゃんと挨拶をしようとも思っていた。
おばさんは、私に小さな紙の手提げを差し出した。
「一緒にバースデイカードも入ってたのよ。これは未来ちゃんのものだから。ね、受け取ってやって」
おばさんには三日前にも会っていた。ご近所さん同士だからしょっちゅう出くわすのだ。今、目の前にいる喪服の婦人が、あの時のおばさんと同一人物とは思えなかった。元々ほっそりとした人だったけれど、頬がこけ、化粧をしている筈なのに病気みたいな肌の色をしていた。唇はかさかさで、充血した目の下は灰色に淀んでいた。
おばさんもまた、わたしと将太が付き合い始めたことを知っていた。わたしたちは幼なじみで幼稚園の頃からずっと一緒だった。「まだ付き合ってないの?」なんてからかわれることさえあった。だから正式な交際を知って、手を叩いて喜んでくれていた。
家に着くまで待ち切れなくて、歩きながら手提げに手を入れた。小さな黒い箱が出てきた。これは、もしかして、もしかしちゃうの? やめてよ、もう……。箱を開けると、シルバーの指輪が出てきた。小さな青い石が埋め込まれている。指輪をコートのポケットに入れて、今度はカードを取り出した。『ハッピーバースデイ、みらい! 俺の彼女になってくれてありがとう。みらいの彼氏として誕生日を祝えるなんて本当に幸せです。ちょっと、いや、かなり早い気もしたけど、プレゼントはこれしか思いつきませんでした。ちゃんと左手の薬指にはめるように!』
うん、早いよ。早いって。だってまだ私たち、付き合って一週間だよ? それにさ、どうせなら指輪のデザインは一緒に選びたかったなあ。あるいはペアリングとか。
ポケットから指輪を取り出して、左手の薬指にはめた。すぽっと入った。うん、ブカブカだ。ほらみろ。わたしの指の号数なんて知ってるはずがないと思ってたんだよ。指輪の裏側を見て号数が刻まれてないか探す。『11』という数字を見つけた。わたしは七号なんだよ。そりゃあ、でかいはずだわ。将太は何を根拠にこのサイズを選んだんだろう。たぶん、適当にデザインが好きなのを選んだんだろうなあ。ていうか、売り場の人も確認してやってよ。
ぽとっ、と左手の甲に雫が落ちた。ぽとっぽとっぽとっ。次々に落ちて、やがてそれらは繋がって指の方へ滑り落ちていく。将太が真剣に選んでる姿が勝手に頭に浮かんでくる。
というかさ、なんだっていいから、生きててよ。そばに居てよ。こんなの残してどっか行っちゃわないでよ。ひどいよ。ひどすぎるよ。わたし史上最悪の誕生日になったよ。
家に着いた。靴を脱いでいると、一足先にお通夜から帰っていた母さんが顔を出した。
「おかえり」
目がまだ充血してる。母さんも、将太のことは随分と幼い頃から可愛がってきた。娘の彼氏というよりは、近い親戚の子が亡くなってしまったような気分だと思う。
わたしの顔を見て、また目をうるうるさせ始めた。たぶん、わたしの顔に泣いた痕跡を発見して、今度は母親スイッチがオンになったんだろう。さあ、お母さんの胸に飛び込みなさいのごとく腕を少し広げてきた。いやいやいや。悪いけどそんな気になれないから。気付かない振りをして、階段をのぼりはじめる。
「制服から着替えたらお風呂入っちゃいなさい」
背中にかけられた言葉に空返事をして、二階にある自室のドアを開ける。ブレザーだけ脱ぐと、電気もつけずにベッドに倒れこんだ。
はあ。はあああ。辛いよ、辛すぎる。もう死にたい。このまま死なせて。将太、迎えに来てよ。
そしてそのまま、わたしはどうやら眠ってしまったらしかった。将太が死んだっていう知らせを聞いてからほとんど寝ていなかったから無理もないと思う。目を覚まして枕元の時計を確認すると、午前八時を過ぎていた。やばい学校……! と思ったけど、今は春休みだった。前日に制服を着たから体が勘違いしちゃったか。
親が起こしに来た形跡もないから、放っておいてくれてるのかも。もう一眠りするか。そう思って顔を枕に埋めた。二度寝できるなんて幸せだね。休み万歳。……でも、将太はいないんだな。将太は死んじゃった。将太にはもう会えない。
ああああああ、もう。やだ。どうにかして。気が狂いそう。わたしの頭の中から将太を消してくれよ誰か。
とてもじゃないけど二度寝は不可能なことが分かった。わたしは安眠の自由も奪われたのか。ベッドから立ち上がり、ひとまず制服を着替えることにした。全身鏡の前に立った。髪はボサボサ。目はパンパン。
どうにも視界が狭いなーと思ったらこんなことになってたんかい。ひどいな。ほんとひどい。まぶたの上を揉んでみたけど、腫れは全然解消されなかった。とりあえずお風呂入るしかないな、こりゃ。
シャツのボタンを外そうとして、あれっと思った。鏡の中の自分に、何か違和感。重要なことを忘れてる気がする。なんだろ? ボタンに手をかけたまま、しばらく立ち尽くした。うーん。私は一体、何に違和感を感じてるんだろ。制服にどっかおかしいところがある? ブレザーは昨晩脱いで、椅子の背にかけてある。シャツは別に変なところないし、スカートも。もちろん靴下も。何だろう、つまり気のせい?
わたしはもう一度ブレザーを眺めた。すると今度はポケットの膨らみに気がついた。四角い出っ張りがある。あれはえっと……、そうだそうだ、将太が指輪をくれたんだ。将太がわたしのために指輪を……、誕生日だからって……、その帰り道に……、将太、なんで、なんでよぉ……。
じゃなくて。それはいいとして。わたし、指輪貰ったんだよね。それで指輪をつけたんだよね。その指輪は……?
左手はすっきりしていた。つまり、何にもついてない。もちろん右手も。違和感ってこれだったんだ!
椅子からブレザーをひったくり、ポケットから箱を取り出す。黒い箱を開けてみる。……ない、やっぱりない。わたし、どこにやっちゃったんだ!?
めまいがする。ブレザーをハンガーにかけると、へにゃへにゃとベッドに座り込んだ。
「どうしたの?」
「将太が買ってくれた指輪が無いの。昨日、帰り道でつけてたんだけど」
って、誰。
いま、確かに男の人の声がした。聞き覚えのある声。父さんじゃない。もっと若い感じ。ちなみに、弟はいない。
空耳かな……。わたし、疲れてるんだろうな。
「ちょ、マジで!? 一昨日買ったばっかりの、あれ!?」
また聞こえた……。なにこれ。この声、絶対、間違いない。将太だ。
わたしは恐る恐る、首を半回転させた。学習机の反対側の壁に置いてる、本棚の前。
将太が座っていた。
「きゃあああああああ!!」
なんで、なんで、なんで将太が!?
将太はギャップの緑色のトレーナーと、デニムを身につけていた。事故にあった時と同じ服装だ。
「こらこらこら、彼氏さまを見てなんちゅう反応をしとるんだよ、未来」
将太がしゃべった。こちらを見ながら。ど、どうなってるの!?
その時、どたどたと部屋の外で音がした。あ、やばっと思った時はもう遅かった。ドアが勢いよく開かれる。
「どうした!? 未来!」
父さんと母さんが、鬼気迫る顔で立っていた。
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