プロローグ
狛犬たちは暇を持て余していた。生まれてから千三百と少しの間、神使として獅子と狛犬、二人で神社を見張ってきた。昔は人も異形のものも、結構な数がこの神社に集まってきたが、今では人の信仰心は薄れ、常に訪れるものなどおらず、異形のものは街の発展とともにすみかを失い、どこかへ霧散してしまった。そうして閑散となってしまったこの場所には、同じように暇をしているものだけが集まってくるのである。
梅雨も明け過ぎ夏が来て、初夏が過ぎ去り夏休み。未だセミたちは本腰を入れて合唱をしてはいない頃。安藤有稀は神社の敷地内を歩いていた。と言っても昼間の暑い時間帯に理由もなく、ただ遊歩するような性格ではない。本屋さんへ行った帰りにちょっと寄りたくなっただけである。少し遠回りになるが家に帰ることが億劫になる程でもない。本屋さんも神社も家から五分圏内なのだ。
普段は正月に来るか来ないか、小さくも大きくもない境内、その裏手にはそれよりも10倍ほど大きな林が広がり山もそびえ立つ神社。なぜ急にこんな所に来たくなったのか。有稀は自覚していた。誰かに話を聞いて貰いたかったからだ。話といっても願望だ。三年も四年も前から思っている、叶うはずのない大きな願望。冗談交じりに友人に話したこともあった。「そうだねぇ」と賛成もしてくれたが、やはりそいつもそんなことは叶わないとわかっている。だから有稀はここに来たのだ。実現しないと知っているからこそ、居もしないだろう神様にお話する。誰かに聞いて貰うということは気分が良い。
石の敷き詰められた参道を抜け、本堂の石の階段を上がった。そして透哉は買ったコミックを下に置き、ポケットからお釣りの十円玉を選んで、賽銭箱へと優しく落とした。詳しい参拝方法なんて分からないが、垂れ下がる紐を掴み、鈴を大きく三度ほど鳴らしたあたりで、二度頭を下げ、パンパンと手を打ち鳴らし、そしてもう一度頭を下げた後、声に出して神様に話しかけた。
「神様あ、魔法とか使ってみたいんだけどぉ……やっぱ無理かな?」
そう言い終わって、気恥ずかしさから毛穴がボワっと水を吹き出した。
狛犬たちは丸くなって話していた。久しぶりに珍しい願いを持った参拝者が現れたからだ。今日、集合しているメンバーはこの神社の神使の獅子と狛犬、その他に稲荷神社の神使の狐の姉妹だ。
「面白いのが来たね、獅子姉」
「そうね、久しぶりの参拝者ね」
「きーちゃん、面白い人好きー! ね、つーちゃん!」
「うん! ヘンテコな人おもしろーい!」
今、ここに集まっている暇神使たちは皆、有稀に関心を持ったようだ。若いのに人が自ら決めた二礼二拍手一礼を守っていることにも感心したのかもしれない。口々に自分の意見を放おった。
「で、どうする? 行かせてあげちゃう?」
「別に行かせてもいいんじゃない。て言うかあたしも行ってみたい」
「だよね獅子姉。有給貯まってるだろうし、神様に言って僕達も異世界旅行楽しもうよ」
「休まず仕事していたといっても誰も来ないからお喋りしているだけだったわよねぇ」
すでに長期休暇を取る気満々な二人。そんな二人を見て目を輝かせて見つめる姉妹。
「つーちゃんたちも行くー! ね、きーちゃん!」
「うん、行く! きーちゃんたちもイセカイ行きたい!」
「そうねぇ。それじゃあ社に戻って大稲荷様に有給休暇ください、ってお願いして来なさい」
「ユーキューキューカね! りょーかーい! 行こ、つーちゃん!」
「うん!」
狐の姉妹いつもと違ったことができると決め込んで、ルンルン気分で手をとって、自分たちの山奥の本殿へと帰って行く。
仲良しさんたちを見送ったところで自分たちも、自分たちの神に有給休暇の申し出をすることにする。意識を神へと向け、そのまま話したいことを口にするだけで良いという、とても便利な神通力。
「ねぇねぇ神様。僕だけど」
『何じゃ、狛犬か? 何かようかえ?』
「今さ、魔法が使いたいって願ってる人がいてさ」
『それはワシにも分かっておる。それで?』
「うん、それでね。その人の願いを叶えてあげたいなって思ってるんだけど」
『まぁ別に良いぞ。具体的にはどうするのじゃ?』
「異世界に連れてってあげようと思うんだ」
『ふむふむ、そうかそうか。それくらいならパパッとやってやるぞよ。神様ポイントも使い道が無くて大量に余っておるしの。ではさっそく参拝者に接触してきてくれ。やることは早いほうがいいからのう』
神様ポイントとは神様が願いを叶えるために必要とするポイントである。毎年一定量のポイントが各神様に与えられており、神様自身のために使うことは禁止されているので人のため、または神使の願いを叶えることにしか使えないのだ。
「ありがと。それはいいんだけどさ、ここから本題? 僕と獅子姉も異世界に行きたいんだ。休みとって」
『………………別に良いけど……有給貯まっているしのう』
「いいの? ありがと」
神様が許可をくれたことをOKサインで獅子に合図を送る狛犬。それに反応してにっこりと笑い、「話をつけてくる」と言って去って行く獅子。
「今獅子姉が話に行ったよ」
『そりゃよかったが、二人で異世界旅行なのじゃか?』
「違うよ。稲荷の狐姉妹も一緒に」
『そうかぁ。楽しそうでいいのじゃなあ……』
「うん!僕も楽しくなると思うんだ!それじゃあ、また世界転移してもらう時に声かけるね!」
早口に会話を終わらせた狛犬。神様から望ましいという感情が存分に伝わってきたからだ。長い付き合いから、寂しがり屋なので一緒に行きたいのだろうなと感じ取った狛犬。社から長く離れることが出来ない神様を誘っても、断らざるを得ないのだから逆に可哀想だ。せめて結婚でもしてくれればと思ったりもするが、少々行き遅れてしまっている。
そしてそのことに責任を感じる必要も無いし、感じるだけ無駄なのでこれから起こることを想像し、胸を踊らせながら獅子の帰りを待つのだった。
有稀は石段に腰を下ろしていた。家に帰ってもいいのだがここに座っていると、裏手の林から吹き抜けてくる風が火照った顔を冷ましてくれるのだ。
「そろそろ帰るか」
有稀はつぶやいた。まだ顔は赤らんで見えるがこれはさっきのセリフのせいではない。五分ほど休んでいる間に太陽が大きく傾いたようだ。実はもっと長く休んでいたのかもしれない。
そう楽観的に考えをまとめた有稀が腰を上げ、歩き出そうとしたその時に一段と強い風が有稀の体を通り過ぎていく。堪らず顔を風下に向ける。足に当たる砂粒がこそばゆい。
「ちょっとそこのあんた。顔をこっちに向けなさい」
まだ風が吹き付けているというのに背中から誰かに声をかけられた。誰だ誰だと思いながら返事をする。
「すいませーん、今風が強くて向けないんですけど」
「いいから向きなさいよ!」
肩を掴まれ無理やり体を回される。そして声の主であろう女の子を視界にとらえた。背丈は自分より10センチばかり低い、160センチくらいだろうか。風が煽られている茶色がかった髪が、ライオンのたてがみの様である。
有稀がそう観察をしていると、女の子は腰に手を当て再び話し始めた。
「あなたの願いは聞き届けたわ! 魔法が使える世界に連れてってあげる!」
突然何を言い出すんだと困惑する。あと、どうして少し興奮気味なんだ。そんなことはお構いなしに話は続く。いつの間にか風は止んでいた。
「時間がもったいないから説明するわね。まず異世界でのルール……というより注意事項よ。向こうの住人に異世界があるという概念を与えてはいけないわ。これだけは絶対よ」
「ちょ、ちょっと待ってくれない」
「何よ、質問はあまり受けないわよ」
「うぅ」
鋭い眼差しで睨まれ怯んでしまう有稀。女の子、もといこの神社の神の使いである獅子本人は睨んでいるつもりなど全くないのだが、彼女の強気な物言いやキリッとした顔立ちが勘違いを生んでしまっている。
「何なんよ、早く言いなさい」
「えっと、君は誰?」
「あたしはこの神社の神使よ」
「へーそうなんだ。もう夕方だよ。家に帰らないとね」
「本当なんだから! いいわ! 見せてあげる」
名前を聞きたかったんだけどなぁと頭をポリポリと掻く。冗談だと思い受流そうとした有稀に向かってそう言うと、神使の獅子は一歩距離をとった。そして何かを呟いたかと思うと、またも風が吹いた。
有稀が目を話した数秒の間に、目の前にいた女の子は姿を消し、代わりに満足気に口角を上げたライオンが立っていた。
「どうよ!」
「メスじゃんか! 獅子といったらオスだろ!」
目の前にライオンが出現しているのに、何故こんなにも冷静にツッコんでいられるのかはよく分からないが、多分、拍子抜けしたせいだろう。
「メスって言うな! ムカつくわ! 別にいいじゃない女の子でも!」
獅子は有稀を威嚇し、一声吠えた。それが引き金だったようで、瞬く間に女の子の姿に戻ってしまった。
「これでわかったでしょ。さっ、話を続け」
「すげぇっ! 魔法みたいだな! ベリーファンタジーじゃん!」
「うるさいわね! いいから話を聞きなさい!」
今更にして興奮が収まらない有稀を一喝する。これじゃあ話が進まないとイライラし出した獅子は、パッと有稀の手を取って無理やり本堂へと歩き出した。
「ちょっと待って! 痛い、痛いから! あれって魔法なの?!」
「黙って! あれは神通力よ、魔法じゃないわ。さっき言った通り、向こうの住人には異世界というものの存在を考えさせてはダメ!あと一度だけ願いを叶える事ができる様にしてあげるから帰りたくなった時に使いなさい。以上!」
矢継ぎ早に必要なことだけを喋り、本堂の扉を開けズカズカと中へ入って行く。全体が木の色をした内装に、金のくすんだ仏像が夕日で輝きを取り戻している。
「ちょ、ちょっと! ここって土足厳禁じゃ無いの!」
「いいのそんなこと気にしなくて! 神主の人たちが掃除してくれるんだから。神様!転移の門作って」
『了解じゃよ……』
二人の前に白い光が現れて、徐々に大きくなった。有稀には神様の声は聞こえてはいないし、聞こえたとしても何が何だかさっぱりである。
「ここに入れば気づいたら異世界よ。何かしたいことがあるならやりなさい」
言い終わると落ち着いてきたのか、繋ぎっぱなしだった手を有稀に悟られないように放す。
「全然よく分からないんだけど! なんなのこれ?」
「あなたの願いが叶うのよ! いいから行きなさいって!」
獅子は焦れったくなって有稀の胸をドンと押した。バランスを崩した有稀は本能的に伸びている手を掴んでしまう。
「あ」
「えっ? きゃあ!」
二人は仲良く手を合わせて、光の中へと吸い込まれて行った。