分かった
「記念日」
「そう。母さんが亡くなって、経済的に苦しくなって、父さんは単身赴任で東京に行った。その日が、五月九日なんだ」
「でも、そのことをお姉さんは忘れてたんでしょ?」
「まあな。でも、ほら、記憶がどうとかは関係なくさ。毎年恒例で行われる行事ってなんとなく心の中に残ってるものなんだ。例えばの話、クリスマスはどうだ? クリスマスに具体的になにがあって、どんなことをしたとかは覚えてなくても、なんとなくケーキを食べる習慣があったとしたら、それって記憶が曖昧になってもやろうとすると思うんだ」
認知症になったからとて全てを忘れるわけではない。
昔の記憶や習慣というものは残るのだ。
「姉ちゃんはまさにそれだった。具体的になにがあったのかは覚えていない。でも、五月九日にはいつも俺と二人で一年間無事過ごせて良かったねってケーキを食べてたんだよ。それで、姉ちゃんはグループホームを抜け出して、途中で見つけたお菓子屋さんでケーキを買い、家へ帰ろうとしたんだ」
瀬名は責任感が強い。
優しく、真面目であるが故に自分が家に帰らなければと必死になって探したらしい。捜索中に目撃情報が何件もあったが、全てバラバラの位置だった。どこに自分の家があるのか、帰らなければならない家があるのか、計、八時間以上歩き回ったのだ。
駿平と二人でケーキを食べなければならない。家へ帰らなければならない。
それだけを目的に、ひたすら歩き回っていた。
「だから、ここは俺にとって、とても大切な場所なんだよ。もう忘れているだろうと思っていたことを、ちゃんと覚えてくれていて、形にして見せてくれた。どんどんできなくなっていくことも多いけど、それでも、忘れてないこともちゃんとあって、できることがあるんだって教えてくれた。そりゃ、もっと歳を取ればこんなところまで来るなんて無理になるかもしれないけど、そんなの誰にだって当てはまる。今できる精一杯のことを、やってくれた姿勢が、本当に嬉しかった」
駿平は目をごしごしと拭って、さらに続ける。
「それから、俺は積極的に病気とか、高齢者の身体についてとかを勉強し始めた」
「たぶん、その頃にあたしも合流したのかな?」
「そうだな。俺が勉強してる時にいろはが当然のような顔で『あたしも勉強する』って言ってきた時はびっくりしたぞ」
二人であははと笑い合う。
「高齢者の身体にどんな変化が起こるのか、そもそも認知症とはなんなのか。そんなことを勉強して、グループホームにいる利用者さんたちとの付き合い方も職員に指導してもらった」
「で、その結果が今、ってわけだよね」
「だな」
今、毎日が楽しいかと問われると正直微妙だ。
瀬名の病気は少しずつではあるが進行しているし、学校でも厄介者扱いされている。グループホームの利用者と関わるのは楽しいと感じる反面、気疲れがないとは決して言えない。学校の勉強が忙しくなる中、これから、今までのように毎日グループホームへ行けるか不安もある。
けれど、充実はしていると思う。この先、何十年も生きていく中できっと今の経験は大きな力になる。どんな職業に就くとか、具体的なことは分からないけど人生経験豊富な高齢者たちと毎日のように付き合っているのだ。これが、力にならないはずがない。
「駿平」
黒花が、俯いたまま話しかけてくる。
「なんだ?」
今の話を聞いて、なにを感じたのか。
どう思ってくれたのか。
黒花の出した答えは――
「少し、考える時間が欲しい」
それだった。
「分かった。でも、あまり遅くならないようにな。俺らも気になるからさ」
別にいい。
今すぐ答えを出せとは言わない。
それだけ、難しい問題なのだ。
昨日、いろはと話したように、大した理由があるわけではない。
なんとなく、何もできなくなることを変だと感じ、気持ち悪いと思う。
自分自身が衰えてくるまで、それがどういうことなのかは決して分からない。
今という時間が一番大切な若者にとって、先のことなど想像するしかできない。
だから、考える時間、というのは必要不可欠なのだ。
でも、黒花には理解者の一人になって欲しい。
駿平は、そう願った……
◆
その後、ルイの手配で迎えに来た車の中。
黒花は駿平のことをちらちらと見ていたが、駿平自身は全く気付いていなかった。




