プロローグ
「世の中の皆さん! 認知症を知っているだろうか! 『なにかをしようと立ち上がったけど、自分がなんで立ち上がったのか分からなくなってしまった』、『昨日、晩御飯を食べたかどうかを忘れてしまった』。これは認知症によく見られる症状だ。単なるど忘れとは違うぞ! 何故かって? 自分が立ち上がった理由そのものを忘れる人はいるか? 昨日晩御飯を食べたかどうかを忘れる人はいるか? 普通のど忘れは行為そのものは覚えていても、細部を忘れる。しかし、認知症では行為そのものを忘れてしまうという明らかな――」
「ねえ、駿平」
唐突に、背後から声をかけられて駿平は動きを止める。
ゆっくり振り返ると輝く金髪を二本の尻尾に分けた少女の姿がある。
「なんだ?」
その少女の胸は高校生にしては非常に大きく、男なら絶対に目がいってしまうレベルだ。
少女が立ち上がったはずみでぽよんと一回揺れた。
「……」
「どうした?」
真顔で黙った少女に再度呼びかける。と、
「目がエロイんだけど?」
「……」
胸に目がいっていたのがバレタか。
「世の中の皆さん! 認知症――」
「誤魔化すな!」
見事な回し蹴りだった。脇腹にクリーンヒット。
「ぐぐ……。全く。これだから今の馬鹿者は……」
「もう一回蹴られたい?」
「すみませんでした!」
ツインテールを解きながら凄まれたのでさすがにやめる。
浅井いろはがツインテールを解くと鬼になる。幼馴染として、そのくらいの知識は持っている。
「それで、いろは、本当になんの用?」
「さっきの独演会? みたいの、見ててキモイからやめた方がいいんじゃない?」
髪の毛を結び直しつつ、いろははばっさり切る。
「そりゃまあ、さっきのあいつらはうざっ! って思ったけど、だからってここでそんなことしてたら本当に怪しい人だよ? だいたい、その独演会もどきが原因で今の状況になったんでしょ? 学習しようよ」
「……」
「分かって欲しいのはあたしだって同じだけど、もう今更でしょ?」
いろははやれやれとため息を吐く。
「まあな。なんとなくやってみただけで本気じゃないし」
いろはの言うあいつら、というのは駿平が抱えるある問題についてやたら絡んでくる男子生徒たちだ。いや、直接絡んでこなくても、遠巻きに陰口をたたくやつらも入るか。
「とにかく、さっきみたいに誰に話してるのか分からないようなのは禁止。いくら屋上でも、校舎内だから見られてる可能性はある。注意してよ?」
「はいはい」
適当に答えて、空を見上げると、これでもかというくらい澄み切った青が目に飛び込んでくる。今の心境とはまるで真逆の空模様だった。
「……」
「……」
数分の沈黙の後、
「駿平」
「んー?」
「間違っているからって反発すると逆に立場が悪くなるってことはよくあるけど、それって反発するのが間違ってるのかな? それとも、反発されるくらい間違っていることをした方が悪いのかな?」
いろはが小難しい話題を振ってきた。
一度ではよく意味が飲み込めず、いろはに向き直り、なんだってと聞きなおす。
「ほら、よくあるでしょ? イライラしたことに対して噛み付くから余計こんがらがるんだっていうこと」
「まあな。イライラした気持ちを抑えて、一度謝ってからしっかり話した方が良かったなっていうのは俺も経験あるけど」
「それって、最初に間違ったことをした方が悪いの? それとも、必要以上に噛み付く方が悪いの?」
いろはは、空を見上げて、目を細めている。
駿平もそれにならってもう一度、澄み渡った空を見上げた。
「……」
「……それは――」
と、駿平が答えようとしたところでチャイムが鳴った。
「あ、そろそろ行かなきゃ」
「もうそんな時間か……。あと一時間、頑張れよ」
「うん」
応援すると、いろはは笑顔でガッツポーズ。
「じゃ、また後でね」
スカートを翻してそのまま駆けていく。
「……」
駿平はそれを見送ってから、ポツリ。
いろはにやめろと言われたばかりだが、もう一度、声に出してみる。
「世の中の皆さん。認知症を、知っていますか?」
おそらく、いろはが発した問いは、ここに繋がっている気がした。




