物忘れ?
「駿平~! ご飯できたよ」
と、居間の方から瀬名の呼ぶ声が聞こえた。
良いタイミングだ。分かったと声をかけてそのまま部屋を出る。
「お、今日は焼きそばか……」
テーブルには既にいろいろな料理が並んでいた。
毎日、仕事に行って疲れているだろうに、よくこんなに作る元気があるなとしみじみ思う。生まれた時から母親がいない駿平にとって、瀬名は母親代わりだ。いつも感謝している。
「駿平、そういえばさ」
「ん? なに?」
先に片付けてしまおうということなのだろう。
せっせと洗い物をしながら瀬名が話しかけてくる。
「カレンダーになんかマーク付いてるでしょ? それってなんだっけ?」
「マーク?」
不思議に思ってカレンダーに目をやるが、マークなど付いていない。
どういうことかともう一度瀬名に視線を送ると「五月だよ」と返事がくる。
「五月?」
既に食卓についていた駿平は気になって立ち上がる。
カレンダーを一枚めくって五月のスケジュールを確認する。
「……」
マークらしきものは、特にない。
ただ、一つを除いて。
「ええと、姉ちゃん、まさかとは思うけど、五月九日のことじゃないよね?」
おそるおそる尋ねてみると、瀬名はあっけらかんとした口調で「そう、それ」と言う。
「……」
暫し無言で、駿平は考える。
勘弁してくれと思った。
実は、半年ほど前から瀬名の記憶力が少しずつ落ちてきているのだ。いや、そんな気がするのだ。
半年前、一本の電話が家にかけられてきた。電話の相手は瀬名の勤め先の小学校。内容は、端的に言ってしまえば仕事上のミスだった。そのミス自体は取るに足らないことで、取り立てて問題にはならなかったのだが、相手の職員さんは「最近そういったミスが目立つのですがご家庭でなにかありましたか?」と質問してきた。こちらの家庭の事情を知っているらしかったが、駿平には思い当たることなどなかった。なにもありませんときっぱり答えて切った。
しかし、その後から、駿平は「おや?」と思う出来事によく遭遇することになる。例えば、大学時代の友達と遊ぶと約束していたはずなのに「そうだっけ?」と完全に忘れていたり、さっきもあったが料理中に平然と他のことをやり始めたり。最初のうちは単純なミスかと思っていたが、次第にその数が増えてきて、今では日常茶飯事だ。
「……」
そして、ダメ押しが、今回のこれだ。
五月九日は、父親が単身赴任で仕事に出て行ってから迎えた初めての日。つまり、記念日なのだ。毎年、この日はケーキを買ってきてささやかながら二人でお祝いをしている。駿平だけでなく、瀬名にとっても「一年間無事過ごせて良かったね」と確認する大切な日であるはずなのだ。
それを忘れているとなると、さすがにおかしいと感じてしまう。
「どうしたの~?」
けれど、当の瀬名は全くその事態に気付いていない。
駿平は「なんでもない」と言ってから強引に話題を変える。
黒鳥によって鍛えられた、嫌な予感というやつがじわじわと駿平の中で沸きあがっていたが、無視しておいた。駿平にとっても前島家にとっても瀬名は大切な家族の一員だ。心配ではあるが、変に突っ込んで瀬名を落ち込ませたくはない。
「駿平、ところで弁当箱は?」
「あ、ごめん。食べたら持ってくる」
そもそも、物忘れをすることなど、誰にだってある。
記念日といっても、日常生活が忙しければ自分の誕生日を忘れてしまう人だっている。結婚記念日をすっぽかす旦那だっているだろう。あまり、深く考えない方が良いのかもしれない。