もう帰るかい?
あっさりと、瀬名は答えた。
医者や俊也に説明されたはずなのに、自分が認知症だということを忘れている。
「……姉ちゃん、あとでもう一回来るから、ちょっと待って」
「え?」
駿平は額を押さえながら、外へ出る。
「あれ? 駿平君、どうしたんだい?」
康弘は先ほどの星野というおばあちゃんとテーブルに座って折り紙を折っていた。
さっきの罵声は部屋の外へ漏れてはいなかったようだ。
「ちょっと、気分が……」
駿平がそれだけ言うと、康弘はなにかを悟ったらしい。「分かった」と言うと一緒にグループホームの外へ付いてきてくれた。
康弘の案内で、屋上へと向かう。
「……」
「……」
屋上からは、上草市を見渡すことができた。
すぐ傍を流れる川は日の光を反射してきらきら光っている。
「……瀬名さんと、なにかあったのかい?」
「いえ、なんというか……」
日陰になっている部分に腰を下ろす。
「我々、職員の悪口でも言われた?」
「え?」
声が裏返った。
康弘はそんなことを気にせず、淡々と話す。
「さっきの大声、実はフロアの方にも響いていてね。あ、なにを言っているのかは聞き取れるほどではなかったんだけど」
康弘は空を見上げて言う。
「いきなり過ぎた、というとこかな? 認知症が進行する原因として、周りの環境が激変することが挙げられるんだよ。瀬名さんはまだあの年齢だろう? プライドもまだ残っている。環境が変わることによって、ストレスがすごく溜まるんだ。ご家庭の事情もあるから、責めることはできないけれど、本来であれば、もう少し瀬名さん自身に考える時間があった方が良かったのかもね」
「……」
「認知症の症状の一つに暴言や暴力というのがあるのは医者に聞いているんじゃないかな? えっと、人が変ったように、という表現が正しいのかな? まさしくそんな感じだったんだろう?」
康弘は優しく、語りかけてくる。
その口調は、どこか黒鳥にも通じるものがあって、やっぱり親子なんだなと駿平は思った。
「はい……。今まで、あんな風に大声を上げたことはなかったです。人の悪口をおおっぴらに言うことも、ありませんでした」
ずっと一緒に暮らしてきたからこそ、そのあからさまな違いが気持ち悪い。
病気、ではあるのだろうけど、その一言で済ませることができるほど駿平は大人じゃない。
「そうか。今日はもう帰るかい? たぶん、グループホーム内も息が詰まるだろう?」
「……」
全て、お見通しだった。
穏やかで、優しかったはずの姉の変貌、どこを見ても高齢者ばかりのグループホーム。駿平の心はとっくに限界をむかえていた。
「無理はしなくていいよ。そういう理由であまり会いに来たくないというご家族の方も実際にいるんだ。今回は私たちグループホーム側のお願いだったけど、今後は駿平君自身が決めればいい」
それから十数分、屋上で康弘と話した後、結局、瀬名には会わずに帰った。
康弘に瀬名へ「ずっと姉ちゃんの味方だよ」と伝言を頼んだけれど、それがどれほど効果はあるのか、分からない。




