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たとえ記憶が消えたって  作者: 彩坂初雪
お姉ちゃん、黒鳥
20/84

悪いことだとは言わないけれど

     ◆



 翌日、駿平は俊也とともに大浦家に行き、一週間ほどお願いします、と挨拶をした。

 黒鳥の父親、大浦康弘は身長百八十センチを越えるがたいの良い方だった。グループホームでも一応顔を見ていたが、面と向かうとそのサイズの大きさは驚きだった。康弘、そして母親の方もとても気さくな方であまり緊張しないで過ごせそうなのは嬉しかった。

 もうすぐ東京へ帰ってしまう俊也に、康弘は「子供さんたちのことは私が責任を持って支援させて頂きます」と、深々と頭を下げていた。俊也の方も康弘に何度も「ありがとうございます」と頭をさげていた。

「ふむ。そう言えば自室に男子を招き入れるのは初めてだったな」

 その後、駿平だけ大浦家に残り、黒鳥と共にゆったりと過ごしていた。

 黒鳥の部屋は想像通りというか、とにかく黒かった。カーテンの色も黒。机の色も黒。壁の色も黒。自分のものらしいノートPCも黒。ベッドにかけられているシーツまで黒なのだから感心する。

それほど広いとは言えないが、綺麗に物が整頓されているせいか、かなり広く感じた。

「どうだ? 一緒にベッドに寝転がってみたいとは思わないか?」

「そういう話は真面目にやめてください」

「どうして?」

 どうしてじゃない。

「あんたは自分が女だという自覚をもっと持つべきだ」

「ああ、そういう類の話か。安心しろ」

「なにをです?」

「駿平君に私を押し倒すだけの腕力があるわけがないだろう? 試してみるか?」

「……」

 ここで黙らなければならないのは男として情けない限りだが、事実なのだからしょうがない。黒鳥に腕力で勝てるはずがない。

「どうした?」

不良相手に一歩も引けを取らない人間相手にそれを試してみようとは思えない。

「はいはい。分かりましたよ。で、いろはの話、どうなってるんですか?」

 諦めて、話を逸らすことにする。

 瀬名がグループホームへの入所が決まり、もう一週間以上が経過している。俊也が東京へ戻ると同時に入所することになる。

 内心、それに対してどうけじめをつけて良いものかはっきりしていないが、だからといって悩んでいてもしょうがない。せっかくこうして自分たちを支援してくれる人がいるのだ。その人たちのためにも――



「駿平君」



「はい? て、え? ちょっ!」

 待てという前に行動を起こされていた。

「あのっ! 黒鳥さん、これはなんの冗談ですか?」

 声が上ずったか、しょうがない。

 あまりにも突然で、突拍子もなく、意味不明だったからだ。

 端的に言うなら、駿平は、黒鳥に抱きしめられていた。

「駿平君」

「ええと、はい」

 困惑したまま、返事をする。毎日のように駿平には理解できない言動をしている黒鳥だが、今回のこれはその数段上をいく。

 抱きしめたまま、黒鳥が耳元でゆっくりとささやいた。



「我慢するのが悪いことだとは言わないけれど、少しは素直になった方がいいと思うぞ?」



 息を呑む。

 そんなことを、誰かに言われると思ってなかった。

「まったく。今週一週間、かなりの時間を君と共にしたけれど、結構驚いていたんだぞ?」

「なにが、ですか?」

「君があまりにも普通通り過ぎることだよ。いや、普通ではなかったな。授業を休むし私と顔を合わせても、普段のようなノリにならないし、そういう面ではおかしかったな。授業中に泣いてしまったという話も聞いた」

 でも、と黒鳥は言う。

「昨日、私が大浦の家へ来ないかと聞いた時、君はその場ですぐ『お願いします』と答えた。しかも、全裸がどうとか、冗談みたいなことも交えてね。

 立派だとは思うさ。今だって、これから他人の家で過ごすことになる不安よりいろはちゃんのことを優先したし、ぱっと見立ち直っているようにすら思える。頼りになる父親も、姉も、これからは助けてくれないっていうのにね」

「……」

 胸の、深いところが軋む。

 そして、悟る。駿平の中にあった違和感。悲しいはずなのに、それが表へ出てこない理由。苦しいはずなのに、前を向けてしまう理由。

「意地悪な言い方になるかもしれないけれど、君が泣こうが叫ぼうが、現実は変わらない。姉上が認知症だという現実がなくなるわけがないし、母上が生き返るわけでもない。父上が東京に行かなくても済むようにもならないだろうし、突然君が働ける年齢になって、一家を支えられるようなことにもならない。

 でもね。だからこそ、君が我慢する必要なんてないんだよ。前を見据えて頑張ろうとする君の意思は尊重するけれども、君の心の中にあるのはそれだけじゃないだろう?」

 優しくしてくれる人が、周りにいなかったのだ。

 支援してくれる人はいた。味方になってくれる人はいた。でも、優しくしてくれる人はいなかった。母親も、姉も、幼馴染も、誰も彼もがいなくなっていたのだ。

 駿平の周りには、誰一人として。

「どうにもならない現実を、どうにもできない現実を、泣いたって喚いたっていいんだよ。我慢すべき時は今じゃない。自分の心に、素直になっていいんだよ」

 黒鳥の腕に、力がこもる。

 女性の温かさが、直に伝わってくる。

 『お姉ちゃん』の優しさが、伝わってくる。

「黒鳥さん」

 耐えられなかった。

「ん?」

「ちょっとだけ、胸を貸してください」

「はは。律儀だね。……いいよ。気が済むまで使うといい」

 駿平は、暫くの間、黒鳥の腕の中で泣き続けた。


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