婚約者に選ばれた妹と、婚約者でなくなった私
「セシリア。僕は、リリアと結婚したい」
アルベルト様にそう告げられたのは、クロイツ公爵家の応接室だった。
隣には、妹のリリアが座っている。
いつも明るい妹が、今日ばかりは居心地悪そうに両手を膝の上で組んでいた。
「……そうですか」
それ以外の言葉が、すぐには出なかった。
胸の奥が、少しだけ痛い。
私は八歳のころから、アルベルト様の婚約者だった。
将来はクロイツ公爵夫人になるのだと教えられ、そのための教育を十年間受けてきた。
アルベルト様と結婚する。
それは夢というより、私の人生の前提だった。
「怒らないのか?」
「怒ってほしいのですか?」
「いや、そういうわけじゃ……」
アルベルト様が困った顔をする。
昔からそうだ。
彼は自分が困ると、私を見る。
教師との話し合いも、夜会の日程も、親族同士の揉め事も。
私が何とかしてきたからだろう。
「理由を伺っても?」
「ああ」
アルベルト様は一度リリアを見た。
その視線は、私に向けられるものよりずっと柔らかかった。
「リリアといると楽しいんだ。よく笑ってくれるし、話していて気が楽だ。結婚するなら、そういう相手の方が幸せになれると思った」
「なるほど」
理由としては理解できる。
私といるより、リリアといる方が楽しい。
それなら、彼がリリアを選ぶこと自体を責める気はなかった。
「リリアも、それを望んでいるのですね?」
私が尋ねると、妹はびくりと肩を震わせた。
「……うん」
「そう」
「お姉様、私……」
「いいのよ」
奪われた、とは思わなかった。
婚約は家同士の約束でもある。
だから、この場で私たちだけで決められることではない。
けれど、結婚する本人が別の女性を望んでいるのなら、無理に続けても意味はない。
「では、ご両親へお話しください」
「ああ。もちろんだ」
「その後、正式に我が家へ婚約解消をお申し入れください」
アルベルト様は少し驚いたようだった。
「君も同意してくれるんだろう?」
「はい」
私は頷いた。
「私を妻に望んでいない方と結婚するつもりはありませんから」
◇
当然ながら、それで婚約が消えたわけではなかった。
三日後。
クロイツ公爵家から、正式な使者が我がアルヴェイン侯爵家を訪れた。
その翌日には、両家の当主夫妻と私、アルベルト様、そしてリリアが同じ席についた。
「私は反対です」
最初にはっきりそう告げたのは、クロイツ公爵夫人だった。
アルベルト様の母であり、十年間私を将来の公爵夫人として教育してくださった方だ。
「母上」
「黙っていなさい。あなたには昨日、十分に話しました」
アルベルト様が口を閉じる。
公爵夫人は私を見ると、申し訳なさそうに目を伏せた。
「セシリアさんに不足があるとは、私はまったく考えていません。むしろ我が家にとって、これ以上ない婚約者でした」
「ありがとうございます」
「それでもアルベルトは、リリアさんとの結婚を望むというのね?」
「はい」
アルベルト様が答えた。
今度はクロイツ公爵が口を開いた。
「昨日も聞いたが、もう一度確認する」
低く落ち着いた声だった。
「お前は、セシリア嬢との婚約を解消する意味を理解しているのか」
「もちろんです」
「セシリア嬢は十年間、将来の公爵夫人となるための教育を受けてきた。お前が不得手な社交や対外調整についても、すでに相当な部分を担っている」
「分かっています」
「それでもか」
「リリアもこれから学べばいいと思っています」
公爵はしばらく息子を見ていた。
「……そうか」
短く答えた。
「お前は成人している。公爵家当主として意見はする。だが、生涯を共にする相手まで私が決めるつもりはない」
そして、父へ向き直った。
「アルヴェイン侯爵。このたびは、我が家の都合で申し訳ない」
「まったくですな」
父の声は冷たかった。
私は少しだけ驚いた。
普段の父は温厚だ。
その父が、ここまで露骨に不快感を示すのは珍しい。
「十年ですぞ、クロイツ公爵」
「承知している」
「娘は十年間、あなた方の家へ嫁ぐことを前提に生きてきた。それを今になって、妹の方が気に入ったから替えたいと」
「お父様」
リリアが小さくなる。
「リリアを責めているのではない」
父は即座に言った。
「私は、アルヴェイン侯爵家当主として話をしている」
そして私を見る。
「セシリア。お前はどうしたい」
「婚約解消をお受けしたいと思います」
「本当にいいのか」
「はい」
迷いはなかった。
「アルベルト様が私との結婚を望んでいない以上、婚約を続ける意味はありません」
「そうか」
父はそれ以上何も言わなかった。
クロイツ公爵が頷く。
「では、我が家から正式に婚約解消を申し入れる。原因がセシリア嬢にないことも、両家連名で明らかにしよう」
さらに、私へ頭を下げた。
「セシリア嬢。十年間、息子と我が家のために尽くしてくれたことに感謝する。こちらの都合による婚約解消で、あなたの名誉に傷をつけることは決してしない」
「ありがとうございます」
婚約解消に伴う補償についても、その場で両家の当主同士が話をまとめた。
そして。
私との婚約解消とは別に、クロイツ公爵家からリリアとの新たな婚約が正式に申し込まれた。
父は最後まで渋い顔をしていた。
「リリア。お前も望んでいるのだな?」
「……はい」
「公爵家嫡男の妻になる意味を理解しているか?」
「勉強します」
父は深く息を吐いた。
「ならば、自分で選んだことだ。途中で投げ出すな」
「はい」
こうして。
私とアルベルト様の十年間の婚約は、正式に終わった。
◇
「セシリアさん」
話し合いが終わったあと、公爵夫人に呼び止められた。
「はい」
「少しよろしい?」
案内された別室には、見覚えのある書類が積まれていた。
来季の社交予定。
夜会の招待客一覧。
親族の祝い事と弔事。
取引先の家族構成。
貴族家同士の関係についてまとめた帳簿。
全部、私がこれまで使っていたものだった。
「これらはリリアさんに引き継ぎます」
「はい」
「そして、あなたはもう我が家のために働く必要はありません」
胸の奥が、妙に軽くなった。
嬉しい、というのとは少し違う。
肩に乗っていた重いものを、突然下ろされたようだった。
「本当に、よろしいのでしょうか」
思わず尋ねてしまった。
「何が?」
「来月の王宮夜会もありますし、アルベルト様の予定も――」
「セシリアさん」
公爵夫人が静かに遮った。
「あなたはもう、アルベルトの婚約者ではないのよ」
その言葉を聞いたとき。
私は初めて、本当に婚約が終わったのだと実感した。
「はい」
「十年間、本当にありがとう」
夫人は微笑んだ。
「これからは、自分のために時間を使いなさい」
「……自分のために」
妙な言葉だった。
私はこれまで、自分の時間というものを考えたことがあっただろうか。
◇
婚約解消から一週間後。
リリアが私の部屋へ飛び込んできた。
「お姉様!」
「どうしたの?」
「これ、何!?」
両腕いっぱいの書類を机に置く。
招待状。
返信状。
贈答品の一覧。
食事会の席順。
「公爵家から渡されたの」
「そうでしょうね」
「そうでしょうね、じゃないよ!」
リリアが泣きそうな顔をする。
「今日だけで招待状が二十七通来たの! 誰を断って誰を受ければいいの!?」
「予定と家格と関係性を確認して決めるのよ」
「関係性って何!?」
「前回こちらが招待されたか、相手の家に祝い事があったか、最近どの家と親しくしているか、その家同士に不和がないか――」
「待って待って待って!」
妹が頭を抱える。
「そんなの全部覚えてるの!?」
「覚えているものもあるし、帳簿もあるわ」
「帳簿!?」
「公爵夫人から受け取っていない?」
「受け取ったけど、三冊もあるじゃない!」
「三冊しかないわよ」
「しか!?」
リリアは椅子に崩れ落ちた。
少し可哀想になった。
でも、それは彼女が自分で選んだ席だ。
「お姉様」
「なあに?」
「助けて」
私は少し考えた。
「基本的な帳簿の見方なら教えるわ」
「本当!?」
「でも判断はあなたがするのよ」
「え」
「あなたがアルベルト様の婚約者なのだから」
リリアが黙った。
「私が全部決めてしまったら、何も変わらないでしょう?」
「……うん」
その日は、帳簿の見方だけ教えた。
妹は途中で三度ため息をつき、二度頭を抱えた。
でも逃げなかった。
◇
問題は、その程度では終わらなかった。
王宮夜会の日。
私はアルヴェイン侯爵家の娘として出席していた。
もうクロイツ公爵家側の人間ではない。
それなのに、会場へ入って間もなく、アルベルト様がこちらへ歩いてきた。
「セシリア!」
「ごきげんよう」
「よかった。探していたんだ」
嫌な予感がした。
「何でしょう?」
「席順がまずい」
「そうですか」
「バルツ伯爵とオルセン子爵が隣になっている」
「そうでしょうね」
私は以前、それだけは避けるよう資料に書いていた。
「リリアが間違えたんだ」
「なら、アルベルト様とリリアで修正なさればよろしいでしょう」
「もう客が来ているんだぞ」
「それは大変ですね」
「セシリア!」
彼が声を荒らげる。
周囲の視線が集まった。
「君ならどうにかできるだろう?」
「できますよ」
「なら――」
「でも、しません」
アルベルト様が固まる。
「なぜだ」
「私はもう、あなたの婚約者ではありませんから」
「そればかりだな!」
「事実ですもの」
「少しくらい助けてくれても――」
「アルベルト」
凍るような声が響いた。
クロイツ公爵夫人だった。
アルベルト様の顔から血の気が引く。
「母上」
「あなたは今、何をしているの?」
「席順のことで――」
「それは分かっています」
夫人の視線が息子を射抜く。
「あなたの婚約者は誰です?」
「……リリアです」
「ならば、なぜセシリアさんに助けを求めているのです?」
「ですが、彼女ならできるので」
「できるから何です?」
アルベルト様が黙った。
「あなたは、セシリアさんとの婚約を解消しました。それは、彼女が担っていたものも失うということです」
「母上、しかし――」
「自分で選んだのでしょう」
夫人の声は冷たかった。
「なら、自分で責任を取りなさい」
私は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
夫人は私へ向き直る。
「セシリアさん。こちらは気にせず、夜会を楽しんでください」
「ありがとうございます」
私は一礼して、その場を離れた。
十年間、夜会に出ればアルベルト様の予定ばかり気にしていた。
誰に挨拶するか。
誰と話すか。
問題が起きていないか。
でも今日は、何もしなくていい。
「随分と楽しそうですね」
声をかけられ、振り返った。
「ルーカス様」
隣国エルディアの侯爵家の嫡男、ルーカス様だった。
母君がこの国の出身で、現在は親族の代理として半年ほど滞在している。
以前から何度か夜会で話したことがあった。
「そう見えますか?」
「ええ。以前より」
「以前より?」
「以前のあなたは、いつも会場全体を見ていましたから」
思わず瞬いた。
「お気づきだったのですか?」
「気づきますよ。誰かが困る前に動いていましたから」
「普通のことです」
そう答えると、ルーカス様は笑った。
「それを普通だと思っている方は、あまりいません」
私は返事に困った。
「婚約を解消されたと伺いました」
「はい」
「失礼ながら、驚きました」
「私より妹の方が、一緒にいて楽しいそうです」
「なるほど」
ルーカス様は少し考えてから頷いた。
「それは結婚相手を選ぶ理由として理解できますね」
私は意外に思った。
「アルベルト様を非難なさらないのですか?」
「本人が誰と生きたいかは、本人が決めることでしょう」
「……そうですね」
「ただ」
ルーカス様が私を見る。
「それなら、あなたも同じでは?」
「同じ?」
「あなたも、自分が一緒にいて幸せな相手を選んでいい」
私は言葉を失った。
選ぶ。
私が。
これまで考えたこともなかった。
私は八歳のときにアルベルト様の婚約者になった。
だから、彼と結婚するものだと思っていた。
誰と生きたいのか。
そんな問いを、自分に向けたことすらなかった。
「急いで答えを出す必要はありませんよ」
ルーカス様が穏やかに笑う。
「せっかく自由になったのですから」
自由。
その言葉が、胸の奥に残った。
◇
それから二か月。
クロイツ公爵家の状況は、急速に悪化した。
リリアが頑張っていないわけではない。
むしろ、かなり頑張っていた。
毎日、公爵夫人から教育を受け、帰宅してからも帳簿を読んでいるらしい。
先日会ったときなど、目の下に薄く隈ができていた。
「お姉様」
「大丈夫?」
「公爵夫人って、すごいのね」
開口一番それだった。
「今さら?」
「今なら分かる。お姉様もすごかった」
「そう?」
「そうだよ!」
リリアが真顔で言う。
「私、アルベルト様の隣で笑ってればいいと思ってた」
「……正直ね」
「本当にそう思ってたんだもん」
妹は机に突っ伏した。
「お姉様、これ十年やってたの?」
「最初からではないわ。少しずつ覚えただけよ」
「それがすごいんだって、今なら分かる」
私は少しだけ笑った。
妹は苦労している。
でも、変わろうとしている。
問題はアルベルト様だった。
彼は変わらなかった。
学問ができないわけではない。
領地経営や法、財務についても、次期公爵として必要な教育は受けている。
だからこそ、これまで誰も彼を無能だとは思っていなかった。
私もそうだった。
ただ。
失敗すればリリアのせい。
予定を忘れれば使用人のせい。
取引先との会食をすっぽかせば、誰も教えてくれなかったせい。
彼は、自分の周囲で誰かが何をしてくれているのかを、驚くほど見ていなかった。
そしてついに、クロイツ公爵家が主催する大規模な夜会で、決定的な失態が起きた。
その夜会には、王家から王弟殿下夫妻まで招かれていた。
本来なら絶対に近い席へ案内してはいけない二つの家を、アルベルト様とリリアは隣り合わせにしてしまった。
事前に渡した帳簿には、きちんと注意書きがある。
けれど、二人とも見落としていたらしい。
案の定、酒が入ったところで当主同士が口論になった。
しかもアルベルト様は、その場を収めようとはしなかった。
使用人へ、
「適当に席を替えておいてくれ」
と命じ、自分は王弟殿下への挨拶へ向かってしまったという。
当然、そんなもので収まるはずがない。
口論は夫人たちまで巻き込み、ついには王弟殿下夫妻の耳にまで入った。
夜会そのものはクロイツ公爵夫妻が収拾したものの、公爵家の評判には大きな傷がついた。
その翌日。
私は父とともにクロイツ公爵家を訪れていた。
昨夜の騒動について、アルヴェイン侯爵家にも確認したいことがあると、公爵から呼ばれたためだ。
私が以前作成した引き継ぎ資料についてだった。
「セシリア嬢」
公爵が尋ねる。
「バルツ伯爵家とオルセン子爵家について、引き継ぎ資料には何と?」
「同じ卓、あるいは近接する席へ配置しないよう記載しております」
「理由も?」
「はい。領地境界を巡って係争中であることも記載しました」
「そうか」
公爵は目を閉じた。
向かいにはアルベルト様とリリアがいる。
リリアは青ざめていた。
「ご、ごめんなさい……。私、そこまで読めてなくて……」
「リリアさん」
公爵夫人が静かに言った。
「あなたにはまだ経験がありません。見落としたこと自体については、今後学びなさい」
「はい……」
「問題は、その後です」
夫人の視線がアルベルト様へ移った。
「アルベルト。なぜあなたは、その場を使用人に任せたのです?」
「僕は王弟殿下へ挨拶しなければならなかったので」
「口論が起きている最中に?」
「ですが、席順を間違えたのはリリアです」
部屋が静まり返った。
私は思わずアルベルト様を見た。
リリアまで、隣で目を見開いている。
「……アルベルト」
公爵の声が低くなった。
「今、何と言った?」
「ですから、席順を決めたのはリリアで――」
「それを確認するのは誰だ」
「え?」
「お前はクロイツ公爵家の嫡男だ。しかもリリア嬢は、つい二か月前まで公爵家の仕事など何一つ知らなかった。それを承知で婚約者に選んだのは誰だ」
「それは……僕です」
「夜会の主催者側として、最終的な責任を負うのは誰だ」
アルベルト様は答えなかった。
「お前だ」
公爵が言い切った。
「失敗したことを責めているのではない」
アルベルト様が顔を上げる。
「人は失敗する。経験不足なら教えればいい。能力が足りないなら教育すればいい」
公爵はそこで一度言葉を切った。
「だが、自分で選んだ婚約者の失敗を自分とは無関係のように語り、問題が起きれば使用人へ押しつけ、自分の責任だと理解できない人間に、領民と家臣を預けることはできん」
「父上……」
「私は、お前を買いかぶっていた」
アルベルト様の顔が強張った。
「これまでお前は、夜会でも大きな失敗をしなかった。対外関係にも問題はなかった。予定も滞りなく進んでいた。だから私は、お前自身が最低限それらを管理できているものと思っていた」
公爵夫人が目を伏せる。
「私もよ」
そして、私を見た。
「違ったのね」
「母上?」
「あなたができていたのではない。セシリアさんが、あなたが失敗する前に整えていたのよ」
「そんな……」
「セシリアさんがいなくなって、たった二か月です」
夫人の声には、怒りより失望があった。
「たった二か月で、これだけの問題が出た。それでもあなたは、自分ではなくリリアさんや使用人が悪いと言うのね」
「違います! 僕だって――」
「ならば聞こう」
公爵が遮った。
「セシリア嬢との婚約を解消するとき、私はお前に尋ねたな」
――お前は、セシリア嬢との婚約を解消する意味を理解しているのか。
私も覚えている。
「お前は『理解している』と答えた」
「……はい」
「理解していなかったではないか」
アルベルト様は何も言えなかった。
「セシリア嬢を失えば、彼女が補っていた部分も失う。それでもリリア嬢を選ぶというから、私は成人したお前の意思を尊重した」
公爵の声が冷たくなる。
「だが、お前はセシリア嬢だけを取り替えられると思っていたらしいな」
「父上、待ってください」
「待たん」
公爵は言った。
「本日をもって、お前をクロイツ公爵家の後継者候補から外す」
アルベルト様の顔から、血の気が消えた。
「……え?」
「従弟のクラウスを養子として迎える手続きを始める。正式に整い次第、あれを次期公爵とする」
「そんな!」
アルベルト様が立ち上がった。
「たった一度の失敗で!?」
「まだ分からんのか!」
公爵の怒声が響いた。
初めて聞く声だった。
「一度の失敗で、お前を外すのではない!」
アルベルト様が動きを止める。
「失敗したとき、自分の責任から逃げる人間だから外すのだ!」
誰も声を出さなかった。
「公爵とは、うまくいったときだけ人の上に立つ仕事ではない。家臣が失敗したときも、領地で問題が起きたときも、最後に責任を引き受ける者だ」
公爵は息子を真っ直ぐ見た。
「それができないお前に、この家は渡せん」
「……母上」
アルベルト様が助けを求めるように公爵夫人を見る。
夫人は首を横に振った。
「主人の判断に賛成します」
「母上まで……」
「あなたには何度も機会がありました」
夫人は静かだった。
「そして何より、自分でセシリアさんを手放したのです」
アルベルト様の視線が、今度は私へ向いた。
「セシリア……」
私は何も言わなかった。
助けを求められていることは分かった。
でも。
私はもう、彼の婚約者ではない。
◇
一週間後。
アルベルト様が我が家を訪ねてきた。
以前とはまるで違う姿だった。
髪は乱れ、目の下には濃い隈がある。
いつも仕立てのよい服を完璧に着こなしていた人が、今日は襟元すら少し曲がっていた。
「セシリア。頼む」
応接室へ入るなり、アルベルト様は頭を下げた。
「戻ってきてくれ」
「リリアとの婚約は?」
「解消する」
「リリアは承知しているのですか?」
「まだ話していない」
私は息を吐いた。
何も変わっていない。
「クラウスを迎える手続きが始まった」
アルベルト様の声が震える。
「このままじゃ、本当に僕は何もなくなる」
「何も、とは?」
「公爵家を継げない。王宮での立場もなくなる。今まで付き合っていた連中まで、急によそよそしくなった」
そこで初めて、私は理解した。
彼はようやく失ったのだ。
私だけではない。
次期公爵という肩書によって当然のように与えられていたものまで。
「父上に謝った。母上にも謝った。でも、考えは変わらないと言われた」
「そうですか」
「セシリアが戻れば違うんだ!」
アルベルト様が顔を上げる。
「君が戻れば、父上だって考え直す。以前は問題なくできていたんだから!」
――以前は問題なくできていた。
その言葉に、私はようやく分かった。
「アルベルト様」
「何だ?」
「あなたは、私に戻ってほしいのですか?」
「そうだ!」
「それとも、以前の生活に戻りたいのですか?」
アルベルト様が止まった。
「……同じことだろう?」
胸の中にあった最後の何かが、静かに消えた。
「いいえ」
私は首を横に振る。
「まったく違います」
「セシリア」
「あなたはリリアを選んだ。その選択自体を、私は否定していません」
「だったら――」
「でも今、あなたが私を必要としている理由は、私と一緒にいたいからではありません」
彼は黙った。
「公爵家を立て直してほしい。後継者の地位を取り戻してほしい。以前と同じように、自分を支えてほしい」
「違う!」
「では」
私は彼を見る。
「私が社交もできず、あなたを支えることもできない令嬢だったとしても、私と結婚したいですか?」
アルベルト様の口が開く。
けれど、言葉は出なかった。
「ほら」
「……違う。そうじゃない。僕は……」
「私はもう、あなたの婚約者ではありません」
「セシリア!」
「これからは、ご自分で選んだ人生を歩んでください」
アルベルト様は、しばらく私を見ていた。
「待ってくれ」
「もうお話は終わりです」
「セシリア、頼む!」
立ち上がった私を、アルベルト様も慌てて追う。
「一度だけでいい。父上に話してくれ。君が戻ると言えば、きっと――」
「戻りません」
「じゃあ、婚約じゃなくてもいい!」
私は足を止めた。
「……何ですって?」
「しばらくでいいんだ。前みたいに手伝ってくれれば、それで――」
そこまで言って、アルベルト様自身が気づいたらしい。
顔が強張った。
私は静かに彼を見る。
「アルベルト様」
「違う。今のは違うんだ」
「何が違うのですか?」
「僕は、ただ……」
言葉が続かない。
「セシリア。僕には君が必要なんだ」
「私が必要なのではありません」
私は言った。
「あなたに都合のいい婚約者が必要なのでしょう」
「違う!」
「では、なぜ婚約者でなくてもいいのです?」
アルベルト様は黙った。
今度こそ、何も言えなかった。
「失礼いたします」
「待て!」
背後で椅子が倒れる音がした。
「セシリア!」
振り返らなかった。
「頼む! 僕は公爵になるはずだったんだ!」
廊下まで声が追ってくる。
「全部、元に戻せるんだ! 君さえ戻れば!」
私はそのまま歩いた。
「セシリア!」
もう一度、名前を呼ばれた。
けれど。
それに応える理由は、もうどこにもなかった。
◇
その後、従弟のクラウス様が養子として迎えられ、正式な次期公爵となった。
アルベルト様は領内の小さな屋敷へ移された。
公爵家の一員ではあるものの、政治や社交の中心からは外された。
リリアとの婚約も、両家の協議によって解消された。
リリアはその後、しばらく我が家で静かに過ごした。
「もう高位貴族の婚約者はこりごり」
そう言っていたけれど。
「でも、お姉様」
「なあに?」
「私、もっと勉強することにした」
「どうして?」
「何も知らないまま誰かに選ばれて喜ぶの、もう嫌だから」
私は少し驚いた。
「そう」
「次は、自分でちゃんと考える」
「それがいいと思うわ」
妹は笑った。
以前と同じ明るい笑顔だった。
でも少しだけ、大人になったように見えた。
◇
春。
私は隣国エルディアへ向かう馬車の前に立っていた。
「本当に行くのね」
母が言う。
「はい」
隣にはルーカス様がいる。
この半年、何度も手紙を交わした。
何度も会った。
彼は一度も、私に答えを急がせなかった。
私が何をしたいのか。
どこで暮らしたいのか。
何を好きなのか。
そんなことを、一つずつ聞いてくれた。
そして私は初めて、自分自身について考えた。
公爵夫人になるためではなく。
誰かを支えるためでもなく。
私がどうしたいのかを。
「セシリア」
ルーカス様が手を差し出した。
「行きましょうか」
「はい」
その手を取る。
以前の私は、誰かに選ばれることが幸せなのだと思っていた。
でも違った。
誰かに決められた場所に立ち続ける必要なんてない。
私は、自分で選んでいい。
誰と生きるかも。
どこへ行くかも。
どんな人生を歩むかも。
「ルーカス様」
「はい?」
「私、エルディアへ行ってみたいです」
彼は笑った。
「ええ。あなたがそう望むなら」
馬車へ乗り込む。
窓の外には、春の青空が広がっていた。
八歳のころから、私の未来は決まっていた。
誰と結婚するのかも。
どこで暮らすのかも。
どんな役目を果たすのかも。
でも、これからは違う。
誰かに選ばれるのを待つのではなく。
誰かに決められた道を歩くのでもなく。
私は、自分で選んでいく。
誰と生きるのかも。
どこで暮らすのかも。
どんな人生を歩むのかも。
今度は全部、私自身が。




