新生活①
リビングは静かだった。
テレビの音だけが、
ぼんやり流れている。
ソファに座った詩は、
ブランケットを膝にかけたまま、
小さく息を吐いた。
「……さむい?」
キッチンから戻ってきた昂汰が聞く。
「ううん、大丈夫」
そう言って笑う。
でも、
少しだけ顔色が悪い。
昂汰は眉を寄せる。
「しんどいんちゃう」
「平気だよ」
「ほんとに」
いつもの返事。
最近は、
その“ほんとに”が当てにならないことを、
少しずつ覚え始めていた。
だから、
隣に座る。
「熱は?」
「ない」
「息は?」
「……普通」
わずかに間が空いた。
昂汰の視線が止まる。
「詩?」
「……ん、大丈夫」
そう言いながら、
胸元を押さえる指先に力が入る。
呼吸が浅い。
いや、
浅いというより、
吸えていない。
昂汰の中で、
嫌な感覚が走る。
「おい」
返事がない。
詩が俯く。
肩が、
小刻みに揺れている。
「詩」
近づいて顔を覗き込んだ瞬間、
息を呑んだ。
白い。
さっきまで赤みがあった頬から、
一気に色が消えている。
唇も薄く青い。
呼吸のたび、
喉が苦しそうに震えていた。
「……っ、は……」
細い呼吸。
空気をうまく吸えないみたいに、
小さく喘ぐ。
頭が、真っ白になる。
どうしたらいい。
何をすればいい。
救急車?
薬?
病院?
触っていい?
動かす?
座らせる?
分からない。
目の前で、
詩が苦しそうに呼吸している。
それだけで、
身体が動かなくなる。
「……こ、う……たさん」
掠れた声。
その声で、
やっと我に返る。
「っ、待って」
スマホを掴む。
でも指が震えて、
うまく押せない。
焦る。
詩が小さく身体を丸める。
苦しそうな呼吸音。
その音だけで、
心臓が潰れそうになる。
「ごめ……」
「喋んな!!」
思わず怒鳴る。
詩がびくっと肩を震わせる。
昂汰自身も、
その声に驚く。
違う。
怒りたいんじゃない。
怖い。
怖くて、
たまらない。
「……っ、は、……」
呼吸のたび、
細い身体が揺れる。
その背中に触れることすら怖かった。
壊れそうで。
消えそうで。
やっと電話が繋がる。
説明している間も、
視線を逸らせない。
“息ができない”
その現実だけが、
頭の中を埋め尽くしていた。
ようやく救急隊が来て、
処置が始まる。
酸素。
測定。
慌ただしい声。
その中で、
詩だけが小さく言う。
「……すみませ……」
「謝んな」
掠れた声で返す。
でも、
自分の声も震えていた。
病院へ向かう車内。
昂汰は、
詩の手を握ったまま、
ほとんど動けなかった。
さっきまで、
普通に笑ってた。
ただ隣にいた。
それだけだったのに。
――もし。
もし、
間に合わなかったら。
その想像が、
頭をよぎる。
瞬間、
息が止まりそうになる。
俯いたまま、
握る手に力を込めた。
初めて知った。
“失うかもしれない”って、
こういう怖さなんだと。
病院のベッドの上。
発作は落ち着いていた。
酸素の流れる音。
規則的なモニター音。
その静けさが、
さっきまでの時間を余計に現実にする。
詩は眠っている。
薬が効いたのか、
呼吸もだいぶ穏やかだった。
昂汰は、
ベッドの横に座ったまま動けない。
握った手だけが、
まだ熱を持っていた。
ふと、
視線が落ちる。
テーブルの端。
小さなメモ。
“苦しくなった時”
以前、
詩が昂汰のために書いたものだった。
丁寧な字。
“昂汰さんが慌てないように”
そう笑って渡された。
ちゃんと聞いていた。
何回も。
「大丈夫、覚えた」
そう答えた。
なのに。
ゆっくり目を閉じる。
何も、
できなかった。
頭では分かっていた。
詩が苦しくなったら、
どうすればいいか。
どの薬か。
どこに連絡するか。
全部。
でも、
目の前で
呼吸できなくなった詩を見た瞬間、
身体が止まった。
怖かった。
怖すぎた。
助けなきゃいけないのに、
手が震えて、
何もできなかった。
情けなさと恐怖が、
今さら一気に押し寄せる。
「……っ」
握った手に、
額を押し当てる。
「ごめん……」
掠れた声。
守るって言った。
隣にいるって決めた。
覚悟したつもりだった。
でも実際は、
詩が苦しむ姿を見ただけで、
動けなくなるくらい甘かった。
どれだけ、
一人で背負ってきたんだろう。
こんなのを、
ずっと。
誰にも頼らず。
“いつものこと”って顔して。
昂汰は奥歯を噛む。
苦しい。
怖い。
でもそれ以上に、
詩が今まで一人だったことが苦しかった。
その時。
指先が、
かすかに動く。
「……こう、たさん」
眠そうな声。
昂汰が顔を上げると
詩は薄く目を開けて、
ぼんやりこちらを見た。
それから、
少し困ったように笑う。
「……ごめんね」
その瞬間。
視界が歪む。
「なんで」
掠れた声。
「なんで、お前が謝んねん……」
詩は少しだけ目を丸くする。
その顔が見られなくて
「俺、何もできへんかった」
声が震える。
「聞いてたのに」
「全部、聞いてたのに」
詩は静かに瞬きをした。
握った手に力を込める。
「……怖かってん」
その一言だけが、
やけに幼く落ちた。
「消えるかと思った」
詩の瞳が、
ゆっくり揺れる。
しばらく沈黙が落ちる。
それから、
点滴の刺さった細い手が、
ぎこちなく昂汰の指を握り返した。
「……うん」
小さな返事。
それだけだった。
でも昂汰には、
それがたまらなく苦しかった。
特別室のドアを開ける音に、
詩がゆっくり顔を上げる。
「……あ」
点滴を繋いだまま、
少しだけ目を丸くする。
「今日、来れないと思ってた」
「俺もそう思ってた」
ネクタイを緩めながら、
ため息を吐く。
「延長延長で終わらへんねんもん」
「おつかれさま」
その声に、
自然と肩の力が抜ける。
気づけば、
もうこの部屋に来る動きは身体が覚えていた。
ソファに荷物を置く。
冷蔵庫を開ける。
足りない飲み物を確認する。
「ゼリー食べた?」
「……半分」
「半分?」
「半分」
「ほぼ食ってへんやろ」
いつものやり取り。
なのに、
ふとした瞬間、
昂汰の手が止まる。
ベッド脇。
整然と並ぶ薬。
酸素のチューブ。
モニターの規則的な音。
最初にここへ来た時は、
見るたびに胸がざわついていた。
今も平気なわけじゃない。
たぶん、
これからも慣れない。
でも。
その景色の中に、
詩がいる。
「……なに」
視線に気づいた詩が、
少し困ったように笑う。
小さく首を振った。
「いや」
そう言いながら、
当たり前みたいにベッドの横に腰掛ける。
「今日はちょっと顔色ええな」
「そう?」
「昨日よりマシ」
詩は少しだけ考えて、
「……たぶん点滴増えたから」と呟く。
昂汰の眉が寄る。
詩は慌てて笑った。
「大丈夫だよ、いつものこと」
その“いつものこと”が、
どれだけ重いか。
ようやく少しずつ分かってきた。
昔の自分なら、
たぶん理解できなかった。
なんで無理するのか。
なんで平気な顔をするのか。
なんで頼らないのか。
でも今は、
それが詩の“生き方”だったんだと分かる。
心配かけないように。
空気を悪くしないように。
置いていかれないように。
ずっと、
そうやって生きてきた。
だから最近は、
無理に聞き出すことをやめた。
代わりに。
「しんどかったら休んでて」
それだけは、
毎回言う。
詩は少し黙ってから、
小さく頷いた。
「……うん」
その返事だけで、
昔よりちゃんと預けてくれてるのが分かる。
昂汰はそっと息を吐いた。
窓の外はもう暗い。
病室の明かりは柔らかくて、
テレビもついていない。
静かな部屋。
なのに、
不思議と寂しくない。
詩がぽつりと呟く。
「昂汰さん」
「ん?」
「……ここ、落ち着くね」
一瞬だけ、
昂汰が止まる。
病室なのに。
点滴も薬もある場所なのに。
ここを“落ち着く”と言った。
たぶんそれは、
部屋のことじゃない。
小さく笑って、
詩の髪を撫でる。
「そうやな」
短く返す。
その声は、
思っていたよりずっと優しかった。
何回も来た。
何回も怖かった。
それでも。
帰る場所みたいになってしまった。
この、
“いつもの部屋”が。




