診察室の扉を開けて
白を基調とした清潔感のある診察室。
窓の外からは、かすかに街の喧騒が聞こえる。
精神科の初診。
どこか疲弊した感じの患者は、誰もが緊張するその扉を開ける。
その扉の向こうには、穏やかな眼差しを向ける精神科医がいた。
「こんにちは。どうぞ、そちらの椅子にお掛けください。……今日はここまで来るの、少し緊張されましたか?」
「はい、かなり……。精神科にくるのなんて初めてで、何をどう話せばいいのか分からなくて」
「そうですよね。皆さんそうおっしゃいます。上手に話そうとしなくて大丈夫ですよ。問診票に『最近、夜眠れなくて仕事がつらい』と書いてくだいましたね。まずは、そのあたりからゆっくり聞かせてもらえますか?」
「……はい。1ヶ月くらい前から、夜ベッドに入っても2時間も3時間も目が冴えてしまって。やっと眠れたと思っても、朝の4時くらいに目が覚めてしまうんです。そこからもう眠れなくて……」
「それは体力的にもかなりきついですね。朝、目が覚めた時の気分はどうですか?」
「最悪です。体が鉛のように重くて、頭にモヤがかかったみたいで。会社に行かなきゃいけないのに、起き上がるのすらものすごくエネルギーが必要で……。以前はこんなことなかったのに、自分が怠けているんじゃないかって、毎朝責めてしまうんです」
「ご自分を責めてしまうんですね。でも、それは怠けではなく、脳と体が『これ以上は無理だよ』とサインを出している状態なんですよ。仕事中はどうですか? 集中力などに変化はありますか?」
「全然ダメです。簡単な書類のミスが増えたり、メールの文章が頭に入ってこなかったり。先週なんて、上司に少し注意されただけなのに、涙が止まらなくなってしまって……。あ、すみません、思い出すとまた……」
(デスクの上のティッシュボックスをそっと近くに引き寄せる)
「謝らなくていいんですよ。涙が出るのは、それだけ心が張り詰めていた証拠です。よく今日まで耐えて、ここに相談しに来てくれましたね。……何か、こうなるきっかけのような出来事はあったのでしょうか?」
「(涙を拭いながら)2ヶ月前にプロジェクトのリーダーになってから、責任が重くなって。残業も増えました。私がしっかりしなきゃいけないのに、こなせないのは自分の能力が足りないからだって、そればかり考えてしまいます」
「なるほど、大きな環境の変化とプレッシャーがあったのですね。趣味や、これまで好きだったことを楽しいと感じる気持ちはどうですか?」
「休日は、前なら好きだった映画を観たりしていたんですけど、今は全く観る気になれなくて。ただ一日中、泥のようにベッドで横になっています。でも、頭の中ではずっと仕事の不安がぐるぐる回っていて、休んだ気がしません」
お話を聞かせてくれてありがとうございます。今の状況を整理しますね。睡眠のトラブル、朝の強い憂鬱感、集中力の低下、そして以前楽しめていたことが楽しめなくなっている。これらは、ストレスが限界を超えた時に現れる『うつ状態』の典型的な症状です。あなたの心が弱いからでも、怠けているからでもありません」
「うつ状態……。私は、病気なんですか?」
「風邪をひくのと同じように、脳のエネルギーが一時的に枯渇してしまっている状態です。でも、安心してください。適切な治療と休養をとれば、この重い霧は必ず晴れていきます」
「本当に対策があるんでしょうか……。これから、どうすればいいですか?」
「まずは一番つらい『眠れないこと』を解決するために、睡眠をサポートするお薬を少量から試してみましょう。それと、今の一番のお薬は『休むこと』です。お仕事、少しお休みをいただくことはできそうですか? 必要であれば、私が診断書を書きます」
「仕事を休むなんて……。でも、今の状態を続けるのも、もう限界かもしれません。先生にそう言っていただけると、少しホッとしたというか、休んでもいいんだって思えました」
「ええ、今は自分を回復させるための時間を最優先にしましょう。焦らず、一歩ずつ進めていきましょうね。次回は1週間後、お薬の様子を見せに来てください」
「……はい。ありがとうございます」
診察室を出ると、心の中にあった重い澱が、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づく。劇的に何かが変わったわけではない。けれど、自分の苦しみに名前がつき、味方ができた。その事実に守られながら、待合室の椅子に深く腰掛けた。




