暗夢
暗い道がある。先に光が見えた。
真っ白な空間。そこには大きな樹があった。樹を見上げながら、私は問いかけた。
「何故、此処には貴方以外の者がいないのですか。」
樹は答える。
「狐が取って行ってしまったのだ。叢も虫もリスも、実らせたリンゴさえも。」
「狐?」
「そうだ。ずるがしこい狐だ。」
「何故、狐は盗んでいったの?」
「狡猾な為に決まっている」
………………………………
「パパ、朝!」
「ああ、紬おはよう」
「あなた、おはよう。朝ご飯できてるわよ。」
「おはよう。朝はいつも悪いね。夕飯は僕が作るから。」
「パパの作る夕食嫌い!」
「そんなこと言っちゃいけません」
「あれ、買っておいたリンゴは?」
「ああ、虫に食われちゃったのよ。放置しすぎてたみたい。今度は早く食べましょう」
「…まあ、買いなおせばいいさ」
いつも通りの毎日。電車に揺られ、仕事に行き、電車に揺られ、家に帰る。
「あっ、すみません」
「……」
知らない男とぶつかった。目が細く、つり目な男だった。
…………………………………………
暗い道がある。先に光が見えた。吸い込まれるように先に進む。
机と椅子が並べてある。カフェテラスのようだ。男女が座って話をしている。
「ここの料理はちっとも美味しくないね。」
「ええ、でも、いつものよりはいいわ。」
「良いのかい?ここ居ても」
「ええ。誰も知らないんですもの。」
………………………
「朝だよ!起きて!」
「おはよう紬。朝から元気だね」
「あなたおはよう」
「ああおはよう。今日は仕事なのかい?」
「ええ。朝ご飯は作っておいたから。そういえば、隣の高瀬さんの話、聞いた?」
「え、何も聞いてないよ」
「高瀬さん、空き巣に入られたんですって。奥さんにも先立たれて、娘さんも嫁に行ってしまって、ずっと一人暮らしだったそうよ。」
「…そっか、この家も気を付けないといけないね」
揺れる電車の中で、昨日のことを思い出していた。ぼんやりとした夢。あの巨木は、周りのもの全てを狐に取られた。ふと、違和感を覚えた。
「何で…狐って…?」
電車が目的地に着いた。
仕事から帰ってくると、隣にやけに人が集まっていた。高瀬さんの宅だろう。警察が集まっている。騒ぎを聞きつけて、娘さんと、その夫も来ているようだ。
「お前のせいだ。全部全部、お前が悪いんだ!」
「やめてお父さん。片桐さんは何も関係ないでしょう?」
高瀬さん親子が言い合いをしている。夫の方は居心地が悪いのだろう、気不味そうにしている。
「そうだ。あの日、お前が娘を連れて行ってから、すべてがおかしくなったんだ!」
「片桐さんは何も悪くない!ね?そうでしょ?」
「う、うん」
夫の方は気が弱いのだろう。何も言い返せていない。家の方から、妻が出てきた。
「あなたおかえりなさい。酷い騒ぎよね」
「そうだね。紬にも、気を付けて帰れって連絡をしないと」
「心配だわ。あと、高瀬さんと娘さん、やっぱり仲が悪いみたいね。酷い言い合いだわ」
ふと、言い合いをしている娘さんの夫の顔が目に写った。私は、酷く悍ましいものを感じた。
昨日、私はこの男を見た。私の目と記憶が狂っていない限り、私は、この男が辺り一辺を彷徨っていたのを見たのだ。
「この、腐れ外道め!」
「落ち着いてください高瀬さん」
高瀬さんは警察に宥められ、娘夫婦はすぐに帰ってしまったようである。私は、感じた違和感を、言葉に出せないでいた。
「犯人、早く捕まるといいわね」
「…ああ、そうだね。その方がいい」
「パパ元気ないの?」
「…いや、全然何ともないよ。」
「とにかく、うちも戸締まりには気を付けましょ。」
その日の夕飯は、味がしなかった。このまま黙っていて良いのだろうか。今日のあの場面、傍から見れば、高瀬さんは、気の狂った老人でしかない。然し、もし本当に、あの男が犯人なら?私は共犯でしかないのではないか。
一つ、こんな考えが浮かんだ。私があの男を警察に突き出さなかったところで、誰かに断罪されることはあるまい。そもそも、あの男が犯人なのかは、分からないではないか。そう自分に言い聞かせ、私は床についた。
………………………………
暗い道がある。また、先に光が見えている。私はぼんやりとしながら先に進んだ。
机と椅子が並んでいる。昨日見たような光景だ。男女が座って話をしている。
「今日はありがとう」
「良いんだ。気にしないで」
「いつまでこうしていられるのかしら」
「何か不安なのかい?」
「誰かが告げ口すれば、もうおしまいだもの」
………………………………
この日は休日だった。目が覚めると、家に誰か来ているのに気付いた。
「あら、あなたおはよう」
「ああ、おはよう」
「お邪魔してます」
家には高瀬さんの娘夫婦が来ていた。迷惑をかけたから、お詫びをしたいと言っている。
「先日はご迷惑をおかけしました」
「いいのよ全然。それより大変だったわね。高瀬さんの家に空き巣だなんて」
「私もそれには驚きました。まさか父の家に空き巣が入るなんて。父は一人ですし」
「お父さんとは、仲が悪いの?」
「はい…。結婚の挨拶のために、片桐さんを家に連れて行った時、父がいきなり顔色を変えて、こいつは駄目だ、狡猾な目をしてるって…。それからあまり会わないようにしてるんです」
「そう…」
私は、狡猾、という言葉が、どうにも引っかかった。本当に、この男はは空き巣犯なのだろうか。本当に、私は黙っているままで良いのだろうか。
「これからどうするの?」
「事件のことは、警察が捜査してくれてるみたいですし、父のことは色々迷惑をかけたので、父は施設に入れようと思います。まだ、片桐さんを犯人だと思ってるみたいですし…」
「そう、また、何か会ったら教えてね」
「はい、ご迷惑をおかけしました。お邪魔しました」
私は、どうするべきだったのだろう。高瀬さんは気の狂った老人として、施設で余生を過ごす。誰にも、たった一人の娘にさえ理解されることはなく、死んでゆく。私は寒気がした。
「あっ、私昼から仕事があるんだった」
「ママ休日なのに大変」
「じゃあ行ってくるね。あなた、お米を炊いておいて」
「わかったよ。気を付けて」
「私も友達とご飯食べてくるね」
珍しく、妻も娘も家にいない日だった。
「ただいま」
「ただいまー」
妻と娘が帰ってきた
「おかえり。仕事はどうだった?」
「えっ?ああ仕事ね。最近忙しいのよ」
「そっか…。大変だね」
寝る前、ふと、漠然とした疑問が残った。帰ってきた娘は、やけに暗い顔をしていた。その原因も分からないまま、私は床についた。
………………………………
暗い暗い道がある。先に光がある。私は灯りに群がる蛾のように、真っ直ぐ進んでいった。
そこには、会話をする鳥の雛がいた。
「聞いて、私のお母さん、愛を知らないのよ」
「そうなの。愛を知らないって、大変なの?」
「大変なのよ。今も愛を探しているわ」
「そう。それは、悪いこと?」
「分かんない。だから私、早く飛べるようになりたいわ。そうすれば、広い世界を知れるでしょう?」
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「おはよう、あなた」
「ああ、おはよう」
この日も、私は休日だった。娘も休日のようで、一日家にいるとのことだった。
「じゃあ、行ってくるわね」
「うん、気を付けて、行ってらっしゃい」
「……」
妻を見送る時、娘は黙っていた。
「紬、昼ご飯出来たよ」
「チャーハンかぁ」
「そんな顔するなよ」
「別にいいけど」
「…何か悩みでもあるのか?」
そう聞いた時、娘は黙ってしまった。
「何かあるなら、幾らでも相談に乗るよ」
「……」
「無理に言う必要はないよ」
「実は…」
娘の重い口が開いた。
「実は、私最近、見ちゃったの。ママが、別の男の人とイチャイチャしてるの」
「…え?」
「ママ、本当は仕事なんて行ってない。私見たもん」
予想外の告白を、私は信じることが出来なかった。
「…何処で見たんだい?」
「帰り道…駅前のカフェにいた」
「…相手が誰だったか分かるかい?」
「分かんない」
それ以外、何も問いただすことはできなかった。
「ただいま」
「…遅かったね」
「…えっ?そう?」
「いや、何でもないよ。おかえり」
その日は、寝つきが悪かった。最近、変な夢ばかり見ている。そして、悪い事ばかり起きる。実を言うと、最近の妻に違和感はあった。然し、それを断定するほどの証拠はない。それに、娘はまだ小学生。本当に不倫と断定して良いのか?私は耳鳴りがした。
ふと、高瀬さんを思い出した。彼の疑いは、誰の耳にも届かない。誰にも理解されず、埋もれていく。もしそれが、未来の自分なのだとしたら?
…あの夢は?
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暗い道がある。先には光が待っている。抗えない光に、吸い込まれていった。
そこでは、鳥の親子が話をしていた。
「ねぇ、お母さん。お父さんは、飛んで行ってしまったの?」
「ええそうよ。お父さんは、飛んで行ってしまったに違いないわ」
「どうして飛んで行ってしまったの?」
「お父さんは、ここの居心地が悪いんだって言ってたわ」
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「あら、あなたおはよう。今日は早いわね」
「ああ、おはよう。昨日あんまり眠れなくて」
「そう…あんまり無理しちゃ駄目よ」
「…うん。ありがとう」
私はここで、言わなければいけない気がした。
「…あのさ」
「…?どうしたの?」
「お前、浮気してるんじゃないか」
妻はぎょっとした。
「…浮気?いきなり何なのよ。冗談ならよして」
「…いや、最近、仕事の帰り遅いだろ?知らない香水付けてたり、それに…」
「…そう。私は香水もつけちゃ駄目な女ってことね。馬鹿みたい」
「そういうことじゃなくて」
妻は急に、開き直った態度をとった。
「あなたと娘の為に働いて、毎日早起きして料理を作って、ちょっとしたお金で好きな香水買って、何が悪いのよ。浮気?冗談は辞めてちょうだい」
「…それは、ありがたいさ」
「…良いです。疑いが晴れるまで、実家に帰らせていただきます。」
「そんな、紬はどうするんだよ」
「私が面倒を見ます。親なので。紬、荷物まとめなさい」
「ママどこ行くの?」
「おじいちゃんの家よ。ここから近いから」
「パパは?」
「パパはお留守番が良いんですって」
一体どうしたら良かったのだろう。妻の言い分からして、本当に浮気をしていたのか分からなくなってしまった。やはり娘の勘違いだろうか。
いつも通りの毎日。電車に揺られ、仕事へ向かい、電車に揺られ、家に帰る。唯、家には誰もいない。
「ただいま」
しかし誰もいない。そのまま床についた。
………………………………
暗い道がある。唯それだけである。道は続いているので、歩みを進めた。
その先には、暗い部屋があった。段々目が慣れてくると、そこは家の中らしき空間が広がっていた。見覚えのある家の中だった。どこからか声がする。
「溺れないために、どうすればいいと思う?」
「まず、泳がなければ良かったんじゃないかな」
「そうだね。そうしなければよかったんだ」
「泳げない人は、始めから泳がなければいい。泳がないといけない人は、始めから溺れている人だけさ」
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いつもの声は聞こえない。然し、いつも通りに日々は進む。
いつも通りの毎日。電車に揺られ、仕事に行き、電車に揺られ、家に帰る。
これはいつも通りだった毎日だろう。そう自分に言い聞かせた。
帰ると、妻が戻ってきていた。
「離婚しましょう」
「…どうしてか聞いてもいい?」
「実は、前からあなたの浮気を疑っていたのよ。結婚してから無愛想になったし、それにあなたが飲みに行くとき、誰と行くかも教えてくれないじゃない」
「そんな…仕事仲間の名前を言ったって、お前からしたら知らない人だろう」
「それに、段々嫌になってきてたのよ。あなたいっつも起きるの遅いし、料理は下手だし、洗濯も掃除も苦手でしょう。」
「それは、申し訳ないけど」
「最近友達にも相談してるのよ。皆口を揃えて別れろって言うわ」
離婚は酷くあっさりとしていた。祖父母の援助を受けられる点や、家事育児が得意な点から、親権は妻の方に行く方で話が纏まった。
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暗い道を進んだ。後戻りすることは出来ない。
そこは、冷たく暗い水の中であった。上から話し声がする。
「ねぇねぇ。あの人、溺れているの?」
「そうだね。泳ぎ方を知らないみたいだ」
「泳ごうともしてないんじゃないの?」
そこに浮力は無く、冷たい水に沈んでいく。
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それから、奇妙な夢は見なくなった。続くのは、いつも通りの毎日である。
主人公可哀想ですね。よければ感想お願いします。




