番だったのは過去の話です
「……あの女が、子供を……?」
夫から告げられた言葉は心臓を突き刺した。
なにを言われたのか理解できず、わたしはオウム返しにつぶやく。
「ああ、もう三ヵ月になるそうだ」
彼は誇るように言った。
妻である私との間にできた子供ではなく、平民の女性との間にできたという子供のことを。
──どうして?
わたしはあなたの番。生涯を誓った相手なのに。
「……すこし、風にあたってきます」
「待て、ベアトリス──」
これ以上夫と同じ空間にいることはできなかった。
必死で声を絞りだし、わたしはソファから立ちあがった。ふらつきながら夫の私室をでていく。
大階段を下りているときだった。
「あ──」
わたしは足を踏みはずして倒れこんだ。勢いは止まらず、なにかの罰のように全身を石の階段に打ちつけながら転がっていき、最後に後頭部を床に強くぶつける。
「──ベアトリス!」
もやがかかった視界に夫の顔が映る。
二階からわたしを見下ろす彼は驚いたように目を見開いたあとで、「……死んだのか?」とつぶやいた。
そして舌打ちをする。
「面倒だな。同じ死ぬにしても、アデールが出産してから死ねばいいものを」
信じていたひとはわたしの死に際にそう吐きすてた。
わたしを心配することも。自分のおこないを後悔することもなく。
──どうしてこのひとが『番』だったの……?
わたしの目から涙がひとすじ零れる。
意識は、そこで途切れた。
+++
「急いで、ベアトリス。今日はあなたの『魂の契約』の日ですよ」
「わかっていますわ、おかあさま」
そう応えつつも、わたしはドレッサーで何度も自分のドレスやメイクを確認する。
今日、わたしは十六歳になった。
この国の女性は十六歳の誕生日に教会で『魂の契約』をおこない、自分の番を知るならわしがある。
子爵家の娘であるわたしにもようやくその日がやってきたのだ。
「ベアトリス! 司祭さまをお待たせしてはいけませんよ!」
「わかってます!」
今日は『魂の契約』だけで、実際に自分の番と会うわけじゃない。それでも心が浮きたって仕方なかった。初めて社交界デビューした日よりも。
──わたしの番はどんなひとなのだろう? 従姉のアンナは占星術の研究が趣味の子爵だったっけ。優しそうで素敵なひとだった。
──わたしの番も、ああいうひとだったらいいな……
そんな願いを胸に、わたしはひとりで教会の扉をくぐった。
中は荘厳な空気で満たされている。祭壇の前では白い法衣を着た司祭さまが待っていた。
「ベアトリス嬢、こちらへ」
「はい……」
わたしは祭壇の上にある金のボウルに手を浸した。ボウルには聖なる水が張られていて、長年修行を積んだ司祭さまだけがそこに映る『番』の顔を見ることができるという。
やがて、司祭さまが静かに告げた。
「あなたの番は──ジスラン・オクレール伯爵です」
「……! ほ、ほんとうですか?」
「ええ。この麗しい金髪に緑色の瞳。見間違えようがありません」
その名を聞いた瞬間、胸が熱くなった。
ジスランさま。社交界ではだれもが憧れる伯爵。彼は引っ込み思案なわたしにもやさしくて、凛とした立ち姿は国中の令嬢をとりこにしていた。
そのジスランさまが、わたしの番……!
夢みたいだ。言葉がでない。
「ほんとうにジスランさまが……!」
「おめでとうございます、ベアトリス嬢」
「は──はいっ! ありがとうございます!」
雲の上を歩いているような心地で教会をでると、待っていた友人たちが駆けよってきた。
「トリス、どうだった? 相手はだれ?」
「……ジ、ジスランさま」
「え? あの、オクレール家の?」
「そ、そう」
「すごいじゃない!」
友人たちはわぁっと湧きたつ。
「あのひとが番だなんて! うらやましい……!」
「ジスランさまなら番を大切にしてくれそうだし」
「だれがあのひとの番なのかしらってよく話題になってたわよね。まさかこんな身近にいるなんて」
「わたしもびっくりしたわ」
ジスランさま。パーティで顔を合わせることはあっても、わたしには手の届かない存在だと思っていた。
「でも、トリスならぴったりね」と友人のひとりが言う。
「そうかしら」
「ええ。あなたが思いやりのあるいい子だってことはみんな知ってるもの。ちょっと悔しいけど、ジスランさまの相手がトリスでよかったわ」
「……ありがとう」
「ふたりの子供はきっとかわいいんでしょうねえ」
「や、やめてよ! 気が早いってば!」
顔を真っ赤にするわたしを見てみんなが楽しそうに笑う。それは心からの祝福が込められた笑顔で、嬉しさのあまりわたしは目頭を熱くした。
この国では結婚は『魂の契約』によってわかった番とするよう定められている。
神さまが見つけてくださった魂の番。その相手と結婚することがなによりもの幸福だし、実際、すべての夫婦がこれでうまくいっているのだから。
もしこの決まりがなかったら、ジスランさまとわたしが結婚する日なんて永遠に来なかっただろう。ありがとうございます、とわたしは神さまに感謝した。
──こんなに素敵な未来が待っているなんて……!
結婚してだれかの妻になることにたいして漠然とした不安はあったけれど、でも、それを吹き飛ばすほどの明るい知らせだった。
その、はずだった。
ジスランさまが自分の番だとわかったとき。わたしはほんとうに幸せになれると思っていた。
神さまが見つけてくださった番であるわたしたちはだれよりも固い絆で結ばれていて。ほかのだれよりも相性がよくて。
どんな困難も一緒に乗り越えていけると……そう、信じていたのだ。
なのに。
「おまえは退屈な女だな」
結婚して最初の夜、わたしの肌にふれたのは彼の指ではなくそんな言葉だった。
ふたりきりの寝室。そこで彼はわたしに指一本触れることなく、ただ、冷ややかな瞳で見下ろしてきた。
「女としての魅力がない。どうしてこんな女が俺の番なんだか。神は盲目か?」
その夜、わたしは『女失格』の烙印を押された。ほかならぬ夫に。
ジスランさまはそれからわたしとは別の部屋で眠り、わたしの寝室には一度も来なかった。昼間も彼は趣味の猟にでかけ、わたしの相手をしてくれることはなかった。
そして。
彼は堂々と愛人を屋敷に呼びよせるようになった。
アデール──栗色の髪に猫のような目をした美女。わたしの目の前で平然とジスランさまに腕を絡め、きつい香水と色香を振りまきながら甘える。
「ベアトリスさま、ごめんなさいね?」
「…………」
「でもジスランさまを責めたりしてはダメですよ? 旦那さまの遊びを許すのも、いい妻の条件ですから」
「……っ」
愛人であるアデール本人に面と向かってそんなことを言われた夜、わたしは屈辱と悲しみで眠れなかった。
けれどわたしは耐えた。
彼は神さまが見つけてくださった番。この世でたったひとりしかいない、わたしの運命の相手だ。
そんなひとがわかってくれないはずがない。きっとこれはなにかの間違い。
こうやって耐えていればジスランさまはいつかわたしを見てくれる。そう信じていたから。
──そうして、耐えるだけの結婚生活は一年もつづいた。
その日、ジスランさまはわたしを部屋に呼ぶとなんの前触れもなく告げた。
「アデールが子を授かった」
頭を殴られたように目の前が暗くなった。
ジスランさまはわたしの夫なのに。なぜ、愛人であるアデールが……
「子供はオクレール家の子として迎える。おまえは実の子として接しろ」
「そんな……っ!」
「ただし、私とアデールの子供にすこしでも危害を加えたらおまえは犯罪者としてすぐに国へ突きだす。覚悟しておけよ」
氷より冷たい声。わたしを妻ではなく、敵とでも思っているような眼差し。
いえ──実際、彼はわたしを『自分と愛人の子供に敵意を向ける役立たずの妻』と見なしていた。
……どうして。
どうしてこんなことになってしまったの?
わたしの番である男のひとは……どうしてここまでわたしを傷つけるの……?
「……すこし、風にあたってきます」
「待て、ベアトリス──」
これ以上夫と同じ空間にいることはできなかった。
必死で声を絞りだし、わたしはソファから立ちあがった。ふらつきながら夫の私室をでていく。
大階段を下りているときだった。
「あ──」
わたしは足を踏みはずした。階段を転がっていき、最後に後頭部を床に強くぶつける。
「──ベアトリス!」
二階からわたしを見下ろす彼は──驚いたように目を見開いたあとで、「……死んだのか?」とつぶやいた。
そして舌打ちをする。
「面倒だな。同じ死ぬにしても、アデールが出産してから死ねばいいものを」
番として信じていたひとはわたしの死に際にそう吐きすてた。
わたしを心配することも。自分のおこないを後悔することもなく。
──どうしてこのひとが『番』だったのだろう……
わたしの目から涙がひとすじ零れる。
意識は、そこで途切れた。
……次に目を開けたとき、わたしは教会の高い天井を見上げていた。あわてて身を起こす。私はベンチに寝かされていた。
「……え……?」
「おお、ベアトリス嬢。気がつかれましたか。『魂の契約』の儀式が終わった途端にあなたは気絶してしまったのですよ」
「『魂の契約』……」
「あなたのお相手はジスラン・オクレール伯爵です。いや、素晴らしい方でなによりですな」
「嬉しさのあまり気絶されたのですか?」と司祭さまは笑う。
わたしはその笑い声を聞きながら──いま見た光景はなんだったのだろう、と混乱していた。
ジスランさまとの結婚。夫婦生活。愛人が妊娠したと聞かされて、衝撃を受けながら大階段を下りているときに足を踏みはずして……わたしは……
──わたしは、あそこで死んだんじゃなかったの……?
混乱したまま教会をでると、外で待っていた友人たちが一斉に駆けよってきた。
「トリス、どうだった? 相手はだれ?」
「はやく教えてよ! みんな楽しみにしてたんだから!」
デジャビュを覚えてわたしは目を閉じた。
わたしは──この光景を知っている。
……これは幻覚? それとも。
わたしは……過去にもどった……?
「トリス、どうしたの? だいじょうぶ?」
「なんだか時間がかかっていたみたいだけど……」
記憶の中でわたしは彼女たちに嬉しそうに答えていた。
ジスランさま。みんなが憧れる伯爵令息がわたしの番だったのだと。
でも──そのあと訪れたのは冷えきった結婚生活と裏切り。そして……絶望の中での死。
……いやだ。
もう、あんな目には遭いたくない。
──神さま。わたしに、もう一度チャンスをくださるのですか?
わたしは胸に手をあてた。
わたしは生きている。夢じゃない。
友人たちに「なんでもないわ」と答えながらわたしは静かに決意した。
ジスランさま──いえ、ジスランにすべてを捧げた愚かな過去。それをくりかえすわけにはいかない。
──絶対に、ジスランから逃げきってみせる。
もう二度とあのひととは結婚しない。
尊厳を踏みにじられたまま生涯を終えるなんて絶対にいやだ。
仮に、わたしが視た未来を『一周目』としよう。
わたしは一周目であんなにも苦しんだのだ。同じ過ちは二度とくりかえさない。
神さまが見つけてくださった番よりも。わたしは、自分の想いを信じる。
……でも、どこへ行けばいいのだろう。
考えに考えて思いついたのはだれもわたしを知らない田舎町。
身分も過去も捨てて、ただの平凡な田舎の女として生きる。
それが、一度死を経験したわたしの望みだった。
──ごめんなさい。おかあさま、おとうさま……
わたしが"ふつうに"結婚するものだと信じている両親に謝り、(おにいさま、ふたりをよろしくお願いいたします)とすでに番の女性と結婚している兄に心の中で頭を下げてわたしは家をでた。
両親も兄も番と結婚してうまくいっている。
──なのに、どうしてわたしだけダメだったのだろう……。
汽車に乗って王都を離れた。閑散とした駅で降りて馬車を拾い、御者にここから村へはすぐだと言われたので、気分転換のつもりで途中で馬車を下りて森の中の道を歩く。
ところが。
「あ、あれ……?」
そんなに奥へは入っていないつもりだった。でも雲が太陽を隠すと方角がわからなくなり、自分がいったいどこからきたのかさえわからなくなる。木々が連なる道はどこを見ても同じように見えるし、出口の気配もない。
やがて空からぽつり、ぽつりと雨が落ちてくる。
──雨。いけない、体が冷えたら体調を崩してしまう……!
こんなところで動けなくなってもだれもわたしを助けてくれないだろう。
──ばかだ。どうしてもっと調べてから家をでなかったんだろう……!
自分の浅はかさが悔しくて目に涙がにじむ。
──とにかく、なんでもいい。小屋かなにかを見つけなくちゃ!
必死で探していると、やがて木々の隙間から建物がちらりと見えた。無我夢中でそっちのほうへ走る。
「教会……?」
それは、人々に忘れられてあとは朽ちていくだけの教会だった。
崩れかけた屋根に、蔦に覆われたひびだらけの壁。扉は外れかけていた。
おそるおそる中に入ると、冷たい石の床に雨漏りの音が響いている。でも雨はしのげそうだ。
「──あ」
なにげなく奥を見てわたしは声を漏らす。
祭壇の奥にある神像は無残にも上半身が砕けていた。
わたしはそばに近寄る。
砕けた石像を見つめていると胸がぎゅっと締めつけられた。
──わたしと同じ……。
一周目で心を踏みにじられたわたし。
ここにある石像も、だれかに壊されて、放置されて……。
「……つらかったわね……」
気づけば、わたしは膝をついていた。
冷たい石片を一つずつ拾い、丁寧に重ねていく。
「……せめて、かたちだけでも戻してあげるから」
寒さで体を震わせながら、わたしは一心に石像を組み立てる。
砕けた像の顔が、なんとか元のかたちを取りもどしたその瞬間──。
眩い光が、石像からあふれだしたした。
「──ベアトリス。感謝するよ」
不思議な優しさを帯びた声。
「え……っ?」
自分が見ているものが信じられず、わたしは何度も瞬きをする。
石像があった場所にひとりの青年が立っていた。
この世のものとは思えないほど美しい銀髪が揺れ、琥珀色の瞳がわたしを見つめている。
その目に見つめられた瞬間、わたしの胸がどうしようもなく高鳴った。
「あ、あなたは……?」
彼は静かに微笑んだ。
「僕は時の神クロノス。
人々に忘れられて深い眠りについている間、何者かの手によって石像を壊され、力を奪われた。
けれどきみがこうして無私の優しさをもって石像を直してくれた。それによって僕はふたたび時の神としての力を得ることができたんだ。
そんなことができるのはただひとり……僕の番だけだ」
「……つがい?」
彼はうなずくと、わたしの冷たい手をそっと取った。
「ベアトリス。きみがジスランにどれほどひどい仕打ちを受けて心を傷つけられたか、僕は知っているよ。つらかったね」
「……っ!」
胸が裂けるように痛む。
一周目での屈辱と孤独が鮮明によみがえった。
顔をそむけようとしたとき、わたしは彼の腕に包みこまれていた。
「だいじょうぶだ。きみのことは僕が守る。もう二度ときみを傷つけさせたりはしない」
彼の体温はわたしよりも高かった。
そのぬくもりに触れた瞬間、堪えていたものが一気にあふれだしていく。
「わたし……わたし……」
「……うん。我慢しなくていいよ」
「う……うああ……っ!」
わたしの目から涙が零れおちる。
番である男性に冷遇されているなんてだれにも言えなかった。けれど、その痛みを知っていると言われて必死に隠してきた傷口が開いていく。
──ああ、そうだ。
あのひとは、わたしを一度もこんなふうに抱きしめてくれなかった……。
なんだか一生分泣いた気がする。
泣きつかれて、わたしはようやくクロノスの胸から顔をあげた。
子供のように泣きじゃくっていたわたしを彼はすべて包みこむような瞳で見つめていた。
「……ほんとうにわたしのことを知っているのですか?」
クロノスは小さくうなずいた。
「きみがジスランに虐げられていた日々も、愛人の女が妊娠したと告げられた日の絶望も。そして……あの階段から落ちたときに感じた痛みも。すべて知っているよ」
そのことは両親にも仲のいい友人にも話していない。それに、あれはわたしだけが視た未来のはずだ。
なのに知っているということは──彼はほんとうに神さまなのだろう。
「……ならば教えてください。わたしの番も神さまが見つけてくださったのですよね? なのにどうしてジスランはわたしにあんなことを……」
「ふふ、知りたい?」
「……はい」
クロノスはいたずらっぽく笑う。そして、冗談にしか聞こえないことを言った。
「あれはただの相性占いだよ」
「…………」
わたしはぽかんとして彼を見る。「え?」
「占星術で導きだした相性のいい相手。それだけ。司祭たちはあらかじめ全国民のデータを調べあげて、もっともらしく相手に伝えているだけだよ。儀式を受けるのが十六歳の女性だけっていうのはおかしいと思わない? あれはね、結婚できる年齢になったらすぐさせることで占いの結果から実際の結婚までに間が空かないようにだよ。ひとの運命はうつろうものだからね」
「そ、そんな。そんなばかなこと」
「神さまの僕が言うのに信じられない?」
「だって……」
クロノスはそっとわたしの髪にふれる。
見知らぬ異性にそうされているのにどうしてかいやじゃなかった。
「ほんとうの番は魂が響きあって初めてわかるものだよ。僕ときみのように。だれかに教えられるようなものじゃない」
「……そんな、こと……」
番は神さまが見つけてくれる。その相手と結婚すれば必ず幸せになれる。
幼い頃からの教えを否定されて動揺していると、クロノスがわたしの頬を両手で優しくはさんだ。
大きな手のひらは不思議なほどあたたかく、凍てついた胸の奥までゆっくりあたためられていく。
「いまは信じられなくていいよ。すぐに答えをだすことなんてないから」
「…………」
「でも僕はずっときみを見守ってる。それは忘れないで」
わたしは彼の手にふれた。
時の神だという青年。爵位どころか存在さえ超越したような相手に番だと言われても、急には受けいれられなかったけれど。
「……すこし、休ませてもらってもいいですか……?」
このぬくもりなら信じられる。そう思った。
クロノスはやわらかく微笑む。
「もちろん。ずっとそばにいるよ」
教会の奥の部屋にあったベンチの上にわたしは身を横たえた。
雨はまだ降りつづいている。でも、もう寒くはなかった。
わたしの痛みに気づいてくれたひとがいるから──。
「おやすみ、ベアトリス。いい夢を」
わたしの傍らでクロノスが言う。
その声に導かれるようにして、わたしは眠りに落ちていった。
+++
純朴でだれにでも分けへだてなく接するベアトリスは王都の民たちから愛されていた。
彼女の失踪はすぐに王都中に広まり、やがて、ベアトリスに好意を抱いていた青年たちがジスランへの嫉妬を込めてある噂を口の端に上らせるようになる。
「トリスはオクレール伯爵との結婚がいやだから逃げだしたらしいな」
「番に逃げられるなんて。前代未聞だ」
「恥ずかしい貴族さまだな」
その噂はじきにジスランの耳にも届いた。表面上は平静を装いつつも、ジスランの腸は煮えくりかえっていた。
──私から逃げただと? 子爵令嬢ふぜいが。
彼女は私の番だ。神が見つけた唯一の存在。逃げだすなど許されるはずがない。
かならずつかまえて。もう一度、支配下に置いてやる。
「……ベアトリスめ。私から逃げきれると思うなよ」
+++
「近くの村からもらってきたよ。食べられる?」
「あ、ありがとうございます……」
朝。目を覚ましたわたしに、クロノスがパンとカップに入ったスープを届けてくれた。
屋敷で食べていた食事とは比べものにならない。でも──固いパンも野菜の切れ端ばかりのスープも、わたしにはなによりものご馳走に感じられた。
「おいしい……」
「食べ終わったら村へ行こうか?」
「村……」
「もともとそこで暮らすつもりだったんでしょ? ただのひとりの女として」
……そうだ。なにもかも捨てて、そこで新しい人生をやりなおそうと思っていたんだ。
どこかのお店で働かせてもらって。生活が落ちついたら、両親にだけは手紙をだして。
わたしは……今度こそ、自分の手で幸せを見つけてみせる。
「僕もついていくからね」
……予定とちがって、不思議な神さまが一緒だけれど。
「ええ……ありがとう」
わたしが微笑みを返したときだった。教会の扉が破壊される音がした。
わたしは息を呑む。クロノスは笑顔を消して、礼拝堂につづく小さな扉を慎重に開けた。
わたしもクロノスの背中越しにそちらのほうを見る。
そこに立っていたのは──
「見つけたぞ、ベアトリス」
その声に全身が凍りついた。
ジスラン──。
彼は薄暗い礼拝堂に足を踏みいれ、「こんなところでなにをしているんだ?」と優しく問いかけてきた。
「ど……どうして、ここが」
「きみのことなら手に取るようにわかる。逃げても無駄だよ。私はきみの番だからな」
その言葉に背筋が寒くなった。
一周目でわたしを冷遇し、愛人と子供まで作った人間が──!
「ふざけないで!」
わたしはクロノスの横を通って礼拝堂に立つ。震えそうな声で必死に言いかえした。
「そんなもの国が勝手に決めただけよ。わたしは知っているもの。あなたと結婚したら自分がどんな目に遭うか!」
「…………」
それは──ジスランには理解できない言葉のはずだった。
なのに彼は。わたしの言葉を聞いて、目を見開くと。
「どうしておまえがそれを知っているんだ?」とつぶやいた。
「え……?」
「おかしいなぁ。時間を巻き戻せば、俺以外の記憶はすべて消えるはずなんだが」
「な、なにを言っているの……?」
そのとき、私の後ろに立つクロノスが低く告げた。
「ベアトリス。きみの時間を巻き戻したのは、この男だよ」
わたしははっとしてジスランを見る。
彼は愉快そうに笑うと、懐から琥珀に似た色の石を取りだしてみせた。
「猟にでたときだ。通り雨にあった俺は、雨宿り先を探して偶然この教会を見つけた。すると石像にこいつがはめ込まれていてな……出来心で抜きとったんだ。ま、抜きとるには石像を破壊しなくちゃいけなかったけどな」
石像……クロノス……。
彼を壊したのは、ジスランだったの──?
「その瞬間、俺は自分が不思議な力を得たことに気づいた。時間をもどす力だ。ただし何回使えるかがわからないから、下手に使わずに切り札としてキープしておいたんだけどな」
「──わたしが死んだあとに時間をもどしたのは……?」
「ん? なんだ」
わずかな希望を込めてつぶやいたわたしを、ジスランはばかにしたような目で見る。
「まさか、俺がおまえが死んで後悔したから時間をもどしたと思ってんのか?」
「……ちがうの……?」
「当たり前だ。おまえが死のうがどうなろうが俺には関係ない。
俺が時間をもどしたのはアデールが俺を裏切っていたからだよ。あの女……べつの男との間にできたガキを俺の子供だと偽っていやがった。だからうっかり殺しちまった。屋敷の中ならいくらでももみ消せるのに、街中だったからな。殺人をなかったことにするために時間をもどしたんだ。ついでに」
残酷な笑みをジスランはわたしに向ける。
「壊れたおもちゃともう一度最初から遊ぼうと思ってな。いいアイデアだろ?」
……まだ、信じていた。
彼はわたしの死を悲しんでくれたのではないかと。わたしにしたことを後悔して時間をもどしたのではないかと。
そんなこと──あるはずなかったのに。
「だが、なんでこの宝石を持っていないおまえが時間がもどったことを認識できているのか……」とジスランは首をひねる。答えたのはクロノスだった。
「簡単だよ。ベアトリスは時の神である僕の番。その彼女がわからないはずないだろ?」
ぴくっとジスランは眉を動かす。
「……番?」
「そうだよ。なにか文句でも?」
「ああ、あるね。そいつは俺のものだ。ほかのやつには渡さない」
「……だって。どうする、ベアトリス」
クロノスに尋ねられ、わたしは息を吐きだした。
かつて夫だった男──そして、わたしを裏切った男をにらみつける。
「あなたと番だったのは過去の話です。わたしはもう二度と、あなたのものにはなりません」
ジスランの目が細められ、その整った顔に冷たい笑みが浮かぶ。
「……そうか」
彼は宝石を胸ポケットにしまった。そして背中に隠していた猟銃を両手に持ち、おもむろに私に向けてかまえる。
「なら、命で償え。俺に歯向かったことを」
ジスランの顔が獲物を捕らえようとする猛獣のようにいきいきと輝いた。
わたしは目を閉じる。
……かまわない。これは、わたしが自分で選んだ運命だ。だれかに強要されたものじゃない。
その結末が死だったとしても、わたしは……
「──死ね」
耳をつんざくような銃声。
けれど、銃弾がわたしに届くことはなかった。
「……?」
不思議に思ってわたしはまぶたを開ける。そこには信じられないものがあった。
銃弾が、宙に浮いている。
「僕たち以外の時を止めた」
クロノスがふわりと言う。わたしはジスランを見たけれど、彼は猟銃の引き金を引いた姿勢で固まっていた。
──ほんとうに時が止まっている。
クロノスはジスランに歩みよると、彼の胸ポケットから琥珀色の宝石を取りだす。
「探しにいかなくちゃいけないと思ってたんだ。ここまで守護石を運んできてくれてありがとう。礼を言うよ」
そしてクロノスは笑う。
すべてを包みこむ時の神。なによりもおおらかで、なによりも残酷な存在は──
わたしをいたぶった男を、目を細めて見つめた。
「さあ、神を冒涜して僕の番を地獄に堕としたこの男をどうしてやろうか」
+++
ジスランは知っている。女を屈服させる喜びを。
優しい仮面に惹かれてよってきた女を痛めつけて絶望させる喜びを。
ベアトリスはいいおもちゃだった。だからもうしばらく壊れないでいてほしかったが、彼女は大階段から足を踏みはずして死んでしまった。
だが、人間と同じようにおもちゃにも寿命があるのだから仕方ない。
ベアトリスの死後、アデールは無事に男の子を産んだ。ジスランと同じ、金髪に緑色の瞳をした赤ん坊だった。
ジスランは医者を買収して出生記録を改ざんさせ、アデールの子をベアトリスの忘れ形見として家に入れた。
それからはアデールを堂々と屋敷に住まわせ、人目をはばからず愛しあう日々。
「亡くなった奥さんに悪いわね」
ベッドの上、アデールがぽつりとつぶやく。ジスランはそれを一笑に伏した。
「ベアトリスとは国が番だと言ったから結婚しただけだ。俺が愛しているのはおまえだけだよ」
この世には女を屈服させる喜びもあれば、アデールのようなファム・ファタールにすべてを捧げる喜びもある。
アデールは平民生まれだが男を骨抜きにする魅力を持っていた。
だが、ある日──。
路地裏で見知らぬ男と話すアデールの姿が目に入った。
険悪な様子に胸騒ぎを覚え、ジスランはとっさに物陰に身をひそめる。耳に届いたのは信じられない会話だった。
「……足りねえな」
「なに? この前と同じ額でしょう」
「おまえ、オクレール伯爵とはもう夫婦みてえなもんなんだろ。ならもっと自由に金を使えるんじゃねえのか?」
「そんなわけないじゃない。冗談はやめて」
「おいおい、そんな態度取っていいのか? 伯爵にあのガキは俺との子供だってばらすぜ」
「…………」
「いやだろ? じゃあ払えよ」
アデールは金貨を男に投げつけた。
男──金髪で、緑色の目をした男──は下卑た笑顔を浮かべて立ち去っていく。
ジスランはアデールを問いつめた。
アデールは最初こそしらを切ろうとしたが、会話を聞かれていたと知ると観念し、嘲るようにジスランを見てこう言った。
「私はお金がほしかっただけよ。私が愛しているのは、お金だけ」
それを聞いてジスランの頭に血が上った。
気がつけばアデールは床に倒れて動かなくなっていた。彼女の首にはジスランの手のあとがくっきりと残っていた。
「ど、どうかなさったんですか? ジスランさま……」
騒ぎを聞きつけて住民が顔を覗かせる。
「ひっ──」その顔が死体となったアデールを見つけて引きつるのを横目に、ジスランは盗んだ宝石を使って時間をもどした。番と言われた少女と結婚する前まで。
それが一周目。
だが、今回はちがった。
どれだけ宝石をにぎりしめても時はもどらない。
「わ、わぁあああ! 女が死んでる! だれか来てくれ!」
住民の悲鳴を聞いて人が集まってくる。
足元の死体とジスランはすぐに結びつけられた。
「オクレール伯爵が女を殺したぞ!」
「人殺し!」
「くそ……っ!」
ジスランは路地裏の奥へと逃げる。人殺し、あっちへ逃げたぞと叫ぶ声を聞きながら。
「なんでもどらないんだ……!」
手の中の宝石をにらみつけたとき、彼はだれかにぶつかった。顔をあげるとそこには自分の番──ベアトリスが立っている。
蒼白い顔で。頭から血を流しながら。
「逃がしませんよ」
彼女は笑う。
「あなたは、私の番なのですから」
ジスランの喉から絶叫がほとばしる。
気がつくと彼はアデールの首を絞めていた。我に返り、彼女から手を離すがもう息はない。
「ど、どうかなさったんですか? ジスランさま……」
建物の陰から顔を覗かせる住民。「女が死んでる! だれか来てくれ!」くりかえされる悲鳴。「人殺し!」反射的に逃げるジスラン。
「なんでもどらないんだ……!」
手の中の宝石をにらみつけたとき、彼はだれかにぶつかった。顔をあげるとそこには頭から血を流したベアトリスが立っている。
彼女は笑う。うっとりと。
「逃がしませんよ。あなたは、私の番なのですから────」
+++
ジスランは絶叫とともに教会の床に倒れた。瓦礫だらけの床を虫のようにのたうち回る。
彼がいったいクロノスになにを見せられているのか。わたしには想像もつかなかった。
「無限につづく地獄──」クロノスが笑う。「僕の気が済んだら解放してあげるよ。ま、そんな日が来るかなんてわからないけどね」
彼はわたしを振りかえり、「さあ」と手を差しのべてきた。
「きみの新しい人生のはじまりだ。一緒に行こう?」
「クロノス──」
「……う……」
「…………」
「ゆ……るし…ベア……」
床に倒れたジスランがわたしに許しを請うている。
──せめて彼を解放してから……。クロノスにそう言おうとしたとき、ジスランがうめいた。
「ゆるし……くれ……アデール……」
「…………」
「おれが……おれが、わるかった……」
「……そう」
……こんなときでもあなたはべつの女性を呼ぶのね。わたしではない、べつの女を。
わたしはジスランを見下ろし、冷たい声で言う。
「アデールに助けてもらったら?」
そして、わたしはクロノスの手を取った。
おおらかで残酷な神。彼と生きることはけして優しい道ではないだろうけど。
「──さあ、いきましょう」
これはわたしが自分で選んだ道だから。どこまででも、歩いていける。