灰と紫陽花
アラームが真夜中に音を鳴らした。
リナは目を覚ますと、窓から外を眺めた。
午前3時。まだ灰は降っていないようだ。
億劫に思いながら、雑にパジャマを脱ぎ捨てた。
ジャージを着ながら、一言呟いた。
「やっぱり配給所行かないとだよなー。正直めっちゃダルいけど」
その街には、夜が明けると灰が降るようになった。原因はまだわかっていないらしい。
道路が使えなくなり、スーパーやコンビニへの食品の入荷は絶望的であった。
飲食店も人が来ず、軒並み休業している。
先月から、夜明け前に配給が行われるようになった。
リナの家族では、毎日の当番を決めている。日曜日はリナの番だ。
リビングに降りると、父がテレビをじっと見ていた。
いつもなら寝ている時間だ。
中継では、配給のある公園が映っていた。臨時ニュースらしい。
長い列の様子を、レポーターが丁度ひとしきり状況を説明したところだったようだ。
テレビ局のスタジオにカメラが切り替わった。
「現場の田村さん、ありがとうございました。えー、先程もお伝えしたように、この灰が降る現象は、今後1ヶ月の間、非常に強くなる見込みです。配給は明日から当面中止になるため、皆様、本日は必ず配給所に向かい、非常食を必ず蓄えておくことをおすすめします」
――行くのダルすぎる。非常食はまだ十分あるし、行かなくてもいいんじゃない?
リナは父に聞いた。
「ねえ、今日は配給に行くのやめてもいい? さっきネットでニュース見たら、5時間くらい並ぶみたいだし、朝になったら灰まみれになっちゃう」
――SNSの情報から2時間くらい盛ったけど、父さんは情報に疎いし。
父はリモコンを手に取りテレビを消した。放られたリモコンが、ガタンと大きい音を鳴らした。
「リナ、お前……ゲホッ、お前、先週も休んだだろ。それに……ゲホッ、多く見積もっても、いまの非常食の量だと2週間ぐらいしか持たないから、今日行かないと……ゲホッ」
父と母は、それぞれ週3回、配給に行っている。
灰の影響で、父の体調も少しずつ悪くなっているのはリナも薄々気づいていた。
リナは少しだけ反省した。
「わかった、わかったよ、行くから」
「ああ、頼む。あと、母さんがこれ買ってきてくれたから、持っていきなさい」
父から傘を受け取った。
薄い紫色の傘だ。
ちょっとだけ重たい感じがするが、布には何かふわふわとした感触があり、リナの好きな紫陽花のようだった。
リナは、すぐにそれを気に入った。
「ありがとう。これ、好きかも。じゃあ、あたし、行ってくるね。父さんはゆっくり休んでて」
父に向かって微笑んで、大きなリュックサックを背負い、傘を持って玄関のドアを開けた。
昨日積もった灰が、傘の紫を鮮やかにした。
暗がりを抜けて公園につくと、人の列はテレビで見たよりずっと長かった。
――やっぱり、5時間くらい、並ぶかな。
そして、結局、3時間が過ぎた。
夜は明けたが、空は鉛のように暗い。
どこか金属が錆びたような匂いを感じ始めた。ほどなくして、灰が降り始めた。
長袖と肌の間に粒が入り込んだときの、ザラッとした感触が、リナには苦手だった。
ああ、やっぱり、と思いつつ、紫の傘を広げようとした。
――でも、汚れちゃうし、ちょっともったいないな。
そう思って、リュックサックを開き、折りたたみ傘を取り出した。
紫の傘はやっぱり今日は差さないでおこうと思った。
並び始めて5時間。
灰は途切れなく降る。列はまだ長い。
皆、傘を内側から叩いて、灰を払うようにし始めた。
前の人の灰がちょっと飛んでくるので、リナは少し苛つきはじめていた。
――左手の折りたたみ傘が重くなってきた。
――紫の傘を差したほうがいいかな。
そう思っていたら、強い風が吹いた。
リナの開いていた折り畳み傘が煽られて、カチャっと音がなると、柄が折れてしまった。
灰がリナの顔に吹き付けた。
とっさに目を瞑った。
前の人が払った灰も飛んできて、バサッと前髪に重く降ってくるのを感じた。
――あー。やっぱり、こっちを差しておけばよかった。
はあ、と溜息をついた。
目をつむりながら、手探りで傘をパッと開いた。
なぜか、灰の錆びたような匂いはしなくなり、ほの甘い香りが鼻をついた。
不思議に思いながら、傘を差した。
耳鳴りのような無音が訪れ、一滴の雫が髪にかかった。
顔の灰を払うと、今度は冷たいものが頬に流れるのを感じた。
――灰が止んでいない? 傘を開いたのに?
混乱しながら少しだけ目を開いて、差した傘の内側を見上げた。
そこには紫陽花が咲いていた。
傘の内側の紫陽花から、水の雨がしとしとと降っていた。
青い匂いの雨が、顔を傳い、やがて灰を洗い流した。
服も濡れ始めた。
それはリナの体を冷やしたが、どこか心地の良いものだった。
列の人々は、リナの紫陽花が水の雨が降らせていることには気づいていないようだった。
ちょっとだけ特別な気分になった。
ほどなくして、灰の雨が急に止んだ。
灰が降り続ける予想はどうやら外れたらしい。
周りの人は傘をたたみ始めた。
リナも、静かに紫陽花の傘をたたんだ。
――配給を受け取ったら、遠くの花屋によって、家族に花を買おう。
――灰で、開いてないかもしれないけど。
この公園に、去年は綺麗に咲いていた紫陽花を思い浮かべながら、リナは列を一歩進めた。
配給を受け取った頃には、空が晴れていた。
きっと花屋は開いている。リナは不思議と、そう確信した。