暗闇に涙の卒業式
卒業式の当日だというのに、教室は相変わらずのスカスカ。出席している奴らも、黒板の前にいる先生を無視して菓子を食べたり酒を飲んだり、好き勝手に騒いでいやがる。
「みなさん、ついに卒業ですね。これから先、皆さんは様々な進路を歩まれると思いますが、ここで学んできたことを社会に生かして、頑張ってください」
担任の岡部先生はこれが最後の朝礼なんだけど、ちゃんと聞いていたのは前の席に座るあたしと八緒ちゃんぐらいのものだろう。先生はこんな状態でも注意することなく、淡々と朝礼を終わらせた。これもいつも通りだ。
先生が教室から出た後も、やかましさは収まる気配がない。あたしは八緒ちゃんに口パクで『出ようか』と伝えた。
「あーうっさ、仲間とつるんで喋くるぐらいなら、わざわざ教室に行かず直で体育館に行けばいいのに。ねえ、八緒ちゃん」
物やガラスの破片が散乱する廊下で、あたしと八緒ちゃんはようやくまともに話をすることができた。
「あの人たちも卒業式だから、最後くらい教室に行きたくなったんじゃないかな」
「どうだかねぇ。どうせあいつら、卒業式にもらえる高価な記念品目当てで来てるんでしょ」
「んん、そうかな。恵ちゃんも、その記念品って気になる?」
「あたし? あたしは別に興味はないけど、それよりも、ようやくこの高校とオサラバできるって嬉しさのほうがあるかな。ケジメじゃないけど、しっかり卒業証書もらっとかないとね。それと、あたしは卒業したら県外行くから、八緒ちゃんとも、ね」
「うん……うん、そうだよね」
八緒ちゃんがちょっと言葉に詰まった感じになったので、あたしも少し胸が苦しくなった。
「体育館……卒業式の会場、行こっか」
あたしがそう言うと、八緒ちゃんはゆっくりとうなずいた。
おそらく最後に通ることになる体育館までの道のりを、あたしは八緒ちゃんとともに、色々と物思いにふけながら歩いていた。
どこの廊下も、まるで戦争した後みたいな有様だ。窓ガラスはほとんど割れて、床や壁は落書きやへこみだらけ、ところどころ乾いた血がへばり付いている。脇には漫画雑誌やエロ本をはじめ、ゴミも散らばっていた。
「恵ちゃん、左眼は……まだ治らないの?」
「うーん、これはほとんど潰れているようなもんだし、諦めてるよ」
「でも、看護師さんになるんでしょ。不便じゃないかな」
「大丈夫、これも一つの試練だと思って、がんばってみるさ」
八緒ちゃんに言われるまで、すっかり頭から抜け落ちていた。人間、時間が経てば慣れてしまえるもんだね、とあらためて思う。事故で左眼を大怪我しなかったら、あたしもあいつらと同じ、不良のまま学校を卒業していただろう。
この私立甲斐塚高等学校には、どういうわけか、県内外から不良たちがわんさか集められていた。少年院の経験がある奴もいる。入学試験なんてまともにやった記憶がない。それなのに学費は安く、校則は激ユルで学食もタダだってんだから、アウトロー気取りの不良たちでも、入れるのなら入らない理由がなかった。
当然、校内の治安も見ての通りなんだけど、先生たちもまるで気にする様子はなく、何度妨害や無視を食らおうとも、ごく普通に授業を続けているような毎日だった。まるでお互いを、存在しないものとして見ているかのように。
あたしも、入学したてのころは金バイのKとしてそこそこ名が知れていた奴だった。
今となっちゃ自慢でも何でもないけど、小学校高学年からバイクに乗ってたし、車も運転していた。もちろん無免許。中学校ではろくに授業も出ず、金ぴかに塗装したバイクを乗り回して警察にあげられるのが当たり前。そんな、イキった子どもだった。
事故ったのは高校一年の三学期末。中学と変わらないバイク生活をしていたから、もうすぐ学年が上がることなんて気にもしていなかった。けれど、季節外れの吹雪に見舞われたあの日ばかりは、学校に行くべきだったと後悔した。
スリップしたスポーツカーと衝突して意識を失い、気がついたら病院のベッドで横になっていた。
両親と久しぶりに会って、自分の状態を告げられた。色々なところの骨が折れていて、何針か縫ったケガもあるけど、骨は元通りになるし、体や顔に傷跡も残らないという。
散々バイクで暴走を繰り返していた代償としては、安くすんでいた。ただ一つ、左眼の視神経がひどく傷つけられていて、一生視力が戻らないと言われたこと以外は。
両親に大声で怒鳴り散らして、病室から追い出したのを覚えている。それから顔を枕に押し付けて、泣いた。片目の視力をほとんど失ったら、今までのようにバイクで峠を駆け抜けることなんてできやしない。あたしが学校にも行かずに打ち込んでいたものが、一瞬のうちに失われてしまったんだ。
それからの入院生活も、あたしは魂が抜けたゾンビみたいに過ごしていた。リハビリもやる気ゼロで、医者の先生には学校の先生以上に小言を言われる始末。
でも、あたしの担当だった男の看護師さんは、こんなあたしにも親身に寄り添って、新しい道を見つける手助けをしてくれた。
『無理だよ、あたしバカだから。いまさら勉強なんてできない』
『そんなことはないよ。こうやって話をしていて思うんだけど、恵ちゃんは自分が思っている以上に頭のいい子だ。バイクには乗れなくなっても、必ず他の道が見つかる。さあ、今日もリハビリをがんばろう』
ちょろい、って言われたら否定はできないけど、そうこうしているうちにすっかり立ち直ってしまい、退院する頃には勉強をしてあの人みたいな看護師になるんだという、新しい目標までできた。
それからは、毎日学校に通って勉強しようと決意した。そして卒業するまでに、なんとか進学ができるようにはなったし、両親にも今までのことを謝って和解し、県外の看護系学校に行く許可をもらえた。
まあ、つまり、言葉にすると小っ恥ずかしいんだけど、心を入れ替えたんだ、あたしは。
「八緒ちゃんは……そうそう、お父さんの仕事を手伝うんだったね」
少しの間、過去へ飛んでいた意識を引き戻すように、あたしは八緒ちゃんに声をかけた。
「うん、ずっと前から決めていたから」
「ちょっともったいない気もするねー。八緒ちゃんのアタマがあれば、きっと国立の大学も余裕でパスすると思うんだけど」
「いやあ、そんなでもないよ。家族のみんなと比べたら、ぜんぜん普通だし」
八緒ちゃんは照れくさそうに頬をなでている。
彼女と友だちになったのは、退院して二年生の授業を初めて受けた時からだ。
騒がしい教室の中で、八緒ちゃんだけは前の席に座り、静かに授業を受けていた。
あたしは最初、勉強でわかんないところがあったら、なんとか教えてもらえないかな、という程度にしか考えていなかったんだけど、不思議なことに、授業のあとで八緒ちゃんのほうからあたしに話しかけてきた。
『えっと、あなたは同じクラスの子ですよね。ごめんなさい、今まで見たことがなくて』
『あ、ああ。あたしは諸積恵っていうんだ。この間までバイクで事故って入院しててさ、見たことがなくても無理ないよ』
『そうだったんですか。あなたが恵さん。今日は……熱心にノート取ってましたね』
『うん、ちょっと入院中に思うことがあってさ、これから真面目に勉強しようって』
八緒ちゃんはまったくもって普通の、どこにでもいるような女子高生だった。不思議に思って、なぜこんな不良高校に入ったのか聞いてみたことがあるけど、だいたい家が近くて通いやすいから、という答えしか返ってこなかった。なんか持病でもあるのかと想像したけれど、あたしもなかなか訳アリの人間だから、深くツッコむことはナシにした。
そして八緒ちゃんは賢かった。アタマが切れる、というより、女子高生とは思えないほどいろんな知識を持っていた。あたしの両親よりも、物知りかもしれない。学校に戻ってしばらくは、先生よりも八緒ちゃんに勉強を教えてもらったようなものだった。
「八緒ちゃん。卒業した後はこの学校から離れられるけど、これから先もあいつらみたいな悪いやつの言いなりになっちゃだめだよ。嫌なら嫌ってはっきり言わないと」
「うん、そうするよ」
八緒ちゃんと出会ってしばらくしてからのある日、あたしは八緒ちゃんが不良どもに金をたかられる場面に出くわしたことがある。
『おい八緒っち、今日も俺らにちょっくら寄付をしてくれや』
『うん、わかった』
『わーありがとー、八緒ちゃんマジ天使ー』
『おい、お前ら』
今まさに財布からお札を出そうとしていた八緒ちゃんの前に立ち、不良の男女を睨みつけた。
『金が欲しかったらバイトでもしろよ。あたしの友だちから金とってんじゃねえ』
『ちっ、なんだよてめえ……。ま、ガイジだから見逃してやるか、な?』
『キャハハ、それ、マジウケる』
実際に手を出さないくせに、ああいう言葉は平気で投げつけてくる。子どもっぽい意地の張り方だ。この前まであたしもあちら側だったと思うと、情けなくなる。
『あ、あの、恵ちゃん』
『ん?』
『助けてくれたの?』
『え。あ、ああ。当然じゃないか。それよりも八緒ちゃん、あんなやつらのお願いなんて断っちゃえばいいよ。あいつら見た目は怖いかもしれないけど、手は出してこないやつだから。それで、もしなんかあったら、あたしに相談して、なんとかするから』
『あ、ありがとう』
今思えば……あの時の八緒ちゃんもちょっと変だった。金をたかられてもまったく嫌そうな顔をせず、当然のように金を渡そうとしていた。あたしが助けたときも、なんだか困惑しているような感じがあったし。
そう、まるで学校の先生と同じような態度で、不良たちをなすがままにさせてるような、そんな感じが――。
「今日で恵ちゃんとも、お別れなんだね。寂しく……なるよ」
感情のこもった声が耳を通り抜けて、あたしは隣にいる八緒ちゃんに意識を向けた。
「あたしも寂しいよ。でも八緒ちゃん、たしかにあたしは卒業後に県外の看護学校に行くけど、これでずっとお別れってわけじゃないじゃない。向こうでの生活が落ち着いたら、またここらへんに戻ってくるさ。その時は一緒にごはんでも――」
「戻ってきちゃだめ!」
突然、八緒ちゃんから強い口調の言葉が出てきて、あたしは驚いた。
「恵ちゃんはこれから立派な看護師さんになって、素敵な人生を歩むんでしょ? 私たちにかまってる暇なんてない。どうか今までのことをは忘れて、新しい人生を始めるつもりでチャレンジして」
「う、うん。わかった」
こんな八緒ちゃんは今までに見たことがない。不思議な迫力に圧されて、あたしはうんと言わざるを得なかった。
あたしを送り出すために、発破をかけたのだろうか。でも、これで本当のお別れになるなんて、何よりもあたしが寂しい。八緒ちゃんの連絡先は自宅の固定電話以外わからないけど……それでも、もう会えないなんてことはないはず。そう考えていた。
体育館の中は教室の何倍もの騒がしさだ。パイプ椅子がきちんと並べられているのに、座っている生徒はほとんどいない。無駄にギラギラした袴やドレスを着ているのもいるし、手には酒瓶に缶ビールなどのアルコール、ケンカを始めてる奴らまでいる。
まさに混沌、社会のルールなんてここにはない。窓には黒いカーテンが引かれ、出入り口に厚い紅白の幕が垂れているから、外にこのひどさが漏れることがないのが救いだね。
「続きま――教育いいんか――のすけ様より――祝儀です」
「みなさ――そつぎょ――めでと――います」
いつの間にか卒業式が始まって、先生や偉い人たちが代わる代わる話をしているけど、こんなふうに飛び飛びにしか聞こえない。卒業式の場ですら、この度を超えた騒がしさを先生たちは野放しにしている。
八人分離れた横の席に座っている、八緒ちゃんを見た。八緒ちゃんには聞き取れているのか、たまにお辞儀をしたり、拍手をしている。すぐ隣でリーゼントの男子が強そうな酒をイッキしているけど、全く気にしていないようだ。
あたしはあたしで、もういい加減うんざりしていた。早く卒業証書をもらって、この高校から脱出したい気分だった。それにしてもこいつら、卒業記念品が目当てで来ているんだろうけど、卒業した後はどうするつもりなんだろう。今までみたいな不良をずっと続けるつもりなのか。そんなの、生きてる意味があるって言え――。
「では、これより卒業証書授与式を行います」
その校長先生の声は、やけにはっきりと耳に響いた。
そしてその直後、体育館の照明が落ち、あたりは真っ暗になった。
「うおっ」
「どした?」
「停電か」
今まで騒いでいた奴らも驚いているようだ。少しの間、館内が静まり返る。あたしはこの状況を演出か何かだと思っていたんだけれど――。
ざざざざ。
聞こえてきたのは、何かがざわめくような音。風が吹いて木の葉が揺れる音……よりも、ずいぶん嫌な感じがするものだった。
ざざざざ。
音はだんだん大きくなっていく。次第にあたしの足元から、妙な感覚が伝わってきた。何かが這い回って、あたしの上履きの周りをなでながら、通り過ぎていく、ような。
「うわ――」
「ぎゃ――」
「ひい――」
悲鳴? それにしては短い。徐々に、咳き込むような音や、口に物を詰め込まれたような声にならない声が、暗闇のあちこちから聞こえるようになってきた。
何が始まったの? 足元には何がいるの?
まったくわけがわからず、椅子に座ったまま身動きができずにいた。
「恵ちゃん」
突然聞こえてきた、あたしにとって馴染みのある声。
「や、八緒ちゃん? これは――」
「左眼」
直後、足元にあった不快な感覚が、左足からあたしの体を駆け上り、左の眼の中へ飛び込んできた。
「ひゃあ――」
想像を絶する感覚に、口から飛び出そうとしていた悲鳴が途中で途切れる。左眼の奥を、柔らかい歯ブラシで素早く擦られているみたいだった。大部分をしめる気持ち悪さの中で、かすかに快感も感じられる。次第に気が遠くなり、体中の感覚が無くなって――。
「ではこれにて、卒業式、閉会の挨拶を終了します」
気がついたとき、体育館の中は光が戻っていた。おまけに今は閉会の挨拶が終わったところらしい。
居眠りでもしていたのかと、一瞬思っていたけれど……。
「あれ、え?」
目の前の世界が、いつもと違っていた。左側の景色が、なんていうか広い。見えてる。左眼が見えるようになっている?
あたしは驚いた。だけどその時は、喜びの感情なんて湧いてこなかった。
それよりも異常な光景が、あたり一面に広がっていたから。
先ほどまで好き勝手に騒いでいた不良たちが、影も形もなくなっている。そのかわりに、やつらの着ていた派手な服や、靴や、酒の瓶などが、体育館の床に散乱しているだけだった。
「それでは、残った卒業生の方々は、卒業証書と荷物、そして記念品を持って、速やかに退出してください。それでは、お元気で」
校長先生がそういうと、あたりに疎らな拍手の音が響き渡った。椅子に座っている生徒は、あたしを含めて30人ほどしかいない。そして、いつの間にかあたしの椅子の横には、卒業証書の入った筒、教室に置いてきたはずの荷物、そしてたいして価値のなさそうな、プラスチックの盾の記念品があった。
あたしはしばらく動けなかった。やっとのことで立ち上がり、震える足を抑えながら、急いで出口に向かおうとした。
……そうだ、八緒ちゃん!
退出する前に、かろうじて友だちのことを思い出す。
八緒ちゃんは椅子に座ったままで、顔を前に向け、あたしの方を見ようとしなかった。
だけど、拍手する手は震えていて、その頬には涙が伝っていた。
それから後は、どうやって家まで帰ったのか、まるで覚えていなかった。
今のあたしは看護学校を卒業し、看護師として病院で働いている。
あれから八緒ちゃんとは、一度も会っていない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。