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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

寒がりの短編集

猫と墓石

作者: 寒がり

 月が照る墓石。その上に、黒と白の斑らの猫が一匹、じっと、こちらを伺っている。

 猫はしばらくそうしていたが、私が近寄る様子もないのでやや警戒を解いたのか、欠伸をした。大きな口に、尖った歯が白い。

 そして、気怠げに墓石の上に丸くなると、時折り尻尾を振る。


 もう数歩、歩み寄ってみようかと思っているうちに、猫は散歩でもしようと思い立ったのか、発条のようにしなかやに跳ねて闇の中に消えた。


 それで私は、見渡す限りの墓の中に一人残された。


 再び歩き始める。

 土を靴で踏むサクサクとした足音が暗闇に吸い込まれていく。どこかとても遠くからカンカンカンという踏切の音が聞こえてくる。電車が走っているのだろう。


 いつからこの墓場を歩き続けているのだったか。それはもう忘れた。不思議と腹は減らないし、日が昇る気配もない。恐ろしいともここから出たいとも思わず、ただ、歩き続けている気がする。


 自分は死んだのだろう。いや、死んだら墓の側を歩くのではなくて墓の中にあるべきだ。だとするともうよく分からない。


 それなら、猫の事を考えよう。

 あの柔らかく温かい質量を言いようもなく愛おしいと思う。それが、動いている、例えば、餌を食べている様子を見て、この上なく愛おしく、同時にそれを壊したい衝動に駆られる。猫が食べている肉の塊を土足で踏み潰したら、愛すべき生き物の幸福をこの手で破壊し、取り上げたら、猫はどんな気持ちになるだろう。


 幸福を見ると、決まってそれが壊れるところを想像する。

 それは、壊したいということでは、多分ない。そんな酷いことを実現したいと思う筈がない。ただ、高所にある物体がどれだけの高さにあるか実感するなら、それを落としてみるということなのだと思う。物体の位置エネルギーが運動エネルギーに変換され、それが私の体を貫通してズタボロにする。そういう思考実験だ。


 楽しいとき、今、急に電話が鳴って親しい人の不幸を告げられたら自分はどんな気持ちになるだろうと思う。街中を幸せそうに歩いているカップルの片方が急に倒れたら残された方はどういう気持ちになるだろうと思う。宝くじが当たった人が急にその十倍の借金を負ったらどんな気持ちだろうと思う。あるいは、自分を信頼し安心し切って長椅子でお菓子を食べながら携帯をつついている相手を唐突に何の理由もなく締め殺したら、どんな顔をするだろうか、とか。


 幸福をほとんど無意識に痛みに換算して実感しようとするこの、忌むべき癖、猟奇的とも反倫理的とも言えるこの癖がいつ身についたのかは覚えていない。

 ただ、愛おしい存在とか幸せそうな人とかは、どこか机の縁に置かれたガラス細工みたいな、シャボン玉みたいなそんな感じの張り詰めた今にも壊れそうなものになってしまった。


 そして何より救いがないのは、それは錯覚でも思い込みでもなく、きっと事実だということだ。

 絶対に逃げられない、残り時間もわからない時限爆弾を身体にセットされて歩き続けている。いつ切れるか分からない細い糸をバランスをとりながら渡っている。そう形容することは、きっと、目の前の存在なり状態なり、自分の命なりを表現する上で、むしろ適当な部類だろうから。

 いつ壊れてもおかしくない。


 そういう考え方は損なのだと思う。生者にあるまじき。そう思う。


 墓石、墓石、墓石、墓石、墓石——。

 延々と続く証明の傍を抜けながら、どうしてこうなったのだろうと考える。


 そういえば、墓石の下には遺骨が埋まっている。

 そう思ったとき、火葬場の納骨室の匂いと熱気と、サクサクとした白くて軽い骨を思い出した。あのときの妙な感慨、誰もが遺体に対するのとは少々別の物珍しさのような感覚で遺骨を囲っているときのあの感覚を思い起こした。


 遺骨は物に近い。

 あのとき、人を見る目で遺骨を見ていた人はいなくて、せいぜい人だった特別な物を見ていたという程度だろう。


 遺体は物よりは人に近いはずだ。

 まだ温かいときはより一層、息をしていない以外はその人な感じがする。

 けれど、何かが決定的に人と違う。遺骨は残滓で遺体は抜け殻なんだと思う。

 魂の抜け殻だ。

 魂があるのなら、その魂が抜けていった、生まれていったはずだ。


 人を看取ったときの事を思い出す。

 あの感じがどこか出産に似ていると思ったものだった。

 死のうとしている人に「頑張れ」と言っていいのか分からなかった。頑張れば頑張っただけ苦痛が引き延ばされ、しかも待ち受ける結果には変わりがないのだからこの言葉は違う。それでも、ついそんな言葉が頭に浮かぶのは、その様子が何かを産み落とそうとしているように見えたからかもしれない。


 人という生き物は魂という新たに誕生する生き物の母胎で、短い人もいれば長い人もいるけれども、魂を育んで、それが生まれるときに役割を果たす。『幼年期の終わり』の人類みたいに。

 その何かが人の体から這い出でようと()()()たびに、人は、例の身の置き所のない、上限のない、絶え間ない、誰にもどうにもできない苦痛に喘がなくてはならないのだ。


 そうでないと、死ぬという行為が出産でないと、死ぬ人が救われない。私が死ぬということが無意味になる。あれだけの苦痛の意味は、敗北でなく達成であらねばならない。私が抱え込んでいるのが時限爆弾でなく、私を超える、私が育み送り出す何か尊いものであって欲しい。そうすればこの墓達は戦場に刺さっている剣というより功績を讃える記念碑のような物でありうるはずだ。

 本当のところは分からない。結局、分からない。


 風が吹いて樹々が鳴動する。

 墓石の群れはびくともせず、厳然と連なっていた。

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