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『いきもの』か否か?






「うげっ」

 思わず大きな声をたて、はついは大慌てでいちごの砂糖漬けのつぼに飛びついた。そのつぼには木製の蓋を被せてあるのだが、その蓋がわずかに浮き上がり、本体とのすきまから水分がもれているのだ。これはやってしまったかもしれない。失敗した……。

 フルーツ漬けのつぼは、沢山ある。はついがつくるといって、つぼを用意させたものもあった。それらにはきちんとした陶製の蓋はなく、木製の、ただの板きれのような蓋をのせているか、紙や布を被せて紐で縛っているかだった。

 そのうちのひとつだ。蓋が浮いて、単なるフルーツ漬けとは異なる匂いをさせているのは。

 蓋をつまみあげる。ふわっと、酒臭い香りが強くなる。やらかした。発酵はしているが、してほしいものと方向性が違う。傾けた蓋にくっついた、フルーツ漬け……もとい、果実酒の汁が、手へと流れてくる。


「どうかしたか」

 廊下へ面したアーチから、アヴァランシュが飛び込んできた。女官達がはっと、そちらを見て、ひとりがはついの手から蓋をとった。アヴァランシュは眉間に深い皺を刻んでいる。長い脚ではついの許へとやってくる。

「怪我したのか?」

「え? ああ、ううん」

 頭を振った。手には、いちごの汁がついている。少々粘りのある鮮やかな赤は、ぱっと見て、血と勘違いしてもおかしくはない。

 はついは手を肩の辺りまであげて、アヴァランシュに見せた。「いちご」

「いちご?」

「そう。ちょっと、失敗して」

「なんだ、そうか……」


 ほっと、アヴァランシュは息を吐く。本気で心配していたのか、表情から力がぬけた。彼は女官へ手を振り、手巾を持ってこさせた。女官達は甲斐甲斐しく、はついの手を綺麗にしてくれる。王子殿下は満足げにそれを見て、はついに釘を刺す。「料理人に怪我をされたら、困る。気を付けろよ」

 どうやら、いちいち角の立つことをいわないと気がすまないようだ。はついは彼を睨み、ふんと鼻を鳴らして顔を背けた。






 異世界生活も数週間経つ。アヴァランシュと会話するのも、もう数え切れないくらいの回数になる。だが相変わらず、この男はなににつけ、勘に障ることをいう。はついがむっとしても、いいかえしても、意に介したふうはない。

 そもそも、はついはここに来たくて来た訳ではない。自分の世界をまもってもらっているのは(証拠を見せられたのではないが)納得した。それに自分の命だって惜しい。


 だが、この情況にいまいち現実感がない、というのもまた、そうなのだ。どこかで感覚が麻痺している。恐怖も痺れたようになってしまっていて、このひとにたてつくのは本来()()()ことなのだと頭で理解しているのに、ついくちごたえしている。或いは、つい反抗的な態度をとる。

 おそろしいことをしたとも思えない。友人や親戚と普通に喋っていて、看過できないことをいわれたからいいかえす。腹が立ったから態度で示す。その程度の気持ちでしかない。






「お前、またパンをつくってるのか」

 アヴァランシュはなにも気にしていないようで、朝方はついがこねたパン種がはいっているボウルをのぞく。濡れ布巾を被せてあるから中身は見えないが、香りはする。鼻をひくつかせて匂いを嗅ぎ、彼ははついを見た。「充分うまいのに」

「そうでもない」ぱっと、彼へ目を向けた。「発酵がうまくいかないの。やっぱり、魔法に頼らずにやったほうがいいみたい」

「ふうん?」

 アヴァランシュは語尾を上げ、またボウルへ目を向けた。はついはまだべたつく手を、女官に出してもらった水で洗う。いちごはぶくぶくと発酵し、滓が浮き上がっている。ダスク夫人にたしかめてもらった上で、煮込んでジャムにしたほうが安全だろう。酒精を飛ばしてしまいたい。


「パンの匂いだな。魔法をつかっても、かわらないだろうに」

 アヴァランシュはボウルをはなれ、けれどまだそちらを見ている。はついは頭を振る。時間をすすめる魔法のおかげで、発酵がすぐにすむ……という利点はあるのだが、()()()時間をかけて発酵させたほうがうまくいく気がする。

 気持ちの問題だろうし、違いなんてないのかもしれないけれど、実際そのほうが打率はいい。うまく発酵して、ふっくらふくらんだ、クラムの綺麗な、ぱりっとした表面のパンができる。

「料理人の考えることはわからん」

「わからなくても、いいんでしょ」

 つい、刺々しくいって、はついは眉を寄せる。「時間をすすめたんじゃ、菌がうまく活動できないのかも。温度管理の魔法も同時につかえばいいのかな。イースト菌は結構、繊細だから」

「お前はよく、訳のわからんことをいう」アヴァランシュは片眉を吊り上げる。「前もいっていたな。納豆のことを喋っている時に、なにかとなにかが結合しているとか」

「うん。グルタミン酸……」

 はっとして、口を噤んだ。不意に気付いたのだ。菌。微生物。アヴァランシュ達は、五日に一度しか食事で生きものの命を奪わないと誓っている。微生物は殺してもかまわないのか? 細菌だとか酵母だとかは、生きものにはカウントされないのか?






 結局、はついはそれ以上喋らなかった。アヴァランシュも、口を噤んだはついに喋らせようとはしない。そういう部分、王子殿下は心優しいというのか、鷹揚というのか、躍起になりはしない。

 持つ者の余裕だ、と、はついはそう思う。大きな魔力、好い家柄、高い地位、恵まれた体躯と容姿。はついが「すねた」くらいで、彼は慌てなくていい。これまでなんでも思い通りになってきたのだろう。なら、はついのことだって思い通りになると思っているのだ。

「これ、たべる?」

 びくっとして顔をあげると、紺の髪の青年がにこにこしていた。「こんにちは」

「ああ……こんにちは」

 頷いて、菜園の隅に座ったはついは、ぎこちなく微笑む。青年は、手にした桃を、はついの膝に置いた。「ありがとう」

「熟れてるやつを持ってきたから、すぐに食べて」

 桃を手にとる。たしかにそれは、よく熟れていて、甘い、いい香りがした。さくりとかじって、垂れた果汁を手の甲で拭う。

 傍らには、ボウルを置いてある。また、砂糖漬けや塩漬けにする為にと、野草を摘みに出ていたのだ。女官達ははついを追ってこないし、兵士達ははついを見かけても最敬礼するのがほとんどで、見張られている感じはない。実際、見張りなんてなくても、おそらく逃げられはしない。王宮の奥まったところにあるみたいだから、仮に菜園をぬけだしても、どうにもならない。王宮から外へ出たって、なにができる訳でもなし……。


 桃は香りは最高だけれど、味はさっぱりしていて、甘みはさほどでもなかった。一息に半分ほど食べ、はついは隣に座った青年を見る。

 このしばらく、菜園でたまに顔を合わせるひとだ。兵士らしい格好だが、庭木の手入れをしているらしい。庭師なのだろう。

「これ、どうぞ」

「ありがとう!」

 先程焼いたパンをさしだすと、青年は嬉しそうにそれをうけとって、早速かじった。ぱり、と、かり、の、中間くらいの音をたてて、パンが裂ける。

「……おいしい」

「そう」

「凄くおいしいよ」

 にっこり笑っての言葉は、気持ちが伝わってきた。はついもつられて笑う。おそらく同年代か、少し上だろう青年は、けれど子どもっぽい。あけすけな表情で、言葉も率直だ。


「どうかしたの?」

「ん?」

「ぼんやりしていたから」

 そういわれ、はついは苦笑いで頭を振った。「なんでもない」微生物のことはもう口にしないようにしよう、と考えていただけだ。アヴァランシュだけでなく、女官だとか、兵士にも。誰の口からアヴァランシュに伝わるか、わからない。

 『誓い』なるもののルールは、はついにはいまいちわからない。だが、この間納豆を食べさせた時も、パンを食べさせた時も、アヴァランシュは『罰』をもらわなかった。

 (しゅ)なるものの考えでは微生物は生きものに含まれない、のかもしれないし、アヴァランシュやテンペストが微生物を認識していないから大丈夫なのかもしれない。どちらかがわからない以上、喋らないのが吉だ。口は災いの門、舌禍はごめんである。アヴァランシュは憎たらしいこともあるし、料理人をよその世界からさらってくるこちらのやりかたに腹が立つことはあるけれど、彼がなにも食べられなくて苦しむのは見たくない。それは流石に、可哀相だ。


 はついが口を噤んだからか、青年はちょっと戸惑ったような表情をうかべ、それからにっこりした。

「ねえ、今日、いいことあると思うよ」

「いいこと?」

「うん。いいこと」

 首を傾げる。青年はにこにこしていて、それ以上なにもいわない。はついを見て、楽しげにしているだけだ。

「いいこと……って、なに?」

「へへ。なんでしょう」

 もとの世界へ戻れる、というのは、ありえない。

 はついは少し考え、ここに詰めている兵士が喜びそうなことを口にしてみる。

「もうひとりの殿下が、元気になる、とか?」

 青年は意表を突かれたみたいに、ぎょっとしたあと、肩を震わせて笑った。それはもう、とても面白そうに。






 野草を摘み、はついは厨房へ戻る。

「レディ、殿下からのお届けものです」

「なに?」

 両手で持ち上げられるくらいの缶が、幾つか調理台に置いてある。女官達は笑いさんざめきながら、さっと道をあけた。はついはそちらへ近付いて、缶の中身を覗きこむ。ふわっと、甘い香りがする。「ああ……」


 ココナツオイルだ。精製は甘い。ココナツの香りが激しい。

「殿下が、レディに必要なものだろうと、手配してくださったのだとか」

 アヴァランシュにココナツオイルを求めたのは、数日前だ。時間がかかるかもしれないといっていたが、思っていたよりもはやくに用意してくれた。

 はついは袖をまくり、嬉しそうな女官達を振り返る。「手伝ってもらえる? あなた達、甘いものを食べたくはない?」

 女官達は尚更嬉しそうにした。




 ココナツオイルは湯煎にかけて、溶かす。砂糖と塩、豆乳を加えてまぜる。豆乳は少しずついれる。分離しないようにだ。

 黄色っぽい乳白色の、クリームのような状態になったら、ふるいにかけた小麦粉とアーモンドパウダー、片栗粉、ライ麦粉も加える。よくまぜて、うすくのばし、型に敷く。小豆や大豆を重しにして、焼いた。

 焼き上がったタルト台は、魔法でさましてもらった。時間をすすめてもらったのだ。さめたそれに、豆乳ヨーグルトを水切りして砂糖をまぜたクリームを敷き、酒になってしまったいちご漬けに新鮮ないちごを追加して煮詰めたものを、その上にたっぷりのせる。カスタードクリームでも敷いてしまいたいところだが、アヴァランシュはたまごも牛乳も制限されている。

 最後に、新鮮ないちごをカットして飾り、いちごのタルトができあがった。

「殿下に持っていってもらえる?」

 アヴァランシュとテンペストに、一台ずつ皿へのせる。女官が数人がかりでそれを持っていった。残りのタルトはカットして、一ピースずつ女官のおなかへおさまった。

 ふたきれ、お皿へのせ、はついは外へ出た。あの青年にあげようと思ったのだ。

 だが、あの青年は居なくなっていた。はついはそれに、自分でも驚くくらいがっかりして、肩を落として厨房へ戻った。






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