モンスターから『通り道』をまもる条件
「わたしの権利は?」
唖然としているうちに女官達にひったてられて厨房へ辿り着き、はついはそう喚いた。何番目だか忘れたが、王子だというのに、アヴァランシュもその場に居る。雑然と積み上げられたりんごをとって、しゃくしゃくとかじっていた。どう見ても痛んでいる箇所があるのに、気にせずにかじってしまう。食欲旺盛なようだ。
「それはお前の世界の人間にいうべきだな」
「は」
「俺達が料理人をこちらへつれてくるのは、お前の世界の人間は承知している。これまでだって続いている伝統だから」
「わたし、料理人じゃないし、そんなの知らないけど?」
「王家の人間は知っている筈だ。約束もある」
王家なんてものはない。そういいたかったが、アヴァランシュに理解させるのが難しそうだから、口にしない。要するに、国の中枢にいる人間ならばわかる、ということなのだろう。アヴァランシュはこれを『伝統』だといっている。つまりこれまでも、ほかの世界から料理人を拉致してきたということだ。おまけに、どこの世界もそれを諒承しているらしい。
むかついたが、少し考えればわかることではあった。あの巨大な犬みたいなばけものが来ないようにしてくれるのだから、かわりに人間ひとりくらいさしだすのは容易い。費用対効果だ。何十億と人間が居るなかからたったひとり、それも世界的な著名人でもないただの一般市民をひとりである。モンスターに暴れられて大勢の死者を出す可能性となら、天秤にかけるまでもない。
アヴァランシュは上着の懐から、何製かわからない、まっくろの小さな板をとりだした。「見るか? これが約束の証だ」
「見ません」
言下にいい、はついは袖をまくる。これは、やるしかないのだろう。とっとと料理をして、もとの世界へ帰してもらうのがはやい。文句をいっても料理はできないし、異世界の人間相手で、話が通じない。
料理なら、ある程度はできる。もろもろあって、小学校高学年から炊事を担当していた。好みの違う父と祖母にあわせ、いつも複数のおかずや汁物を用意していたから、手際も多少はいい筈だ。
なんとか袖をまくりあげることに成功し、はついは四辺を見た。オーブンというか、ピザをやくやつというか、そんなようなものがある。女官達が数人がかりで、薪を追加していた。もう火を点いているのだ。くどはみっつ。ひとつには大きな鉄鍋がかかり、なかでぐらぐらと湯がたぎっている。鍋は幾つかあって、壁のフックにひっかけられていた。まないたもだ。大きなものや小さなもの、まるいものなどがあり、どれもフックにひっかけられるように穴が開いている。まっしろい、ふわふわした布巾も、数枚ある。
「わたし以外に、料理をするひとは居ないんですか」
「居ない」
大きな調理台は木製で、きちんと手入れされ、深い飴色につやつやと光っていた。前任者は几帳面なひとだったらしい。調理台の側面までぴかぴかに磨き上げられている。女官達が掃除しているのかもしれないが、いずれにせよここを裁量する誰かは、こういう状態を望んだのだ。几帳面以外の何物でもない。
つくりつけの戸棚は、箸や匙がはいっているのだろう。壁に扉があり、開け放たれていて、外が見えた。外は庭というか、菜園らしい。野菜が植わっている。果樹もあるし、花も見えた。
調理台の上には白い陶製の、円筒形の容器があり、木でできた素っ気ない蓋を外してみると、たっぷりの粗塩がはいっていた。その隣には、形は同じだが淡い緑の釉薬をかけられた容器があって、そちらは布をかけて紐で縛った上で蓋を置いてある。蓋をさかしまにして置き、外した布をその上へ置く。そちらの中身は、茶色い砂糖だ。「これなに? 何糖?」
同じ砂糖でも、原料や製法で味はかわる。味の好みの問題もあるし、調理の時に色や焦げを気にする場合は吟味しなくてはいけない。
「さとうきびからつくられたものだ」
答えたのは女官ではなく、アヴァランシュだった。彼はりんごをひとつ、ぺろりと食べ、今はまだ熟れていそうにないいちじくをかじっている。なにを食べてもおなかを壊さないのだろうか。
「さとうきびからつくられた、何糖」
「砂糖だ」
埒があかないとはこのことだ。はついは王子殿下をうっちゃって、砂糖つぼに指をつっこみ、砂糖をつまみあげる。口に放り込んで、香りや味から、精製の甘い白砂糖だと判断した。茶色いが、ざらめという程結晶が粗くない。味は悪くないのがさいわいだった。
女官がはっとして、どこからか、布包みを運んできた。かちゃかちゃと音がするので予感はしたが、調理台に置かれたそれが開かれ、包丁が出てきた時には、思わずうっと呻いてしまう。どうでもいいような布で適当に、数本の包丁を包んでいたのだ。呻きもする。包丁同士ががちゃがちゃとぶつかるのは、見ていていい気分ではない。
目を逸らすと、積み上げられた食材が見える。大きな箱が幾つか並んでいて、それにも食材がつっこまれていた。縄で縛って梁からぶらさげられているもの、串刺しになって同じようにぶらさがっているものもある。おもに野菜とくだものだが、パン、それにチーズやハムの類も豊富だ。つぼが並んでいるのは、酒か、蜂蜜か、調味料だろうか。
「必要なものがあればなんでも用意する。費用は気にしなくていいぞ。材料はなにをつかってもいい。あいつの食べられるものならば。つまり、動物の命を奪わなければ」
アヴァランシュはいちじくの軸を、ぽいと投げ捨てた。はついはそれを一瞬目で追い、アヴァランシュへ目を戻す。「どこから、命を奪うことになるんですか?」
「肉はだめだ。骨からだしをとるのもいけない。たまごも食べられない。蜂を殺すから蜂蜜もだめ。乳製品も一切だめだ」
「最後の、殺してない気がするんだけど」
「命を掠めとっているからだめだと主が判断してる。『誓った』頃には簡単なことだと思ってたが、厳密にやらないといけないんで困ってる。ああ、動物の骨を肥料にした野菜は問題ない。くだものも。そんなところだ。まだなにか説明が要るか」
疲れたような声に、ふと、年齢を感じた。はついはそれが気にかかって、眉を寄せながらいった。
「あなた幾歳? お兄さんは?」
「二十六。テンペストもそうだ。俺達はふたごだから」
「ええ? それで、料理のひとつもできないの?」
アヴァランシュは眉間に皺をつくり、まじまじとはついを見た。怒らせたかと思ったが、違う。アヴァランシュは肩をすくめた。「これでも、俺はできるほうだよ。粥と、とりのスープならつくれる。それだけだけど」
どことなく打ちひしがれたような、傷付いたような声だ。はついはそれに驚いて、それ以上はいいつのらない。かわりにまた、四辺を見て、つぼへと近付いていく。アヴァランシュがついてきたのは、逃げられないようにという警戒だろうか。距離をとりたかったのに。
つぼの蓋に手をかけた。そこそこ重たいそれを、持ち上げる。アヴァランシュがいいわけみたいに、もそもそと喋る。
「魔力のある人間は、料理はできない。粥だとか、それくらいならできるが、それ以外は無理だ。そう定められている」
そりゃ、料理のできない人間は居るだろう。はついも、祖母や父を間近で見てきたから、それくらいはわかっている。魔力のある人間にはできない、というのはよくわからないが、魔力とやらを体のなかでつくったり、魔法とやらをつかったりするのに、脳をつかうのだとしたら、普通は料理につかう部分が割り当てられている可能性もあった。それなら、魔力のある人間は軒並み料理ができない、というのも、わからないでもない。
お父さん達、どうしてるんだろう。
ちゃんとしたご飯を食べているといいのだが、期待はできない。それくらい、壊滅的に、どうしても料理ができないふたりなのだ。せめて、カップ麺じゃなく、お弁当を買ってきてほしい。スーパーに行けばお弁当くらい、幾らでもある。しかも安い。カップ麺はお酒や甘いお菓子みたいなもので、嗜好品だ。食べるなとはいわないが、食事ではない。
「おい、お前」
つぼの中身は砂糖漬けだった。いちごが大量に投入され、漬け込まれている。表面にあくがういているし、発酵してしゅわしゅわと泡が立っていた。酒にはなっていない。いちごのいい香りがする。「お前は幾歳なんだ。訊いてなかった」
「二十二」
「同じくらいかと思った」
老成している、というのはよくいわれる。だからはついはそれは笑って流し、それよりももっと重要な調査を続けた。すべてのつぼを片っ端から開けてみたのだ。
砂糖漬け。砂糖漬け。蜂蜜。白下らしきもの。水飴。砂糖漬け。レモンの塩漬け。梅漬け。砂糖漬け。
「ちょっと、味噌とか醤油は? ないの?」
「お前もその話か」アヴァランシュはうんざり顔だ。「前任者もそれをいってた。ない」
「は?」
「ないといってる。それはお前の世界の食材で、こちらの世界にはない。つくりかたも知らない。ああ、酒と酢はあるぞ。それで充分だろう?」
充分な訳があるか、と怒鳴りたいのをこらえ、はついはぐるぐると思考を巡らせる。味噌も醤油もないなんて、ふざけてる。
きょろきょろしていると、パンが目にはいった。あまり、ふっくら、しっとりとしたふうには見えない。近付いていって、手にとる。ごわごわした手触りだ。あまりふくらんでいない、発酵のうまくいっていないパンだった。ところが、発酵がうまくいっているもののほうがめずらしい。魔力があると料理はできない、というのは、本当なのだろうか。
「とっとと調理してくれ。テンペストはもうひと月も、うすい粥しか食べてないし、本当なら交代で維持する『通り道』は二月も俺が管理してる。俺は魔力がなくなって死ぬかもしれない」
「……魔法って、わたしもつかえるの?」
「無理だ。お前は他人の魔力で体調を崩すくらい、魔力とは無縁。だからこそ料理ができる」
「料理につかえる魔法ってないの」
女官を振り返る。彼女らは目を交わし、やっぱり一番小柄なのがいった。
「温度を操る魔法と、湿度を操る魔法と、時間をすすめる魔法なら、ここにつかえる者がおります。重たいものを運べる者も」
「時間はすすめられるが、戻せないぞ。それは覚えておけ。壊れたものをもとに戻すとか、腐ったものを食べ頃にするとか、そういうことはできない」
アヴァランシュがいい、はついは手にしたパンを軽くかかげる。
「ずっとお粥だったなら、あんまり急に沢山食べてもよくないでしょ。たまご……はだめだっけ。じゃあ、フルーツたっぷりのクワスでもどうかな」
意味がわからなかったか、アヴァランシュは眉を寄せた。
大きな鍋はまだ幾らもあって、それをひとつ、くどにかけた。水を注いで、がらすのジャグをいれる。一応、煮沸殺菌したい。
はついは調理道具の棚からとりだした金串で、簡単に髪をまとめ、手を洗いにかかった。水道がないのは不便だが、慣れるしかない。女官が水を出して、手をすすいでくれる。
ジャグをいれたのとは別の、湯がぐらぐらしている鍋に、布巾をいれた。
別の鍋に、大豆や黒豆を洗っていれ、水を注ぐ。また別の鍋には、よく洗った米をいれ、浸水させた。「これ、時間すすめて。大豆はふた晩くらい。お米はひと晩くらい」
「かしこまりました」
女官が請け負ってくれる。はついは戸棚から、丁度いい、すのこのようなものでできた大きくて平たい箱をふたつとりだす。熱い湯をかけて一応の殺菌をし、それに、湯からひきあげた布巾を魔法で乾かしてもらい、敷く。殺菌できる魔法があったらいいのに。
「豆のスープと粥か?」
いやそうにアヴァランシュがいい、はついは頭を振る。「これは別の料理。っていうか、調味料っていうか。どれだけお金がかかってもいいんでしょ?」
「ああ」
「じゃ、数を打とうかな」
はついがなにをいったのか、わからなかったようだ。そういえば、言葉はどうして通じるのだろう。もともと同じ世界だったから通じるのか、それとも彼らが自分にあわせてくれているのか。
ジャグがゆがけたので、はついは考えるのを辞めた。
時間をすすめた鍋を火にかけ、大豆をゆがく。米はざるにあげて水を切り、蒸しにかかった。女官に見ているように命じると、一も二もなく応じるので、少々気味が悪いくらいだ。見も知らぬ小娘に顎でつかわれて、不快ではないのかと思ったが、こちらの世界の人間にしてみれば『未知のテクノロジー』である料理をこなす人間だ。畏敬の念のようなものを抱かれているのかもしれない。
やはり時間をすすめて、ほどよくさめたジャグに、千切ったライ麦パンと刻んだりんご、葡萄をいれた。水と砂糖を加え、かきまぜて砂糖を溶かす。うろ覚えだから上手にできるかはわからないが、できなくてもやりなおせばいい。
「これ、一日、時間をすすめて」
女官にジャグを任せて、鍋の様子を見た。「あ、すり鉢ってある?」
「ございます。用意いたしましょうか」
「お願いします」
女官がふたりがかりで、棚からすり鉢とすりこぎをとりだした。かなり大きなものだ。
時間のすすんだジャグに匙をつっこみ、まぜて、ひと口味を見る。「うーん、もう一日」
「はい」
はついは首を伸ばすようにして、庭への扉を見た。そちらへ向かう。「おい?」アヴァランシュがこちらへ手を伸ばす。腕を掴まれ、停まった。
「逃げても無駄だぞ」
「ちょっとほしいものがあるだけ」
「いえ。とりに行かせる」
「自分でとる」
アヴァランシュの腕を振り解き、ざるを手にして、外へ出る。彼は溜め息を吐きながら追ってきた。
菜園というか、畑というか、庭というか、果樹園というか……とりあえずそこには、沢山の植物が植わっていた。アヴァランシュとテンペストのふたごは、『誓い』によって動物性の食品を制限しているらしい。こういうふうに新鮮な植物を用意しておくのは、当然といえば当然だ。
「なにをさがしている」
「食べられるもの」
「なんだ、それは?」
アヴァランシュは不思議そうな顔だ。「前の料理人は、お前みたいにいい加減じゃなかった。必要なものを決めて料理してたぞ」
あっそ、くらいしかいいようがないので、なにもいわない。感心なことに、たんぽぽや赤詰草が沢山生えていた。雑草なんていわれてひっこぬかれてしまうことも多いが、役に立つし可愛い植物だ。すぎなもあったので、遠慮なく千切った。節みたいなのがあってそこで千切れてしまうので、駆除の難しい植物である。
ゆすらやいくりもある。「うわ最高」まだ若いが、きゅうりもあった。表面に白っぽく、粉が吹いている。それらや、口にいれても大丈夫なものを、手当たり次第掴みとってはざるへいれていく。
踵を返すと、アヴァランシュがほっとした顔になった。本気で、逃げるのではないかとおそれていたらしい。
大豆は湯のなかで踊っている。ひと粒おたまで掬い上げて、指で潰してみた。「うん、おっけー」
通じなかったか、女官達はうろうろして、手に手に道具を持って戻ってきた。なにかの道具を要求したと思われたようだ。
はついは苦笑いして、指で潰れるくらいやわらかく煮えた大豆を把手のついたざるで掬い、すり鉢へ移す。「これ、すりつぶして。完全に」
力自慢らしい女官がうけおってくれた。そちらは彼女に任せ、クワスの様子を見た。
「うん。いいみたい」
しゅわしゅわと泡が立っている。すっぱくて甘い。ちょっと甘すぎる気もするが、飲めないことはなかった。小さめのボウルへ移し、ぶどうを追加して、デザートのようにしてみた。
続いて、米が蒸し上がったかどうかを確認する。蒸した米は、うるち米でももっちりとして、弾力がある。食べられないわけではないし、あんばいがいいところをとりのけた。手に塩をつけ、一口大に握っておく。
手を洗い、大根を洗っていちょう切りにし、ボウルにいれた。塩をしてよく揉み込む。時間をすすめてもらい、あがった水を捨てた。大根をしっかりしぼって、砂糖、酢、塩を加える。大根の甘酢漬けだ。
クワスのボウル、お握りをいれたお皿、大根の甘酢漬けのお皿をお盆に盛った。アヴァランシュを振り返る。
「はい」
「あ?」
「これ、ご飯」
アヴァランシュは面喰らったらしい。女官がお盆を手にし、お辞儀して出ていった。アヴァランシュはそれを目で追い、一度はついを見て、結局女官を追う。礼はいわれなかった。
一食つくれば終わり、ではないらしい。『誓い』を破ったはじを雪ぐまで、とかなんとか、アヴァランシュがいっていた。へたをしたら数ヶ月かかるかもしれない。その間に何食もつくるのだから、味噌や醤油はないと困る。
時間をすすめる魔法なんて便利なものがあって、助かった。モンスターの脅威にさらされても魔法をとった人間が居たのだから、そりゃあ役立つものなのだ。火や水を出せるし、乾燥もお手のものである。それなのにどうして料理ができないのか不思議でたまらないが、やはり、脳のリソースを魔法に割いているからだろうか。
また、大豆と米を水に浸し、時間をすすめてもらって、大豆はゆがき、米は炊く。女官がすりつぶした大豆をまるめ、すのこの上に置いていく。もう片方のすのこには、ご飯をひろげる。ご飯の上に、きゅうりを半分に切ったものや花をのせた。それらは女官に頼んで、外へ運び出してもらう。その上で、時間をすすめてもらった。
うっと、女官達から呻きがもれる。当然だ。大豆はかびが花盛りである。だが、先程の説明が事実なら、この世界ははついがもと居た世界と、もともとは同じだった。ということは、麹菌だってどこかには居る。それを捕まえる為には、こういう工作がいい筈だ。
さいわい、ご飯はうまい具合にいった。きゅうりの表面の酵母が繁殖してくれている。花の酵母も作用したらしい。麹には見えないものの、それらしいものにはなっている。
数打ちゃ当たる、なのだ。大豆はひと玉ずつ、用意させた別のつぼにいれ、ゆがいてすりつぶした大豆と、塩を加えた。更に、半分にはご飯も加えた。
麹もどきはやはりつぼにいれ、塩水を足しておく。一部はとりわけて、小麦粉と砂糖、水をまぜておいた。失敗してもいいそうだから、こわくはない。そもそも、異世界に来たとか、料理をしろとか、そんな話に現実感はない。それもあって、こわさを感じていないらしい。
「時間をすすめて」
「あのう、かびが生えたものは、食べられないのでは?」
「食べていいか悪いか、わからないから、時間をすすめて確認する」
それで納得したようだ。女官は顔色を悪くしているが、つぼの時間をすすめてくれた。
結果からいえば、打率は五割くらいだった。舌を刺すようなものは吐き出し、どう考えても味噌の味がするものを残したら、半分くらいはうまくいっていたのだ。完全に運だけれど、麹がないのだから仕方がないとはついは開き直った。そもそも麹は、大昔に人間が自然のなかから捕まえたものだ。やってできないことはない……筈。麴屋さんができる前から麹は存在しているのだ。空中かなんかに居るそれを捕まえて、どうにかするしかない。
醤油は、どういう訳か、味噌よりもうまくいった。頻繁に魔法を中断して、何度もかきまぜたのもきいたかもしれない。塩気がまろやかな、随分こくのある味になった。一部はもう少し時間をすすめ、更に熟成させる。煮沸消毒した容器に、さらしとざるでこして移し、湯煎で発酵を停める。
ただ、味噌よりはうまくいったといっても、三割から四割程は塩からくて苦い、よくわからないものになってしまっている。酒ともなんとなく違う。酵母がかびなど、人間にはよくない菌に負けたのだろう。
甘くなるかな、と思った、小麦粉などをまぜこんだものは、甘みがしつこい、酒のようなものに変化した。みりんがわりにつかえそうだ。
何度も味見をしては、これはだめ、これは捨てて、これは大丈夫、と判断するはついに、女官達は顔を見合わせ、ひとりがさーっと走っていった。すぐに、少々歳のいった女性をつれて戻ってくる。
ふっくらふくよかで、白人らしき顔立ちをしている。身長は、150㎝もないだろう。ナイトキャップみたいな、布製の帽子で頭を包んでいるが、くるくるした濃い金髪がはみ出していた。淡いピンクのドレスに白いエプロンを掛けている。
女性ははついに気付くと、大仰なお辞儀をした。「まあ、まあ、レディ。お目にかかれて光栄です」
「こちら、ダスク夫人です」
女官のひとりが、戸惑い顔のはついにいう。「毒かそうでないかを見ぬく魔法をつかえるかたです。殿下がたの召し上がるものを調べる係のかたの、ひとりですわ」
「ああ……じゃあ、これが大丈夫か、調べてくれるの?」
女官が頷いた。
ダスク夫人の「毒味」は、実に単純明快な方法だった。やっていることははついとさほどかわらない。ひたすら、少しずつ食べて、いいか悪いか判断している。魔法で、というけれど、魔法らしい雰囲気はなかった。
「あら、これは、とてもおいしいですね」
できあがった味噌を食べ、夫人はにっこりした。はついもつられて笑う。「あんまりおいしくないんです。おいしい味噌は、もっとしっかりした味で、こくもあります。これは少し軽薄です、味が」
「そうですの? なんだか、次々食べたくなるような味ですのに」
やたらと誉めてもらえたが、こちらの世界のひと達は口が肥えていないから、なんでもおいしいのかもしれない。実際のところ、味噌はどれも、味噌ではあるが今ひとつなのだ。
「問題ございません」
はついがつくったあらゆるものを調べ、ダスク夫人は優雅に手巾で口許を拭った。食べても大丈夫だということだ。女官達があからさまにほっとする。あの花盛りのかびを見たら、そりゃあおそれる。ひまなので、女官にあれこれ質問していたはついは、ダスク夫人に小さくお辞儀し、礼をいった。
女官達はいろいろと教えてくれた。『誓い』は相当、神聖なものらしい。なかには、一生液体しか口にしないとか、アヴァランシュ達とは反対にある日数は植物を口にしないとか、そういう誓いを立てた人間も居るそうだ。『誓い』は難しければ難しいほど、ひきかえに得られるものが大きい。アヴァランシュ達はもともと魔力が強いが、『誓い』をたてて以降は数倍に魔力がふくれあがっているそうだ。たしかに、動物性のものをいれた料理は、ある意味楽だ。肉なんて塩をして焼いてしまえば、充分においしい。その辺を鑑みての『誓い』の難易度なのだろう。
検査のしようもないから困ると思っていたが、毒味係が居てくれて助かった。しかしふと、心配になって、はついはいう。
「あのー、後から病気になるとか、そういうことはないですか?」
「ございませんわ。悪いものかどうか、わたくし、わかりますから。量をすごすのがよくないというのはわかりませんけれど、後々毒になる場合でもわかります。酒と一緒に食べてはならないとか、そういうのもわかりますのよ」
やけに自信満々だ。彼女のいうことを信じるしかあるまい。自分の舌を信じるなら、すでに大丈夫だと結論している。味は味噌や醤油だからだ。うすっぺらい、深みのない味か、しつこくて軽やかさに欠ける味か、どちらかだとはついには思えるけれど、調味料としてつかえることはつかえるだろう。
ほっと息を吐いて、はついはつぼを見遣る。「じゃあ、大丈夫なやつだけ、なかに運び込んでもらえますか。あとは燃やしてください」
いいながら、先に厨房へ戻った。ぐらぐらしているお湯(前任者が、日中はひとつだけ、ずっとお湯をわかしていたらしい。皿洗いなどにつかっていたそうだ。はついが来ると聴いて、女官達が用意した)に藁をつけ、消毒したら、ゆがいた大豆をいれて包む。放っておけば納豆になってくれる。これは、空中から麹や酵母をさがしだそうとするより、余程安全で確実な手段である。藁には納豆菌が居るものだ。
「ダスク夫人、ここでなにを?」
顔をあげると、アヴァランシュが歩いてくる。
「こちらのお嬢さんがつくったものを調べていたのです、殿下」
「成程」
アヴァランシュはじろじろと、はついを見ている。「なにか?」
「いや、主の思し召しは正しかった。テンペストの喜びようを見せたかったくらいだ。久々に満足したらしい。すべて食べた。俺もお相伴にあずかったが、うまかった」
「それは、よかったです」
「ああ。お前、まだ二十二なんだろう。あと三十年は働いてもらえるな」
「……は?」
アヴァランシュは顎を撫でる。手袋はなくて、手に傷痕があるのが見えた。「なにを驚く。前任者は十年、その前は二十年勤めた。お前は若いから、あと三十年はかたい。もっと長く働けるかもしれん。期待してるぞ」
「ちょっと、まって、誓いとやらのなんちゃらをどうにかしたら、帰してもらえるんじゃないの?」
「ばかな」
アヴァランシュは鼻を鳴らした。ばかにしたような顔だ。
「そんなことはありえない。折角の料理人をどうして手放す。お前には料理をつくりつづけてもらう」
「横暴すぎる!」
悲鳴のような声が出たが、王子殿下は平然としていた。ぶるぶる震えるはついをひややかに見下ろしている。
「主がほかの世界から人間をつれてくることをゆるすのは、数十年に一度だ。前任者がここを出ていってから俺達は五年も我慢した。一度も料理人を得ずに『通り道』をまもっているきょうだいも居る。俺達は、テンペストのことがあったから何度も作物や酒を奉納して、なんとか主のゆるしを戴いたんだ。帰してやってもいいし、料理をしたくないならしないでもいいが、かわりのやつが来るまで俺達はお前の世界をまもらないからな」
頑なで、きりりとつきさすような口調だった。はついは口を開け、声も出ない。自分がここで折れなければ、自分の世界に被害が出る。あの、巨大な犬みたいなのが暴れる。あれに嚙みつかれたら、へたをしたら死んでしまうだろう。しかもあれらは、魔力がないと倒せない。はついの世界の人間には倒せないのだ。
自己犠牲とか、そういう話ではない。自分の家族が傷付くかもしれないと思ったら、結局は頷いていた。奥歯を嚙みしめて。
アヴァランシュは満足げに微笑んで、大きく頷く。
「それでいい。心配しなくても、モンスターからはまもってやるし、料理をしてくれれば不自由はさせない。子どもがほしいなら、俺かテンペストが結婚してやってもいいぞ」
あんまりにも失礼なものいいに、はついはまた、大口を開けた。