『誓い』を破ってしまった王子の為に召喚された料理人
どこかに投げ出された。痛みでそれはわかった。
はついはごろごろと転がり、反転して起き上がる。腹部を強打した。痛みで呼吸ができない。涙で視野が歪む。頭も打ったのか、そちらも痛い。
唸り声のような、けれど非常識に大きな音が間近でした。驚きに体を硬直させるはついを、誰かがひっぱって、放り投げる。「余計なものを呼び寄せた!」
張りのある、若い男性らしき声だ。足音が複数、周囲でなにかが走りまわっている。
地面に手をつくと、沈んでいくみたいな不快な眩暈を覚える。はついは吐きそうになりながら上体を起こし、逃げようと考える。直感が、感覚が、逃げろといっていた。逃げないとやばいと。なにか危険があると。
目を開けると、巨大な犬が二頭居た。片方が少し大きく、もう片方は片耳が欠けている。そいつらは牙をむきだし、よだれを滴らせ、こちらへ向かってくる。「だめ」
反射的に両手を前に出す。そんなことをしても意味はなく、耳の欠けたほうが大口を開けて飛びかかってきた。
その時だ。はついの鼻先に、ぬっと、黒いなにかがあらわれた。
びくっとして上を向き、背の高い男性が自分を庇うように立っているとわかった。頑丈そうな布でできた黒い上下は、どこかの軍服か、さもなくば王族みたいな造りをしていた。白いマントが肩から地面まで到達している。右手には棒きれを――いや、金属製らしい棒を持っている。反射板のついたポールみたいだと思ったが、そんなものを持ち歩いている人間が居る訳はない。なにか別のもの、もっと穏当なものを見間違えたのだろう。
そんなことはどうでもいいのに、考えるのをとめられない。男性が棒を振りかぶる。いや、棒じゃない。剣だ。
剣?
振り下ろされた剣は犬にあたり、犬はもんどり打って倒れる。だが、分厚い毛皮で裂傷は避けたようだ。血は見えない。地面を転がって起き上がり、咽の奥で唸りながらもう一度走ってくる。男性がもう一度剣を振り上げると、同じような――しかし、明らかに男性ほどはお金のかかっていない――格好の人間が数人、どこからか走ってくる。はついの前に立っている。彼らが来た途端、頭痛が増した。
顔を背け、吐いた後、はついは気を失った。
「つまり、ここは異世界ってこと?」
ベッドの上、頭痛をこらえるはついに、医師だという白髪の男性は頷いた。よく日にあたり、風にさらされているらしく、なめし革のような肌をしている。背筋のぴんと伸びたご老人だ。白髪ではなくて銀髪かもしれない、と思ったが、違いは判然としない。
老医師はひげをしごいて、一歩退く。傍らに控えた助手に、診察に用いていた筒(聴診器だ)を渡した。ついさっきまで自信満々で診察し、助手達になにかを持ってこさせたり片付けさせたりしていたのに、今は申し訳なげに目を泳がせている。
はついはがんがん痛む頭をおさえ、積み上げられたクッションに身を預けた。はついがつかうのには少し大きなベッドで、ごわごわした濃い紫色のブランケットが数枚、体の上にかけられていた。開け放たれた窓から風が吹き込み、ゆすらのような香りを運んでくる。高い天井は、お椀を伏せたような形をしており、網のようなものがかかっていて、そこに大きな白い花が散らしてあった。そちらからは、甘い匂いがする。ルームフレグランスなのだろうか。これでベッドに天蓋がついていたら、童話の世界へ迷い込んだと勘違いするかもしれない。
額を撫でると、右手の薬指にまいてある絆創膏がよじれて、外れそうになっているのに気付いた。随分汚れているのに、誰もそれをはがして処分しようとしなかったらしい。
老医師が話してくれたことが頭のなかで渦をまいている。ただ、それを理解することは、心情的に難しい。ごく単純で、明快な言葉をつかってくれたから、それ以外に解釈のしようがない内容だったけれど、それでも。
「わたしは『世界学』は専門外なのです、レディ。しかし、まだあなたの体が魔力に慣れていないので、治療をするのに最低限必要な人間しかここへいれられない。殿下は急いでほしいようでしたが、こればかりはどうしようもございません。ですから、わたしのような門外漢が説明さしあげました」老医師が助手に身振りで指示すると、助手はお辞儀して出ていった。「先程も申しましたが、ここはあなたの生まれた世界とは別の世界で、あなたはほとんどもとの世界へ戻る見込みがない。とりあえずそれだけ承知して戴いて、あとは体調が整ってからのほうが宜しいのでは?」
もとの世界へは戻れないって話を、あとまわしにしろって? それほど体調が悪いの?
抗議したい気分だったが、彼のいっていることを深く考えたくもない。異世界だとか、もとの世界へ戻れないとか、そういうのは頭痛を酷くした。多分に精神的なものだろう。
なんにせよ、今詳細を聴いたところで、理解できる自信はない。だからはついは、吐き気をこらえながら老医師に頷いて、顔にかかる髪を乱暴に払いのける。駈け戻ってきた老医師の助手はお盆を持っていて、その上には妙な匂いの液体が注がれたマグがあった。いやな予感がする。
「お薬をどうぞ、レディ」
いらついて、はついは右手薬指から絆創膏をむしりとった。
三日後、頭痛がなんとかおさまったはついは、浴槽にたっぷりたまったお湯と、やけに大きくてでこぼこしたせっけん、それから素材がいまいちわからない布で、垢を落とした。もう入浴してもいいがどうか、と老医師にいわれ、一も二もなくお風呂にはいりたいと答えたのだ。
『女官』なる女性達が、お手伝いいたします、といってきたのだが、断ってひとりでなんとかした。五体満足でなんの障碍もないのだから、風呂くらい自分ひとりでなんとでもなる。
用意されていたワンピースのような下着を身につけ、その上にしっかりした生地の、やはりワンピースを着る。どちらも丈は長く、どうあがいても床をかすかに撫でた。爪先立ちを続けていればなんとかなったかもしれないが、バレリーナではないのだ。あきらめて、裾で床掃除をすることにした。
それで終わりかと思ったのだが、コルセットのようなものまで装着させられる。やけにかたい素材でできていて、頑丈そうだ。あまり快適なものではないが、安全の為に必要だそうだ。その単語で、現実か夢かはっきりしない巨大な犬のことを思い出し、はついはぶるっと震えた。
「あの……なんか、危ないものとかあるんですか?」
「モンスターがあらわれるかもしれませんから」
『女官』は全員顔が似ていて、区別がつかない。見たところ一番小柄なのがそういい、残りが頷いた。モンスター。あの犬のことか。
「腹を割かれたら、ねえ」
「腕のいいお医者さまでも、ねえ」
それ以上聴きたくはないので、はついは数回頷く。そうすると、彼女らは首尾よく黙ってくれた。
三日寝起きした部屋へ戻ると、嘘みたいな色の髪をした男性が居た。
黒い上下と白い、ひきずる丈のマントを見て、犬からまもってくれたひとだとわかる。あの時は気付かなかったが、彼の頭は非常に太い縞模様になっていた。白と黒。着ているものと同じだ。右耳の辺りは白い。右前髪は黒い。左前髪は白い。そんなふうに、交互に白と黒が、ほとんどきっかり同じ感覚で配置されていた。余程てまひまをかけて色をぬいたのか、染めたのか。
彫りが深く、人種は判然としない。何人といわれても頷ける。オリーブ色の肌で、はついを見る目は猛禽類を連想させた。誰かがそんなふうにつくったみたいに、非常に整った顔だ。二十五・六歳くらいだろうか。立ち姿や肌の質感に若々しさはあるものの、軽薄な感じや下品さはひと欠片とてなく、寧ろ厳格な印象を覚えた。気品といえばいいのだろうか。尊大な感じがする、ともいえる。
つい、お辞儀をする。あちらは目をうっすら細め、はついから顔を背けた。親しみを感じる仕種ではないし、少々無礼にも思えたので、はついはわずかに眉間に皺を寄せる。やはり、尊大だ。
彼の視線の先には、今度は老医師が立っている。ひげをしごく老医師は、手にした紙を助手へ渡す。
「もういいのか?」
「はい殿下。仕事をしてもらう分には困らないでしょう」
仕事? 仕事ってなに?
老医師が手を叩くと、助手がマグを持ってきた。匂いは妙だが味はほぼない、あの薬だ。さしだされたマグをうけとってから悔やんだが、どうにもならない。この三日で慣れたそれをのみほすと、助手ははついの手からマグをさっととりさる。
殿下、と呼ばれた男は、斜めにこちらへ向き、横目ではついを見る。
「名は?」
「はい?」
なにをいわれたかわからず、ききかえすと、老医師がごほんと咳払いした。「殿下」
「なんだ、無礼だとでも?」
「レディ、こちらはアヴァランシュ殿下。我が国の第三王子でいらっしゃいます」
「ランチでいい。みんなそう呼ぶ」
そういって、アヴァランシュは顔を背けた。「名はもういい。早速仕事にとりかかってもらいたい」
「あの?」
不躾というか、ぶっきらぼうなものいいに、かちんときた。はついは成る丈声が尖らぬように注意しながら、いう。
「仕事って、なんですか」
「説明してないのか?」
アヴァランシュに睨み付けられ、老医師が肩をすくめた。「わたしは門外漢です」
「貴様がここに誰も寄せ付けるなといった。だから今日まで、貴様達しかここへはいれなかった。女官さえも」
「魔力でお加減が悪かったのです」むっとした口調だ。「殿下のように魔力の強いかたが近寄っても問題ない状態にまで治療できたことを、誉めて戴きたいくらいですな」
殿下はわかりやすく不機嫌になったが、老医師を責めるのは筋違いだと考えたらしい。はついへ目を戻すと、大きく息を吐いた。
「では俺が説明しよう。これでも『世界学』の先生とは議論を交わしたこともある」
ふん、と鼻を鳴らし、アヴァランシュは形のいい腕を組む。よくよく見てみれば、腰の左側には剣がある。犬を思い出して、はついはまた、ぶるっと震えた。
「かつてひとつだった世界は、数千年前に複数に分かれた。それが正確に幾つの世界になったかは学者でもわからない。滅んでしまった世界がある所為だ。今どれだけの世界があるかはわかっている。この世界は『大元』になった世界だ。かつてひとつだった世界、その姿を色濃く残している。主がそう定められた。我らがそう望んだから」
なにかを諳んじるような調子だ。どこか投げやりで、はついは顔をしかめ、遮る。「ちょっと待って。しゅって?」
「主は主だ。世界を分けた。我らよりももっと力のあるなにか、我らを消すことなど造作のないなにか」
後半は、先程までとは少々違う声音だ。実感がこもっている。
アヴァランシュは実に面倒そうに、顎をさっと撫でた。長く、形のいい腕をしている。手もそうだ。まっしろな手袋に包まれた指が長い。あの白さを維持しないといけないのだとしたら、洗濯をする人間に同情する。彼は自分で洗濯するのだろうか。ああいった口のききかたをする人間が自分で洗濯するところを想像すると、どことなく滑稽だ。
「お前、俺の不備を指摘したな。説明が不充分だった」平然といいはなち、続ける。「主は世界をつくった。その後、つけあがった人間の願いを叶えられた。モンスターを消してほしいと。モンスターはわかるだろう。喉笛を喰いちぎられるところだったんだから?」アヴァランシュは肩を小さくすくめる。「主は交換条件を出した。モンスターが居なくなると、魔法は消える。それでいいといった人間達の為に主は世界を分け、見かけもなにもほとんど同じだが魔法もモンスターも存在しない世界に、魔法の力を失った者達を移り住ませた。彼らは魔法やモンスターについての記憶も封じられた。モンスターを覚えていても意味はないし、魔法を覚えていたら再びほしがるかもしれない。魔法は便利なものだから。そして、魔法を持つ世界と持たぬ世界、相互に助け合うように戒められた。我らは魔法を失いたくなかった臆病者達の末裔、お前達は勇敢か愚かかわからん人間達の末裔という訳だ」
単語は刺々しいが、感情のこもっていない声で、やはりなにかを諳んじているように思えた。少なくとも、アヴァランシュがそう思っているようには聴こえない。
アヴァランシュはまた、腕を組む。
「主は少々うっかりしたところがあり、魔法を持たぬ世界の者達は俺達を忘れた。かつて自分達が魔法のある世界から分裂したことを都合よく忘れたのだ。そして数百年経ち、厄介なことに世界を『渡れる』者があらわれた。もともと同じ世界だから、位相は同じだと学者はいう。複数の薄皮のような世界が重なっていて、それを行き来することは案外簡単なのだそうだ。とはいえ人間がそれをすると、膨大な魔力をつかうし、生きて帰れるかもわからん。途中でばらばらになってしまったりな。主の思し召しである『戒め』によって呼び出された場合はその心配はないが。しかし愚か者はいつの時代にも居るもので、別の世界に行っては戻る者が居た。そして、我らは割を喰ったことを痛感した」
老医師が咳払いしたが、アヴァランシュは訂正しない。
「魔法はなくとも火を点け、水を出し、灯を手にいれる人間達を見たからな。だが、モンスターは魔力がなくては倒せない」
「どうして」
思わず訊く。アヴァランシュは質問されても不機嫌にはならず、答えてくれた。「主に訊け。そのように定められているからそうだ。それ以上にいいようはない。モンスターは魔力を持った人間でしか倒せない。油では火を消せないのと同じだと考えろ」
つまりそういう仕組みになっている、ということらしい。それ以上は追及しても仕方ないし、なにか理屈があるとしてもはついにはわからないことだから、口を噤んだ。
「我ら一族はこの国では一番魔力が強い。その為、日々モンスター退治に駈けずりまわっている。俺はこの世界の人間をまもるのも役目のひとつだが、お前の世界をまもるのも役目だ。俺だけじゃないが」
意味がわからない。反応できずに居ると、アヴァランシュはまた、息を吐いた。
「モンスターも世界を『渡れる』。お前達の目には扉に見えるところを通ってな。俺達にはなにも見えない。あるかもしれないと感じるだけだ。自力でつくったものなら魔力を喰うからわかる。『通り道』はあらわれたり消えたりする。モンスターは愚か者ばかりだから、そこを通ってお前の世界にも流れ込む。大量に」
寸の間考え、さっと血の気がひいた。あの犬が大量に……。
老医師が咳払いした。
「しかし、そうならぬように殿下はモンスターを退治していらっしゃる。第二王子、テンペスト殿下と、あなたの世界をまもっているのですレディ」
「その為に『世界学』をやったんだ」アヴァランシュは鼻に皺を寄せる。「『通り道』をつくれるようになる。あるふたつの世界を繋ぐ『通り道』は、同時にふたつ以上は存在しない。俺達がつくっていればほかの場所へ出てこないから、モンスターはそれをつかえない。膨大な魔力が必要なだけだ。普通では賄いきれないくらいの」
アヴァランシュは目をぐるりとやる。「それが原因でばかをした。テンペストの野郎、魔力を増大させる為の『誓い』をうっかり破りやがったんだ」
時折非常に口が悪いが、アヴァランシュはどうやら、兄であるテンペストを心配しているらしい。襟を忙しなく撫で、手をおろす。
「『誓い』は神聖なものだ。お前にはわからんかもしれんが、俺達は『誓い』を重んじる。主の『戒め』も『誓い』のひとつだ。俺達ふたりは、五日に一度しか動物を殺さないことで、魔力を高めてる。五日に一度しか動物を食べないことで。テンペストはそれを破った。粥だのりんごだのにはうんざりだといって」
どことなくおどけたようないいかただったが、面白がってはいないようだ。
「俺は主にお伺いを立て、お前を呼んだ。魔力のある人間はまともな料理ができない。あいつは主にゆるされるまで動物を殺さずに食事を続ければ、『誓い』を破ったはじを雪ぐことができる。だから、仕事をしてくれ。動物をつかわない、まともな食事をつくってくれ」