緑の『扉』
ここって、昔は『おやしき』があったとこだっけ?
糀はついは考えながら、ゆっくりと歩いている。なんの変哲もない田舎町の、そのなかでも中途半端な位置にある道だ。最近ショッピングモールや倉庫型スーパーができて、渋滞が発生しがちな、中心地ではない。かといって、農地が延々と続くような場所でもない。その中間地点、買いものに行くには乗りものがないとつらい場所だ。最近家がとりこわされたり、建ったり、騒がしい。
「ん」
甘い香りがして、はついはきょろきょろと、四辺を見る。花の匂いのようだった。薔薇に似ている。近くに、花らしきものはなかった。だが、気の所為にしては、匂いははっきり感じられる。
さっと肩から払いのけた長い髪は、おろしているが、きつく縛っていることのほうが多いのでその癖がついていた。身長は平均よりも高く、肩幅はひろめ。着ぶくれていると、男と間違われることがある。切れ長の目も、しっかりした眉も、男っぽいからだ。
はついは上着の胸ポケットから、緩慢な動作で鍵をとりだす。家の玄関のもので、小学生の頃つけたキーホルダーが揺れていた。このままこのペースで歩けば、五分もすれば家が見えてくる。生まれてこのかた住んでいる家は、いい加減がたが来ていた。トタンが錆びた屋根はどうにかしないとまずそうだし、去年父親が無理につくった庭の池は最近、ハクビシンの住処になってしまっている。土を掘り返して、残飯をうめている場所には、この間猪の足跡があった。最近伸び放題になっている藪をどうにかしないと。猪はああいうところを通るから。溝掃除もしなくちゃいけない。蓋を、お父さんに持ち上げてもらって、落ち葉を掻い出す。今度から落ち葉がはいりこまないよう、なにか方策を立てる。おととい、ぼんやりしてて指を怪我したから、土は触らないほうがいいんだけど。子どもじゃあるまいし、どうしてあんな怪我をしたんだろう。
ああ、ゆすらの花の匂いだ。
春先に、この香りがしだす。庭梅や、おだまきと混同してしまっているかもしれないけれど、これは春先の匂い。春先に、ふきのとうやゆきのした、よもぎやどくだみを摘むあの時間の匂い。寒さが和らいで、淡いような緑が山の表面を少しずつ彩り始める頃、庭に出ると漂っている匂いだ。
この後に、梅が来る。それから、桜。桜が終わって、梅が熟して、つぼに漬け込んだ梅から酸っぱい香りの水が沢山上がってくる頃には、優しく甘い、水っぽい香りのあじさいが、庭のいたるところで茎をしならせている。あじさいの花は重たくて、茎がたえられないのだ。祖母がそれを切りとって活けるのも綺麗だけれど、そのままにして枯れてしまった花も、はついは好きだ。
時季外れの匂いに、そんなふうに思考を巡らせていたはついは、緑色のなにかに気付いて足を停めた。
家の傍にある溝の、その上の空間が、緑色に光っている。
目の錯覚にしては、それははっきり見えた。煙のように揺らめいているが、半透明の扉だ。
家と、隣家の小さな畑の、農具を仕舞いこむ為の倉庫の間に、扉がある。ゆらゆらと煙のように動く、はついの身長よりも少し大きいくらいの扉は、10㎝くらい宙にういていた。ドアノブがあるのも見える。そこは緑ではなくて、茶色か黒に見えた。そこも揺らめいていて、しかも時折、ぶるぶると酷く震え、見えなくなる瞬間がある。
幻覚か、それともお隣さんがプロジェクションマッピングでもしているのか、もしかして最新式の害獣避けかしら、などと考えていると、扉が開いた。
次の瞬間、音が消え、その次には一切の感覚が失われた。