サジタリウス未来商会と「音を集める瓶」
久保田貴之という男がいた。
50代前半、中小企業の営業部長として働いているが、最近はやる気を失いかけていた。
「同じことの繰り返しだな……」
日々の仕事はルーティン化しており、家族との会話も事務的な内容ばかり。
かつては賑やかな職場で部下や同僚たちと笑い合っていたが、気づけばそうした交流もなくなっていた。
「なんで、こんなに静かなんだろう……」
耳に入るのはPCのキーボード音や電話の呼び出し音だけ。
久保田はふと、心の中でつぶやいた。
「もっと、俺の周りに音があったはずなのに……」
そんなことを思いながら帰路についたある夜、久保田は路地裏で奇妙な屋台を見つけた。
その屋台は、暗闇の中にぽつんと灯りをともしていた。
古びた木製の看板には、手書きでこう書かれている。
「サジタリウス未来商会」
「未来商会……?」
久保田は足を止め、興味本位で屋台へ近づいた。
奥には、白髪交じりの髪と長い顎ひげをたくわえた初老の男が座っていた。
その男は、久保田を見ると穏やかな笑みを浮かべて言った。
「いらっしゃいませ、久保田さん。今日はどんな未来をお求めですか?」
「俺の名前を知ってるのか?」
「もちろんです。そして、あなたが心に抱えているものも分かっていますよ」
男――ドクトル・サジタリウスは懐から奇妙な瓶を取り出した。
それは、透明なガラス製の小瓶で、内部には何も入っていないように見える。
「これは『音を集める瓶』です」
「音を集める瓶?」
「ええ。この瓶を使えば、あなたの周りで失われた音や、かつて存在した音を収集することができます。消えた音を集めることで、何かを思い出せるかもしれません」
久保田は眉をひそめた。
「音を集める?そんなものが何になるんだ?」
「あなた自身が試してみるのが一番です。この瓶が集める音が、未来へのヒントを示すかもしれませんよ」
久保田は半信半疑ながらも、その瓶を購入した。
自宅に戻った久保田は、瓶を手に取って使い方を試した。
瓶の蓋を開けると、柔らかな音の波が広がるような感覚に包まれた。
「……なんだ?」
しばらくすると、瓶の中からかすかな音が聞こえてきた。
それは、久保田がかつて家族で旅行に出かけた時の、子どもたちの笑い声だった。
「……これ、俺たちが山に行った時の……」
忘れかけていた思い出が、音を通じて鮮やかに蘇ってきた。
翌日、久保田は会社に瓶を持ち込み、昼休みに再び蓋を開けてみた。
瓶の中から聞こえてきたのは、職場の同僚たちが楽しそうに会話する声だった。
「そういえば、こんなに賑やかだった時もあったな……」
今では全員がPCの画面に向かい、無言で仕事をしているだけの職場。
だが、かつては冗談を言い合い、互いに助け合いながら活気のある日々を過ごしていた。
久保田は、その頃の自分と周囲の違いに気づき、思わず深く息をついた。
瓶を使うたびに、久保田は失われた音を集め、それを通じて忘れかけていた人々とのつながりや、自分自身の姿を思い出していった。
家族の笑い声、同僚との談笑、子どもの頃の友達とのはしゃぎ声――それらの音が彼の心に温かさを取り戻させた。
だが、ある日、瓶の中から聞こえてきた音は、まったく予想していなかったものだった。
それは、久保田自身が怒りに任せて部下を叱責している声だった。
「……なんだ、これ?」
音は厳しい口調で、相手の言い分を聞く余裕もないまま、一方的に責め立てている自分の声だった。
「これ……俺なのか?」
久保田は衝撃を受けた。
その日以来、久保田は瓶を使うのをやめた。
だが、瓶から聞こえた音は、彼の心に強く残り続けた。
「俺は、あんな風にして部下を追い詰めていたのか……」
彼は、自分の言動を見直し始めた。
職場では、部下や同僚に笑顔で挨拶をし、小さなミスにも穏やかに対応するよう心がけた。
家では、家族ともっと会話を楽しむよう努めた。
数か月後、職場の同僚たちは久保田の変化に気づき始めた。
「部長、最近柔らかくなりましたね」
「なんだか雰囲気が明るくなりましたよ」
家族からも、「お父さん、最近よく笑うね」と言われるようになった。
久保田はふと瓶を見つめ、小さく呟いた。
「音を集めるんじゃなくて、今の音を増やしていけばいいんだな」
彼は瓶をそっと引き出しにしまい込み、それ以来二度と蓋を開けることはなかった。
サジタリウスは路地裏の別の場所で、次の客を迎える準備をしながら静かに微笑んでいた。
【完】