鮮血プール
「なあ、ゆうじ、止めとけよ」
「どうしてさ、絶対面白いぜ。みんなびっくりして、プールの授業なくなるよ。ひろしだって、プールのテスト、受けたくないって言ってたじゃないか」
「そりゃ、そうだけど」
ひろしは口を噤んでゆうじを見た。
ゆうじは、風船の中に赤い絵の具を溶かした水を入れ続けている。昼からのプールの授業の前に、プールに投げ込んでテストができないようにしようと言うのだ」
「さあできた。おい、黙ってろよ」
「うん…」
ゆうじはにやにや笑って、バスタオルに膨らんだ風船を隠して立ち上がった。
ひろしはうまく泳げない。いつも一生懸命手足を動かすのだが、どうしても浮かばずにどんどん沈んで行ってしまう。まるで、水の底に誰かが居て、そっとそっとひろしの体を引っ張るみたいに。
だからテストを受けたくない。
そう、ゆうじに話すと、じゃあうまくやってやるよと言った。竹宮小のプールには秘密の話があって、それを先生達は覚えてるから、きっとテストは止めになると言うのだ。
「秘密の話?」
「昔さ、ここで女の子が溺れたんだって。プールのテストの時。足を怪我してさ、プールの水が血で真っ赤になったって。絵の具が零れたら、きっと騒ぐぜ。面白いだろ」
ゆうじはそう言った。そんなことを聞くと、ひろしはますますテストが嫌になった。だからゆうじを手伝った。
ゆうじは今、プールの端の方にいる。
生徒がざわざわ入ってくる時だから、先生もゆうじ一人を見ていない。
ゆうじはひょいと手を振った。あっと思う間もなく水しぶきが上がって、見る見るプールの水は真っ赤になった。たった1個の風船の絵の具じゃなくて、バケツに何倍も絵の具を入れたみたいに、どんどん赤くなっていく。
「血よ!」
悲鳴が上がった。
プールのテストは中止になった。
プールはずっと中止になったまま、夏が終わってしまった。
先生達はプールの排水口が壊れて使えなくなったと言ったが、みんなは水の中に幽霊がいると噂していた。水を何度入れ直しても、次の朝には変に濁って赤く見えると言うのだ。
「見に行こうぜ」
ゆうじが言い出して、ある日の放課後、ひろしはプールを見に行った。
「何だ、ちっとも赤くないな」
ゆうじが階段を上がって背伸びして言った。
「そうだね、赤くないね」
「誰だよ、血のプールだなんて言ったのは」
ゆうじが少しホッとしたように言った。
プールは薄暗い水を湛えて静まり返っている。
校庭に植えられている紅葉の木が真っ赤に色づいて、プールの上にまで枝を伸ばしていた。時々風が葉っぱを落として、プールの上に散らしていく。
「もう行こうぜ。あーあ、気にして馬鹿みたいだ」
ゆうじがけらけら笑って階段を降りる。その途端、激しく風が吹き寄せて、紅葉の木を揺らせた。赤い葉が見る見る一杯、プールの上に広がっていく。
「ゆ、ゆうじ!」
ひろしは悲鳴を上げて、ゆうじの腕を掴んだ。
「何だ…」
振り向いたゆうじも凍りつく。
プールの水が微かに波立って、紅葉の葉の間から白い手が差し出された。その手が見えない糸を掴んだように、ずるずると一人の女の子の体が引っ張り出されてくる。
水にぐっしょり濡れた長い髪。俯いて、水の上に立っている。水着を着た体のあちこちに紅葉がついていると思ったら、それはすぐに形を崩して流れて行った。
「血だ、血なんだ」
ゆうじが呟いた。
それを聞いたように、女の子がゆっくり顔を上げた。濡れた前髪がべっとり張り付いた真っ青な顔で、身動きできないゆうじとひろしににっこり笑った。そろそろと片手を上げると。その真っ白な指先に、ゆうじが絵の具を入れた風船が引っ掛かっていた。
「あたしの血を、入れてあげようか」
「うわあっ!!」
ひろしは叫んだ。ゆうじの腕を掴んだまま、目を閉じて階段を駆け下りた。
「ぎゃあっ!」
途端にゆうじが喚いて、ひろしは目を開けた。しっかり掴んでいたのは、ゆうじの腕ではなくて、紅葉の枝だと気がついて、慌てて放り捨てる。
「ぎゃああああっ」
もう一度大きな声がして、ひろしはプールを振り返った。そこには、もう誰も居なかった。女の子も、ゆうじさえも。
次の日、プールはロープで囲まれていた。
ゆうじは家に帰らず、居なくなった。
ひろしは何度もあのことを話そうとする。その度、真っ赤な紅葉が落ちてきて話せなくなる。夏でも冬でも、真っ赤な葉が。
終わり