第1章 フィン・ハーパー2
召喚魔術の古書には、見慣れない汚れがある。そっと近づくと、チョコレートの甘い匂いがした。
「まさか!」
ギルバートは、急ぎ階下に降り、アンナを呼び出した。しかし、誰の返答も聞こえない。ダイニングテーブルには、急いで書いたらしいアンナのメモが見つかった。フィンが発作を起こして入院すると記されている。どうやら、連絡が入れ違いになったようだ。ギルバートは荷物を放り出すと、汽車のおもちゃを手に、病院へと急いだ。
「退院、おめでとうございます。よく頑張りましたね」
「お世話になりました。」
看護師に見送られ、アンナは入院時の荷物を抱えて、フィンと病院を出ようとしていた。
「とーさま!」
「え?旦那様?」
フィンのはじけるような声に振り向くと、ギルバートが病院に駆け付けたところだった。
「フィン!もう大丈夫なのか?」
「はい、元気です。とーさま、おかえりなさい」
「旦那様、おかえりなさいませ。坊ちゃんが喘息の発作で、心配致しましたが、無事退院です」
「そうか。アンナ、付き添ってくれてありがとう。ショーンはどうした?」
「奥様に連絡してくるとおっしゃっていましたが、お屋敷に戻られていなかったのですか?」
ギルバートの視線がふっと外れる。ネージュはギルバートの妻でありながら、聖女としての立場を優先して、大聖堂に閉じこもっているのだ。ショーンがおいそれと会えるはずはなかった。
「とにかく帰ろう。フィン、よくがんばったな。今回のお土産はこれだぞ」
「わーい、汽車、汽車!」
幼い我が子が手放しで喜んでいる姿を見ながらも、ギルバートの瞳には憂いの色が広がっていた。
屋敷に帰ると、ショーンが帰ってくるのに出くわした。
「ああ、旦那様。お疲れ様でございます。入れ違いになってしまったようで、申し訳ございません」
「いや、大丈夫だ。アンナがメモを残してくれていたからな。ショーン、大聖堂まで行ってくれたのか。すまない」
「旦那様…。もったいないお言葉です」
ショーンはまだ若い執事だ。ひょろりと頼りなげな体形ではあるが、王宮で文官として働くことを目指すほどには優秀だ。そんな彼が、王都から離れたポリトリクの街に落ち着いたのには理由があった。突然現れた魔獣に襲われそうになっていた時、ギルバートが助けてくれたのだ。それ以来、彼はギルバートのために心血を注いで働いている。今では、魔獣討伐オタクのギルバートには、なくてはならない存在だ。
皆で館にもどり、夕食を済ませると、ギルバートは息子を自分の書斎に呼び寄せた。
「フィン、父が留守の間、いい子にしていたか?」
「はい、とーさま。フィンはいい子でした」
小さな体をそらせて胸を張ると、バランスを崩して転げそうになる。そんなフィンを愛おし気にみていた父だったが、ぼそりとつぶやいた声は、召喚士のものだった。
「なら、正直に答えよ。フィン、おまえは私の了解なく、何者かを召喚したのか?」
「ショーカン? えっと、汝答えよって言うの? やりました!クルンが来たの。あれ?クルンはどこ?」
ギルバートの背中に冷たい汗が流れた。3歳にも満たない息子が、召喚術を身に着けていたなど、誰が信じよう。しかし、そんな父の目の前で、小竜クルンが姿を現した。
「クルン!久しぶりだね」
「キュルン」
親し気な一人と一匹をみていたギルバートは、自分を落ち着かせるようにゆっくり口を開いた。
「なあ、フィン。その子はお前が召喚したのか?」
「はい、そうです。クルンって言うの」
「まさか…、お前が名付けたのか?」
「はい、キュルンって鳴くから、クルンにしたの」
「つまり、お前はこの小竜と契約したということになる。」
フィンは不思議そうに父の言葉を聞いているが、どうもわかっていないようだ。
「はぁ、クルンは一番大切な友達だってことだ。大事にするんだぞ」
「はい、とーさま!大切にします」
「それから、この部屋には危ない物がいっぱい置いてあるから、私と一緒でない時には入ってはダメだ!分かったか?」
「はい、とーさま!」
元気のいい返事にため息が出る。生まれたときから確かに膨大な魔力を秘めているとは分かっていたが、こんなにも早く召喚してしまうとは。これから基礎をみっちり教えなければならない。ギルバートは、しばらく遠征に行くのを断る決心をした。