図書室
『桜の木の下には屍体が埋まっている』
あまりにも有名な都市伝説だ。
これを聞いた物心ついたばかりの私は、桜の木の下で眠る屍体の主が恨めしい目をしてこちらを見ている気がして桜を見るのが苦手になってしまった。一度、家族で夜桜を見に行こうと弁当を持って近くの大きな公園へ行ったのだが、夜の空に映える白い桜の花びらがまるで死人が腕を伸ばしているように見え、耐えられなくなった私は決壊したダムのように泣き始め、花見どころではなくなった。
歳を取るにつれて、幽霊なんて信じなくなったが何故か桜への苦手意識は日に日に増えるばかりだった。春の訪れを知らせる可憐な花びらに、悠々と枝を広げて一年の始まりを告げるその優美さにどことなく億劫な気持ちになってしまい、春になると憂鬱だった。
だが、元となっている小説を読んだ瞬間、拭いきれなかった仄暗い感情は形容し難い興奮へと変化した。
小説にはこう書かれている。
あの神々しい程の桜の美しさは屍体という惨劇な栄養を吸って成り立つのだ、と。
底に眠る足元を掴んで離さないような惨劇があってこその生き生きとした美しさがあるのだと知った私の心は傾いていた天秤が水平に揃い、最後のパズルのピースをはめた時のようなストンという音と共に平穏になった。
この話をしたことあるのは人生で一度きり、小学校からの腐れ縁である染谷大智に話したことがある。そう、あれはたしか中学上がってすぐのこと染谷と共に帰っているときに咲き乱れている桜を眺めながら彼が思い出したように「そういえば、桜の下には死体があるんだってな」と言い出したことが始まりだった。
説明をしようとする私に「死体があるのはどう考えたって気持ち悪りぃだろ、綺麗なもんは綺麗でいいじゃねぇか」と彼は眉をひそめた。
私は普段なら反論せず聞き流していただろうが、なぜかその時は違った。放課後のすれ違う人々など気にも留めず、私らしからぬ声音で彼を説得しようとしたのだ。
桜を残虐な理由もなく美しく思うのは、真っ白な家で生活するような息苦しさを感じるのだ。汚れてはいけない真っ白な空白に神経を注ぐのは、味気のなさと、下らなさと、吐き気がするほどの緊張を感じるのだ。そんな美しさを私は直視できない。きっとどうすればいいのか困惑して逃げ出してしまうのだろう。
そう言っても染谷は首を傾げて「馬鹿な俺にはわかんねぇや」と欠伸をし、私に与えたショックを今でも覚えている。
正直、私に友達がいるとするのならばそれは彼だろうと思っていたからだ。
しかしこんなにもあっさり私の意見を否定されて私は谷のどん底に落とされるような絶望感に頭が真っ白になった。まるで彼に告白して振られてしまったかのように私の胃の中に重圧がかかる。なんでもわかってくれるはずだという身勝手な期待がそうさせているのだと、当時の私では気づくこともできずに、いつの間にか話をすり替えた彼に少なからずむっとしていた。
しかしすぐに私はそれからこんな話をすべきではなかったと猛省した。さっき、彼が言ったようにこんな話、きっと気味悪がられてしまうのが普通なのだ。作者も友人に憐れんだ眼で見られることだろうと言っている。こんなこと言い出してしまった私が悪いのだ、こんな話をした私の自業自得だと喉元までせり上がってきた言葉たちを全て飲み込んだ。
それからだ。私は自分から言葉を話すのがひどく苦手になった。
染谷にだけではない。家族とも必要以上の言葉を交わすことが無くなった。
勘違いしないでほしいのは別に精神的な病気にかかり、全く言葉が出ないというわけではない。その証拠に誰一人も私の異変に気付いたものはいないほどに私はきちんと話すことはできた。
ただ、自分から語り掛けず、訊かれた事以外の多くを言わない。
ただゆっくりと動きを緩める古ぼけた時計のように私の言葉数は減っていった。
そんな私を友達が増えるわけもなく、逃げるように読書に耽ることが多くなった。それは高校に入ってからも変わらずで、同じ高校に入った染谷はお前は相変わらず無口だなと笑われるだけだった。そう、私達の関係はあれからも何一つ変わらないただの幼馴染であり、腐れ縁であり、良き隣人だ。
今だって人気のない図書室で、私の隣に座り彼はだらだらと隣でスマホをいじっている。私は図書委員なので放課後の本の貸し出しを管理する仕事があるが、彼は委員会にも部活にも所属しておらず、バイトがない日は一緒に何をするでもなく図書室にいるのだ。
ここで寝るなら帰ればいいのに。私は毎回そう言っているのだが、適当に話を流す彼には無駄なことだとはわかっていた。彼はやがてスマホにも飽き、机に突っ伏して寝始めた。
右耳についてるピアスが窓から差し込む夕日にきらりと反射する。明るい彼の髪色は三毛猫が日当で休んでいるのを彷彿とさせる。
図書室にいるのが学年一似合わないこの男とは、話が合わなければ趣味趣向も合わない。話をしていたってお互い一方通行な気がしているのになぜこうして隣にいるのかわからない。友人と呼ぶにはあまりにも組み合わせが悪すぎる私達は黙って西日が差しこみ始める部屋で時間を無駄にしていた。
「染谷君、寝ちゃったの?」
静かな鈴を転がすような声に私は顔を上げた。そこにいたのは櫻井園子だった。
私は上げかけた視線を不自然でないようにゆっくりと下ろしてそうみたいと頷いた。
彼女が隣に座る気配がする。図書委員であるから貸し出しカウンターの中の椅子に座るのは当然なのだが私はそれだけでも緊張した。
カンザンの様な薄桃色の唇が綺麗に弧を描き微笑んだ彼女は私の人生の中で最も綺麗な人だ。
高校生だとは思えないほど大人びた表情に、肩の上で揃えられた艶やかな黒髪。目が合えば、自分を気恥ずかしく思って晒してしまうし、近くにいようものなら心臓の喧しさに頭がおかしくなってしまう。
細い腰とそこからスラっと伸びた長い足が軽やかに動く度に視線がどうにも離せなくなる。可憐な唇が何かを語る度に、背筋が伸びるような不思議な緊張が走る。
彼女の美しさは言葉では言い尽くせない。
彼女の美しさは私の頭の中で一種の麻薬となって広がっていく。
きっとそれは私だけじゃない。
学年一のイケメンと囃し立てられている高橋君はいつだって彼女のことばかり見ていると女子達はため息をつき、先生達だって櫻井さんの前では私やその他大勢と違って慎重に言葉を選んでいるみたいだった。
ページをめくる心地よい音が二人の間を埋める。放課後の図書室には私達以外にはいなかった。図書室にくる高校生なんて今時はほとんどいない。いたとしても本を借りたらすぐ帰ってしまうので、基本的には図書委員ぐらいしかいなかった。
私と櫻井さんは一年の時も同じ図書委員でクラスは違えど顔は知っていた。そして二年になった今年も同じ委員、さらには同じクラスになった。きっとこれが小説か何かならここから二人の間で些細な事件が起こり、二人で問題を解決し、そして淡い春が始まりを告げるのであろう。
しかしクラスの中でも影が薄すぎて、変なあだ名すら付かないような私と学校の高嶺の花である彼女とではありえない。淡い春だって、血相をかいて逃げ出すほど私達は釣り合わない。
それに私は彼女に対して、なぜか後ろめたいような気持ちをいつも抱えていた。きっと、何故桜が綺麗なのかわからなかったあの時と同じなのだ。彼女に対して億劫だとか、不気味さを感じるというわけではないのだが、隣にいるとどうしても申し訳ないような気持になる。彼女とは仲良くしてはいけないような、理由のない後ろめたさにいつも息苦しさを感じる。
彼女と二人で図書委員の仕事にあたる際は、染谷がいることに内心ほっとしている自分もいる。間抜けな聞こえる寝息に助けられるなんてなんとも情けない話だ。
私はなるべく考えないように手元の本に意識を向ける。次第にページをめくるスピードは速くなり、気が付けば私は本の世界へと沈んでいった。
―――
「ごめんね、用事があるから先に帰るね」
十七時半の鐘が鳴ると、櫻井さんは手を合わせて申し訳なさそうに眉を下げた。
私は大袈裟に首を振って気にしないでと答え、図書室を締める準備をする。といっても、今日返却された本を棚に帰し、後は鍵を閉めて職員室に帰すだけだ。一年の時もやっているので慣れた仕事なのでそんなに時間もかからないので大した負担ではない。
むしろ、櫻井さんと一緒に居る方が心臓に悪そうなので、私は快く櫻井さんを見送った。
「櫻井さんって本当、綺麗だよな」
いつの間にか起きていた染谷が肘をついて櫻井さんが消えて行った扉を見つめ、うっとりとした様子で言った。
「……櫻井さんのこと、好きなの?」
私は本を棚に帰しながらきいた。
「そりゃ、男ならみんな櫻井さんのこと好きだろ」
手伝うわけでもない彼は伸びをして寝起き眼で宙をぼんやり見ている。
私は彼の顔をちらりと盗み見た。
学年一とは言わないが、程よく整っていると思うその顔はコロコロと表情を変え見ていて飽きない。本人は嫌いだと言っているが、あどけなさの残る顔は一定の女子から評判が良い。
モテないモテないとよく嘆いているが、そういう話が全くないわけではない、むしろ多い方だと私は知っている。
染谷なら私よりはるかに可能性があるだろうと言いかけたが、やめておいた。
櫻井さんはそう言った話を全く聞かない。一年の時に何人からか告白をされたが、そのどれも断ったと風の噂で聞いている。それも納得するほど、彼女の隣に立つに相応しい人はそう多くない。染谷の裏表のない人の好さを知っている私でさえ、彼女の隣に立つのは違和感があるとなんとなく察してしまう。下手な慰めは不要なので私は曖昧に頷くだけにした。
「一体、どんな奴が好みなんだろうなぁ」
そう言って櫻井さんの好みを好き勝手妄想しだす彼だって、それに気が付いているからこうやって何もない日に図書室で彼女と同じ空間にいることで満足しているのだろう。
私は黙って彼の話を聞いていた。一人で盛り上がりを見せる彼は、まるで遠い星を眺めているかのように目を輝かせている。
きっと私達はこうして何もない生ぬるい春を過ごしていくのだ。
大きな盛り上がりもないが、大きな不幸もなく、甘酸っぱい感情をどうすることもせず毎日を欠伸を噛み殺し過ごしている。
私はそれでいいと思っていた。
それで十分だと、思っていたのだ。
春の推理小説企画の日付を勘違いして、桜もとうに散ったこんな時期に桜の話を投稿しております