背中を向けないで
「離せよ」
振り返らずに淡々と言葉を放つ。できるだけ凍てついた温度になるように。その冷たさだけで彼女が怯えるように。
「……」
僕の手首を掴む彼女は、ひとつも握る力を変えずに黙って立っているようだった。
ほとんど力なんて入っていない、優しくて柔らかな力加減。それがとても、重い。
「離せ」
「……」
いよいよ言葉自体に刃を乗せようと振り返った時、目に入ったのは力強い彼女の瞳だった。
怯えたのはむしろ、僕。
「……」
「……わからないだろ。僕の気持ちは。同じ経験をしていなかったら、絶対にわからない」
「でも、わかりたいとは思ってる」
「わからないだろ!」
「わからないよ」
どっちの意味の「わからない」なのか、一瞬僕には判別がつかなかった。
でも、そんなのどっちだっていい、と思い直す。
「わからないから。わかってたまるかよ。こっちはそれでも必死に抱えて、耐えて、生きてきたんだよ!そんな簡単に言うなよ!」
「……」
彼女は返事の代わりに、指を絡ませる。あやとりみたいに、その細い指をひとつずつ、僕の指に。
「離せ、って言ったんだけど」
「ねぇ」
「聞けよ人の話」
「だいすきだよ」
まるでひなたぼっこ中みたいなあたたかい笑顔で、彼女は笑った。拍子抜けというか、力が抜けて怒る気が削がれていく。
「……はぁ」
「わからないと思うんだ、私も」
「ほらね」
「でもね、わかりたいって、思うの。お前にはわからないだろ、って思うその気持ちを、教えてほしいの……どんなに苦しい思いをして、どれだけの辛さを抱えて乗り越えて、今そこにいるのか……どんなところを、お前にはわからないと思うのか」
「そんなこと言って何になんの。面倒だし、一言二言で言えるもんじゃないし、結局わかんないんだろ」
「いいじゃない。それで」
「何のためにそんなこと」
「私のため」
頭を抱えたくなった。お前のためかよ。いよいよ返事が出てこなくなって、ただため息をついた。
「わからないってことを、わかりたい。はじめから諦めてほしくない。どれだけ、私にはわかれないほどあなたが頑張ってきたのかを、私は知りたいの」
「お前なぁ」
「それに、1%だけでももしもわかる部分があったなら、私、とても嬉しいから」
そう言って彼女はまた、嬉しそうに笑った。照れくさそうに頬を染めて、もうそれができた時の気持ちでいるみたいに。
絶対にリアクションが間違っているコイツは、と思いつつ、そのままあやとりになった指を引いた。絡んだ、まま。
「もういいよ。この話。面倒臭いし、なんかもうどうでもいいよ」
「ね、今度、ちょっとだけ、教えてね!気が向いた時!」
引かれるままにニコニコとついてくる彼女は子犬か何かみたいだった。疑うことも汚い気持ちも、悪意なんてものもまるで知らない幼い子犬。
絶対にお前にはわからない、わかってたまるか、と昂っていた僕の気持ちは完全に戦意を削がれて霧になる。
「腹たったし疲れたし、今日は飲む。行くぞ。店は僕の好きに決めるから文句言うなよ」
「うん!いつも選んでくれるお店、おいしいよね!私なに食べようかなぁ~」
なんで僕はコイツといるのかな、と思う。
結局、いつだって最後はこうして落ち着いてしまうのだ。
ある意味天才だよなぁ、と思いながら目をやった彼女は一生懸命食べるものを検討しながら難しい顔をしている。
その顔はさっきするべき顔だろうよ、と心の中で文句を言ったけれど、さっきよりずっとしっかりした力で絡められているその指の力加減が、僕にはとても心地よかった。
誰だっていろんな想いを抱えながら、それでも生きていると思うのです。
踏み込まれたくない部分だってあって当然。だけど……どうせ、って心を閉ざされてしまうのはそれと違うと思うし、とてもさみしいことだと思う。恋人でも友達でも家族でもどんな関係性でも。大切な人であるならば。