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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

竜鳴き山にて

作者: mahipipa

 その日の竜鳴き山は晴れてこそいたが、太陽の熱を奪う荒涼とした風が吹いていた。

 いま、山の中腹にある森を、一人の青年と一頭の獣、そして一人の少年が歩いている。彼らは山の頂上を目指していた。


(樹だけ見れば、近くの森と何も変わらないのに。風が違う。ひとが立ち入っていいかたちをしていない)


 青年と獣の後ろを歩く少年の名はユールクといった。歳は十五の狩人である。襟足の伸びた金の髪を風になびかせ、かき集めた道具と弓を背負って歩いている。丸い大きな緑の瞳に、ざわめく木の葉が映り込んでいる。

 少年は、竜鳴き山に生まれて初めて踏み込んでいる。全てのものが己を威嚇するような空気に、彼は身震いをした。


「このあたりで休む」


 湧き水近くまで歩いたあたりで、ふと、寡黙な青年が言葉を口にした。ユールクは、はっと顔を上げた。


「わ、分かりました。準備しましょう」


 ユールクは手際よく野営の準備を始めた。彼は枝を集め始めた青年の方をちょくちょく見て、そのたたずまいを観察していた。

 精悍で美しい青年だった。このあたりでは珍しい黒髪を、肩のあたりで乱雑に切っている。文様が縫われた異邦の衣の間に、薄手の鎖かたびらを身に纏っている。だが、それ以上に目を引くのは、その瞳の色だった。


 ――良いか、ユールク。赤紫の瞳は戦狂い、魔性の証だ。近付いてはならんぞ。


 青年の切れ長の眼の中に収まった、赤紫に輝く目。ユールクの亡き祖父は、幼い彼にそれが魔性の証だと言い聞かせてきたけれど、彼はそれを綺麗だと思ってしまった。

 しかし、そんな異国の旅人をもってしても、隣に居る獣の前では霞んでしまった。

 青年が連れていたのは馬でも羊でもなく、巨大な雌狼であった。黒々と輝く体毛は、足元だけ炎のように赤い。狼でありながら、山羊の如きねじれた角を戴いている。

 このおそろしい魔狼に鞍もつけずにまたがり、青年はユールクの村を通りがかったのである。出会いは偶然だった。

 ユールクは彼と共に手早く落ち葉や枝をかき集め、火をつけた。燃え行く草木は、最後に見たふるさとの色を孕んでいた。


「本当に、いいところだったんです。竜鳴き山に『黒衣』が来るまでは」


 双眸に炎を抱き、ユールクは寡黙な青年にぽつりぽつりと話し始めた。


 昨日の今頃、ユールクは狩りの成果もなく帰り道を歩いていた。このところ、『収穫なし』は特によくあることだった。

 竜鳴き山の主が代わってからというもの、近隣の森や山の幸は日に日に少なくなっていた。

 竜とは、およそ人智の及ばぬ強大な生命である。爪は岩を容易く引き裂き、炎の吐息は命を焼き尽くす。その中でも悪名高いものが、今、山を支配していた。

 黒衣。てらてらと輝く黒の鱗をよろった老竜を、皆、口を揃えてそう呼んだ。彼は竜鳴き山に降り立つなり、住まう若い竜を早々に喰らって君臨し始めた。

 彼は狡猾で、ひどく意地の悪い竜だった。まず、人々は山の向こうへ行けなくなった。黒衣が頂上を根城に陣取ったからだ。山の向こうとの交流は途絶え、人々は飢え始めた。

 次に、黒衣は人を殺し始めた。食うためではない。遊ぶためである。一つ、また一つと村が戯れに滅ぼされる噂が流れる度、村の人々は絶望に顔を覆った。

 だから、ユールクは燃える村を見た時、何より先に、ついに自分たちの順番が来たのだと思ってしまった。

 早くに父母を亡くし、祖父が老いて亡くなった後も、ユールクはひとりぼっちではなかった。気になる幼馴染みだっていた。くだらない遊びを教える大人がいて、日によっては、口が達者な老人たちにやりこめられたりもした。

 それがただ一日、狩りに出かけている間に燃えさしの炭同然になったのだ。遠目に燃える村を見た時、ユールクは生まれて初めて、ひとりになった。

 黒衣が飽きて帰った頃、ユールクはやっと村に到着した。生存者は誰もいなかった。

 それから呆然と立ち尽くしていたところ、通りすがった青年に拾われたのだ。今の今まで、ユールクは名を伝える以外、まともに口を利けなかった。


「正直、まだ……実感が湧かないのだと思います。ぼくの中に燃えるのは、悲しみではありません。黒衣への怒りだけなのです」


 ユールクは青年へそう告げて、白い手を膝の上で握った。火に炙られ始めた薬缶の中から、ふつふつと水の煮える音が聞こえ始める。彼は青年から干し肉を渡されたが、受け取るだけで口に運べずにいる。


「ぼくは狩人です。生命をいただくからこそ、巡る命に感謝せよと、祖父や父母に教えられてきました。だけれども、黒衣はぼくらをあざ笑うように、全てを壊すだけ壊していったのです」


 黒衣。その名を口にするだけで、ユールクの中で不快な激情の塊が膨れ上がった。全身の血が沸き上がり、湯気を発するようだった。


「戦士様。ぼくは、あの竜を殺したい……一滴残らず、血を絞り出してやりたい。あの暴君を殺さねば、もう他の何も手に付かないのです」


 彼は眉を寄せて、ぎゅっと目を閉じて、大人のように耐え忍ばねばと口を噤んだ。彼は賢かった。ただの狩人である自分に、そのようなことはできないと分かっていたのだ。


「黒衣を殺したいか」


 そんなユールクに、青年から差し出されたのは一杯の白湯だった。彼はそれを受け取って、青年の赤紫の瞳を見つめた。温かな炎を映すそれは、やはりとても美しかった。

 ユールクは頷くことで精一杯だった。青年も自らの分の白湯を口にして、白い息を吐いた。


「分かった」


 青年はたったそれだけの言葉を返すだけだった。ユールクは目を丸くして、ありがとうございますという言葉さえ言い忘れてしまった。はっとして、それを言ってはみたものの、青年は表情ひとつ変えなかった。

 火から離れていた狼が、青年に近づいて伏せる。長年付き添ってきた相棒。ユールクはその仕草で、そう直感した。


「あの、戦士様。その角のある狼の話を、ぼくは聞いたことがあります」


 何かを言わなければならない。ユールクはまとまらない頭を振り絞って、一つの話題を口にした。


「彼女は火々獣(ひかげもの)ではありませんか」

「知っているのか」



 初めて、青年は眉を動かした。ユールクは、さらさらとした金髪が揺れるほど、しきりに頷いた。


「遠い西に、伝説の地があると聞きました。名だたる竜さえ近付かぬ森の奥に、火を抱く魔狼が住むと。かつては竜とこの世の炎を二分し、敗北はすれど未だ竜の天敵として名を残す! それの名が火々獣だって!」


 少年は身を乗り出して、頬に受ける焚き火の熱のままに話した。全て口にしてから、はっとして、もじもじと身を縮こまらせた。


「す、すみません。負けた話なんて、ご気分も良くないですよね」

「構わない」


 青年はちらと狼を見た。狼は頭をもたげて赤い瞳で二人の人間を見たが、すぐに興味がなさそうにそっぽを向いて伏せ直した。すると、青年もそうかとばかりに視線を外して、自分の荷物を手元へ引き寄せた。そうして、矢筒の中から、一本の矢を取り出してみせた。


「お前は、これを知っているか」


 コップと一緒に干し肉を置いて、ユールクは矢を受け取った。蝋が塗られた矢の軸はまっすぐで、三枚の矢羽根から銀の矢筈に至るまで、全てが整っている。未熟な彼をもってしても、ただの荒くれが使う粗末な矢ではないと分かった。

 だが、ユールクは青年が問うているのが、矢の材質だとか、どういう手腕の矢師が作ったのかだとか、そうしたことではないような気がした。

 最終的に彼が着目したのは、鏃だった。


「少なくとも、獣に使う鏃ではありません。獣を殺すのに、こんな鋭く長い鏃を用いる必要はありませんから」


 ユールクは矢を返しながら、己の知ることを、ただ口にした。

 鏃は、彼が今までに見たどの鏃より鋭利だった。金属質で、炎を照り返して白く輝いている。ただの獣の肉や皮を相手にするは無駄なほどであった。

 だからこそ、彼は察したのである。これはもっと頑強な生命を殺すための矢であると。

 竜鳴き山でこの矢を使うべき相手は、ユールクの中でたった一つしか思い浮かばなかった。彼の目は、勝手に大きく見開かれていった。


「お前は運が良い」


 青年は表情を変えずに淡々と告げ、白い息を吐いた。


「おれは黒衣を殺しにきた」


 村を滅ぼされてから初めて、ユールクは頭上に光が降りてきたような心地がした。


「もう寝ろ。明日も早い」

「は、はい!」


 赤紫の瞳を伏せて、青年が獣にもたれて眠り始めた後も、ユールクは心臓の高鳴りを隠せないまま、その異邦の衣に包まれた身体を見つめていた。コップと一緒に脇に置いた干し肉の存在を思い出したのは、ずっと後のことだった。





 翌朝、名前さえ知らぬ青年を追いかけて、ユールクは山を進んでいた。空は昨日よりは遥かに明るく、風はしんと止んでいた。

 青年は起きるなり、火々獣に何かを伝えて彼女をどこかへと送り出した。ここにいるのはユールクと青年だけである。彼は相棒になりかわったような心地で、青年の後ろを歩いていた。

 自分は、ただの狩人の時には想像も付かなかった竜殺しの冒険に出ている。それを思えば、ユールクはどこへでも飲まず食わずで走り抜けられる気がしていた。


「戦士様、彼女に何を伝えたのですか?」

「偵察だ」

「黒衣の、ですか?」

「違う。良からぬ竜は災いを呼ぶ。敵は竜そのものだけではない」


 青年は立ち止まり、木々を見回した。ユールクも喉を鳴らして気配を察知してみたが、獣一匹いる気配はない。


「もっとも警戒すべきは、『おそれ』だ」


 静かな声の意味するところを、ユールクは理解できなかった。彼は首を横に振って、青年の隣まで飛び出した。


「これから黒衣を殺すんです。おそれなど捨てました」


 ユールクの返事に、青年は応えなかった。代わりに、彼は飛び出そうとしたユールクを手で遮った。

 何事かと瞬きした少年の目にも、いよいよ異変は察知できた。二人の前に現れたのは、他でもない人間だった。男が四人。それぞれの姿は食い違っていたが、皆、どこかに黒い鱗を身につけていた。


「見ない顔だな。おい、ここを黒衣様のお山と知って来ているんだろうな」


 首領格と思しき男が、青年とユールクに吼える。


(あの竜に様付けなんて!)


 ユールクは黒衣に虐げられている人間が『様』をつけて呼ぶなど信じられず、目を見開いた。男はぼろの剣を引き抜いて、その切っ先を青年へと向ける。


「有り金と食い物、あとは、その業物を置いて行きな。意味は分かるだろ?」


 男が見ているのは、青年の携えた剣らしかった。ユールクは二者の間で視線をさまよわせたが、青年は微動だにしなかった。この間にも、他の男たちは、青年に弓を引き始めている。


「通行料か」


 青年は淡々と、そう答えた。男が「そうだ」と答え、一歩踏み出す。


「黒衣様は財宝をお求めだ。頭を垂れて『上納』すれば、我らをお許しになるが、そうでないなら殺される」

「だ、だからって、同じ人間を襲うんですか! 黒衣に頭を下げて、こんな山賊まがいのことなんか!」


 思わず、ユールクは声を上げた。男の眉がぴくりと動く。


「ひっ」

「口を慎めよ、小僧」


 ユールクの足元に、矢が撃ち込まれる。思わず、彼は後ろに飛び退り損ねて尻もちをついた。


「何も知らないガキの癖に!」

「黒衣様に聞こえたら俺たちまで殺されるんだぞ!」


 彼は、男たちが僅かに視線をさまよわせたのを見た。『おそれ』だ。黒衣の機嫌を損ねるかもしれないという恐れが、彼らの眼球にへばりついていた。


 ――もっとも警戒すべきは、『おそれ』だ。


 今しがたの青年の言葉が、ユールクの中で反響した。彼らは、すっかり心を折られているのだと。


「共に黒衣を討つ道はないのか」


 にわかに怯える男たちに言葉を返せるのは、青年だけだった。彼は弓にも剣にも手を掛けぬまま、そっと、男たちへ問いかけた。ユールクの前で、青年はまっすぐ男たちを見つめている。


「そうですよ! 戦士様が一緒に戦ってくれるって!」


 ユールクもまた、男たちが我に返って、奮い立ってくれることを強く望んだ。身体に飾る鱗なんか捨ててしまって、善性と勇気を振り絞ってくれると信じた。


「そう言って何人も死んできたんだぞ!」

「裏切って負けたら、俺たちはどうなる!」

「黒衣様についたんだ。勝っても受け入れられる場所なんて……」

「決まりだな。逆賊だ! 殺せ!」


 だが、それは叶わなかった。男の咆哮が、ユールクの鼓膜をびりびりと震わせた。男たちは矢をつがえ、あるいは仕事道具であっただろう斧を振り上げ、青年に襲いかかった。


「……分かった」


 青年が発したのは、ただそれだけだった。多勢に無勢だ。この美しいものが殺されてしまう。ユールクは怖くなって、目を覆った。

 けれども、いつまでたっても青年のうめき声は聞こえない。

 おそるおそる目を開けたユールクは、逆に限界まで目を見開いた。

 青年は今の一瞬で抜刀し、首領格の男を袈裟懸けに引き裂いていた。彼の用いる鏃と同じ白銀の刃が、ねっとりとした血を絡めて赤く光る。

 そのまま、彼はわずかに屈んで踏み込んだ。おそるべき速さで斧を振りかざしていた者まで詰め寄ると、下げていた剣を大きく上へ振り上げる。力強く握られていたはずの斧を弾き飛ばし、粗末な革の鎧や衣服ごと、容赦なく切り飛ばす。


「ば、化け物!」


 残る男のどちらかが青年をののしったが、その次の言葉は続かなかった。男は後方から飛び込んできた巨大な影に押し潰され、爪を立てられていた。

 火々獣だ。見回りに行っていた彼女が帰ってきたのだ。ユールクは尻もちをついたまま、黒々とした毛並みがざわめくのを見上げていた。


「くそ、くそっ、何でそんな顔してんだよ! 人を、人を殺してるんだぞ、お前っ!」


 最後の一人が矢を射る。丁度、青年は男に背を向けたままだった。

 それでも、青年は勝った。即座に振り返り、信じられない膂力と動体視力で矢をとらえ、剣でシャフトごと叩き落とした。

 その時、ユールクは戦っている彼の顔を初めて見た。

 青年は笑っていた。あの寡黙で表情を感じさせない雰囲気を忘れるほど、爛々と赤紫の瞳を輝かせ、牙を剥いて笑っていたのだ。


 ――赤紫の瞳は戦狂い、魔性の証だ。


 次にユールクの中に蘇ったのは、亡き祖父の言葉だった。まさしく、青年は魔性を帯びていた。矢を叩き折られて逃げ出した男の背中に、彼は容赦なく弓を引いた。

 あの竜殺しの矢が、音も立てずに空を駆ける。迷いなく、男の胸を刺し貫く。

 男が絶命したのは、疑いようのないことだった。一瞬で、ユールクの目の前に四つの死体ができあがったのである。


「すまない。待たせた」


 青年の声で、ユールクは我に返った。青年は、火々獣の喉元を撫でていた。先の烈火の如き戦いぶりからは想像もできぬほど、優しく。


「あ……」


 彼が獣から手を離し、自分の方を向いた時、ユールクは口をはくはくと動かした。

 感謝があった。動揺があった。恐怖があった。それでも彼はありがとうと、口にしたはずだった。


「に、人間じゃない……」


 しかし、彼の口から出たのは、捨てたと断言したはずの『おそれ』だった。

 歩み寄ろうとした青年が、足を止める。彼は僅かに目を見開いて、そっと顔を伏せた。ユールクは胸がぎゅっと締め付けられるような心地に、息を呑んだ。

 傷つけてしまったという確信が、彼の中を走り抜けていった。


「うわぁっ!」


 刹那、火々獣がうなりを上げて、青年の前に飛び出そうとした。ユールクは悲鳴を上げて、じりじりと下がる他なかった。


「よせ」


 青年が火々獣を止めると、彼女は憎々しげにユールクを睨みながらも、それ以上踏み込もうとはしなかった。


「ごめんなさい」


 ユールクの目から涙がぼろぼろ零れ始めた。おそれを捨てたと言った自分は、結局、それを捨てきれず、青年を傷つけてしまったのだ。ひくつく少年の小さな胸の中に、巨大な恥があった。


「おそれを警戒しろとは言った。だが、捨てる必要はない」


 青年は血しぶきを払い、納刀しながら、やはり静かにユールクへと言った。


「ここにいろ。終わらせてくる」


 その言葉もまた、ユールクに一つの逃れられない真実を突き付けた。自分は彼の相棒にはなれないのだと。憧れに眩んでいた目が、急に空の寒々しい青を取り戻した。


「ぼくは、その、水場まで戻ります。顔を、洗ってきます」


 少年はよろよろと立ち上がって、ただ、夜を過ごした場所まで、力なく歩く他は無かった。一度たりとも、青年の方を振り返る勇気はなかった。

 次第に足が勝手に走り出した。落ち葉を蹴り、小枝を踏み、ユールクは野営した場所に飛び込むと、湧き水に顔を突っ込んだ。そうして、水の中で大声を上げた。誰にも叫びを聞かれたくなかった。ごぼごぼと泡になって、彼の激情はせせらぎと共に流れて行く。

 息を荒げながら、ユールクは水から顔を上げた。真っ赤に火照った頬を雫が伝う。少しずつ熱が薄れていくのを、彼はしっかりと感じ取っていた。


(何をやっているんだろう、ぼくは。あの人はぼくを守ってくれたのに)


 ユールクは改めて、自分の恥と向き合った。

 勝手に憧れて、勝手に怯えて、しかも守ってくれた相手をなじって、逃げてきてしまった。村でこんなことをしたら、笑いものになっていただろう。


「おそれを捨てる必要はない、か」


 ユールクは始末も終わって黒々と湿った焚き火跡を眺め、青年の言葉を反芻した。彼は水たまりに映る自分の顔を、じっと見つめ始めた。

 おそれとは何だろうか。ユールクはたくさん想像した。

 一日前までは、村を失うことも怖かったのだろう。

 今は人間が敵対してきた事実が怖かった。

 刃が怖かった。尖った鏃が怖かった。あの青年の笑みが怖かったし、そもそも、あんな巨大な狼など恐怖以外の何物でもない。憎い黒衣だって。けれど、それはあくまで外側から来たものばかりだった。

 もっともっと、今まで見向きもしなかった自分の内側を、ユールクは覗き込む。

 未熟だと知られるのが怖い。役に立たないのが怖い。怖がっていると知られるのが怖い。恥ずかしい思いをするのが怖い――否、ひとりぼっちになるのは、もっと怖い。

 ユールクの中には、おそれがいくつもあった。ただの数日で捨てられるわけがない。それは黒衣の影に怯えながらも、穏やかな村で育ったあたりまえのおそれだった。

 水に映る自分の顔を見ながら、ユールクはじっと自分の中のざわめきに耳を傾けていた。


『ああ、怖い、怖い』


 その声が聞こえた時、ユールクは一瞬だけ、水面に映る自分がそう言ったのかと錯覚した。違うと理解するや否や、彼は慌てて振り返った。

 そこにいるのは、真っ黒な巨影だった。毛並みを持たぬ、つるりとした鱗があった。日光に照らされて白くは輝くものの、どこか脂ぎった妙な艶を放つ。見るからに強靭な四肢の先には曲線を描く爪があり、前肢には皮膜がついている。いかめしい顔には大きな金の目がついていて、それがぎょろぎょろとユールクを値踏みしている。まっすぐと伸びた角は、頭を振るだけで人を突き殺してしまうだろう。


(黒衣!)


 村を焼き払われたユールクが、それを見間違うはずはなかった。彼の身体は強ばった。


『そう、そう怖がらないでおくれ。ああ、かわいそうな人の子だ……見ていた、見ていたとも。無謀な同族に、死を強いられている』


 老竜は優しく語り掛けてくる。そのしわがれた声は鼓膜をすり抜けて、頭に直接訴えかけてくる。勝手に自分の中に入ってくる。不快感にユールクは奥歯を噛み、弓を手に握った。


『怖がらんでもいい。わしは小さきものを愛しておる』

「嘘つき! ぼくらの村を焼いたくせに!」

『おお、おお……お前はわしが焼いた村の者か。かわいそうに』


 ユールクが矢をつがえても、黒衣はおそれを抱いていないようだった。それどころか、四肢を一歩踏み出して、少年に近寄ってくる。その振る舞いは、どちらかといえば人懐こい印象さえ与えるほどだ。


「お前がそそのかした人を見た。みんな怯えていた!」

『そそのかしたとは人聞きの悪い。彼らはみな、自らわしに従うと言ったのだ』

 黒衣は喉を鳴らし、小首を傾げた。

『お前はまだ幼い。守られるに値する幼体だ。違うか?』

「ぼくを育んでくれた人は、お前がみんな殺したんだ!」


 腹のあたりから沸き上がる怒りを、ユールクはそのまま口から吐き出した。


『おお、おお。かわいそうに。お前だけ生き残らせてしまった。それはわしの不手際だ……幼体だけが生き残る、さぞ寂しかろう』


 黒い竜は頭を下げるような素振りをした。あんまりにも素直な対応に、ユールクは面食らって一歩たじろいだ。


『お前は無理をしている。身の丈に合わぬ夢を抱き、竜殺しに加担しようとしているのだ』


 顔を覗き込もうとする黒衣に、ユールクは矢を放った。だが、ただの矢では竜の外皮を穿つことも叶わない。弾かれた矢を、黒衣は器用に前肢で拾い上げた。


『どれ、どれ。詫びにわしがお前に施してやろう。何が欲しい? 金か? 力か? それとも……あの人間の心か?』


 ユールクはどきりとした。その一瞬をついて、黒衣は目と鼻の先まで頭を寄せてくる。


『お前はあの男に並ぶ雌狼に嫉妬しているのだ。わしもあの狼どもを疎んじておる。わしにはいと言えば、あの男の命を助けてやる。あの狼を殺してやる』


 黒衣の囁く言葉は、どれも幼い少年の心に染みこむ甘さを帯びていた。


『無理をすることはない。お前はありのままでよいのだ』


 しわがれた声を聞きながら、ユールクは、自分の心に問いかけた。

 例えば黒衣に勝てなかったとして。都合良くあの獣が死んで、青年と自分が生き残って、どこへ行くかも分からない彼に縋り付いたなら。それは一瞬だけ夢見た『相棒』になるのではないか。


『さあ、さあ。わしはお前の願いを叶えてやるぞ……武器を捨て、話し合おうじゃないか』


 ずるい。卑しい憧れだ。気に掛けていた子が自分以外の誰かに話しかけたのを見た時のような、じりじりと胸を締め付ける感覚があった。それもまた、おそれのかたちをして、ユールクを笑っていた。彼は、自らの中にある卑怯な心を、心から恥じた。


「……そうだ。ぼくは彼に焦がれている。あの狼と入れ替わって、相棒になれたらって思った。今でもそう思ってる。あの人がどこから来て、どこへ行くのか。どういう人なのか。知りたい。知りたい。分からないのも怖いから」


 そして、彼は自らの矢筒に入ったぼろの矢をおずおずと手に取り、両手で胸の前に差し出した。矢を献上するような動きに、老竜が瞬膜を細める。ユールクは胸一杯に、竜鳴き山の空気を吸った。


「だけど、ぼくは分からないままでもいい! 裏切るぐらいなら、知らない方がずっといい!」


 そうして、吼えた。叫んで、矢をへし折る音をあたりに響かせた。ここにいる。ぼくも、黒衣も、ここにいると。

 次の瞬間、全てがめまぐるしく動き始めた。

 ユールクの身体は宙に持ち上げられていた。黒衣が掴んでさらったのだ。そして、黒衣のいたところには、火々獣の姿があった。彼女の爪を、老いた竜はすんでのところでかわして空へ逃げたのだ。


「火々獣!」


 少年は黒衣に掴まれたまま、空を飛んだ。森を抜けた砂利道が、少年の双眸に映った。火々獣が遠吠えを一つあげて、追いかけてくる。その進路上に、駆ける姿があった。


「戦士様っ!」


 青年だ。あの戦狂いの双眸で、黒衣を睨んでいる。彼は火々獣に飛び乗って、そのまま追跡を始めた。灰色の砂利を踏みしめて、岩を飛び越えて、竜の逃げる山の頂へと至る。

 息もできないほどの向かい風の中、ユールクは生まれて初めて竜鳴き山の頂上を見た。人から奪った金銀に混じって、若い竜の骨が晒し者にされていた。骨に残ったわずかな皮膜が、領地の旗のごとくなびいている。


『はっは、人は弱い生き物だ』


 ユールクを握ったまま、黒衣は巣の上空で羽ばたく。


『小さきもの、小さきものはいい。特に、守られているものはいい。それを壊すと人間は声を上げる。より小さくか弱いと一層叫ぶ。動かぬものよりはるかに反応する』


 黒衣がわずかに力を入れる。それだけで身体が潰れてしまいそうで、ユールクはうめく。


『そうして何度も壊してやると、頭を垂れ始める。本来の弱さを認め、わしに飯をねだる幼体同然になる。ああ、かわいそうだ。握り潰したくなるほど愛おしい』

「戦士様、こんな奴のこと聞かないで! ぼくごと射って構いません!」


 苦悶の中、ユールクは覚悟を決めて眼下の青年に叫んだ。彼はあの赤紫の瞳がわずかに揺らいだのを見た。一瞬でも自分を気にしてくれたのだと思うだけで、ユールクは満たされた心地がした。だけど、彼もただ焦がれるだけなのはやめにしていた。

 黒衣が息を吸い込み、戯れに火を吹いた。痛いほどの熱波がユールクの頬を炙る。


(反撃の機会を。それだけあれば、きっと)


 この時も、彼は藻掻いていた。懐には、狩人ならば持っている解体用の小刀が入っている。少しずつ、窮屈な身体をねじって、それに手を伸ばしていた。


『おお、おお。よくよく見れば、その衣。見覚えがあるぞ』


 不意に、黒衣が青年を真正面に捉えてそう呼びかけていた。まだ。あと少し。


『西の果て。ああ、あの国だ。わしらが初めて焼いてやった国に、かような布をまとった人間がおった』

「覚えているか?」

『布、布。ああ、何だったか。そう、騎士だったか。民一人守れもせぬ無意味な者の布だ』


 ユールクはあがきながら、青年と黒衣のやりとりを聞いていた。彼の声は静かなのに、風の中でもよく通った。


 ――遠い西に、伝説の地があると聞きました。


 少年は小刀を掴んだと同時に、自らが語ったその伝承を思い出した。しかし、彼はそれを振り払った。力を振り絞った。小刀を懐から引き抜いた。そうして、無我夢中で黒衣の爪と肉の柔いところに突き立てた。彼自身の力で突き通せるのは、もうそこしか考えられなかった。


(この瞬間に戦士様が射ってくれれば!)


 突然の反撃に、黒衣が叫びを上げる。動物が反射を持つように、黒衣もまた反射でユールクを手放した。


(ああ。ほんとは戦士様のこと、聞きたかったな)


 重力加速度に手足を掴まれながら、ユールクは最期にひと目と青年を見た。彼は火々獣にまたがって、大地を駆けていた。

 わずかな衝撃があった。気が付くとユールクは青年の腕の中にいた。


「そうだ。おれはお前たち黒衣の一族に国を滅ぼされたものだ」


 何が起こったか分からないユールクは、きょとんとして青年の言葉を聞いていた。彼の双眸は、黒衣に向いていたけれど、声ははっきりと聞こえていた。


「守れず、救えず、西の果ての国で、ただ一人生き残ったのがおれだ」

「ど、どうして……」


 ユールクの発した「どうして」は、黒衣を射ずに自分を助けたことへの問いだった。けれども、青年は言葉を続けた。


「森の奥に瀕死で這いずって、彼女に出会った。竜に後塵を拝した一族の誇りを取り戻すことが彼女の夢だった。ゆえに、おれたちは取り決めを交わした」


 青年は一度だけ、ユールクの頭に触れた。ごつごつとした歴戦の手から、少年は温もりを感じた。急に、死を覚悟したことも怖くなって、涙が滲んだ。


「おれの全てをくれてやる代わりに、共に『黒衣の一族』を皆殺しにする――貴様らを殺す願いが叶うなら、おれ一人の命など安いものだ」


 青年の声は、今までのどれよりも優しく、寂しい色を帯びていた。

 何も言わず、ユールクは青年にしがみついた。その時、ユールクの中で、青年は確かに『ユールク』になった。彼もまた、いつか平和に暮らしていた日を失った誰かだったのだ。


『そのために、そのために日陰者の雌犬なぞに心臓をくれてやったのか! なんと哀れな!』


 黒衣は哄笑を隠さなかった。羽ばたいて、再び高みに至ると、老いた肺にありったけ息を詰め込んで、炎を吐き出した。頬を撫でた熱波よりなお熱い灼熱の光が迫ってくる。今度は戯れではないと、少年にも分かった。


「ユールク」


 光の目前で、青年が再び口を開いた。その手に竜殺しの矢が入った矢筒を持ち、少年へ差し出しながら。


「あいつの胸にある逆鱗を狙え。できるか」


 ユールクは矢を受け取って、光の中でも見失わないよう、しっかりと握りしめた。そうして、自ら青年から離れて、火々獣にしがみついた。


「できます! 絶対にやります!!」

「分かった」


 火炎の息吹に、火々獣は自ら飛び込んだ。


 ――かつては竜とこの世の炎を二分し、敗北はすれど未だ竜の天敵として名を残す!


 ユールクは、炎を吸った彼女の黒い毛並みが、燃える炭のように赤く輝くのを見た。炎は少年と青年を燃やすことなく、ただ、火々獣の毛や口に喰われて霧散していった。

 彼女が吼えながら灰の大地を蹴り、黒衣の喉笛に飛びつく。だが、それでは届かない。彼女の牙は空を切る。今度は青年が剣を引き抜きながら、火々獣の背を蹴り、黒衣の傷ついた前肢を掴んだ。


『愚かな、愚かな人間! なぜわしを殺そうとする! 手向けか! 祈りのつもりか!』


 初めて、黒衣の声に焦りの色が見えた。彼は激しく羽ばたいて、青年を振り落とそうとする。けれど、超人的な力を持つ青年は、身体を振り子のように大きく振って、前肢から竜の背中に飛び乗る。赤紫の瞳をぎらつかせ、歯を剥いて刃を振り上げる。


「復讐だ。復讐以外にあってなるものか」

『復讐、復讐だと!? 堕ちた騎士よ、何と哀れな!』


 竜と青年はもつれながら、空中を落ちてくる。かと思えば急上昇する。青年は竜の角を握りしめて、振り落とされないよう耐えている。


『失ったなら一からやり直せば良いではないか。それさえ分からぬほど堕ちたのか!』

「何とでも言え! おれは、お前と、お前の一族を許さない!」


 その最中、彼の激情が漏れて、ユールクの耳に届いた。彼の悲しみと怒りに満ちた目は、切実に輝いていた。泣いているようにさえ見えて、ユールクの喉をつっかえさせた。


『殺すことなぞ叶わぬ夢よ。わしは黒衣。老いてなお、この世の火を統べる竜ぞ!』


 ユールクは幾度となく放たれる火炎の吐息から火々獣と一緒に逃れ、矢をつがえて黒衣を凝視していた。彼のよろっている鱗にある、ただ一つの乱れ。それが逆鱗だ。

 竜のはばたく突風が、ユールクの柔らかな頬を裂いた。砂利や石つぶてが身体に当たって、いくつも擦り傷や打撲を作った。彼は、ただ歯を噛んで時を待ち続けていた。


(見えた!)


 それを、狩人の少年はついに見つけた。緻密な鱗の鎧の一点に、ほんのわずかな歪みがあった。青年は頑強な竜の首に剣を振り下ろし、黒衣の注意を引いてくれている。刃と鱗が衝突する。青年の力をもってしても、小さな傷がつくだけだ。だけれども、青年はユールクの方へ黒衣を向けぬよう、奮闘していた。


(ぼくが射て届けられるのは、きっと最初の一本だけだ。後は警戒されてしまう)


 弦を引く。引く。ありったけの力と祈りを込めて、引く。

 外れたら。青年に刺さったら。おそれはいくらでもあった。でも、ユールクの邪魔をすることはできなかった。許さない。殺してやる。そんな恐ろしい感情さえ、彼の渾身の一矢を阻めはしない。


(だから、当てる! それだけ!)


 ただ射って、当てる。矢を放ったユールクの中にあるのは、それだけだった。


『愚かな! 愚かな! 復讐など何のためになる! 死んだお前の友が、それを望むと思っているのか!』


 黒衣の逆鱗、そのわずかな隙間に、ユールクの矢が届き、鏃がめり込んだ。剣さえまともに通らぬ強靭な皮の内にある、筋繊維のひとつひとつを引きちぎり、深く深く刺し貫く。老いた心臓を、強大な命の象徴を穿つ。老竜の叫びが、山の全てを震わせる。


「悲しんでくれる者は――」「――もういないんだ!!」


 中空で動きを止めた老竜に、二人は同じ言葉を唱えていた。矢に遅れて、青年の剣が竜の首をとらえた。何度も剣を突き立てて作った傷口から強引に刃を差し込んで、力ずくでねじ込むと、ついに黒衣は大地に落下した。

 青年も力尽きたように剣から手を離し、地面に投げ出された。


「戦士様!」


 ユールクがそう呼びかけるのと、火々獣が青年のところへ到着するのは同時だった。目を閉じ、疲労しきった様子で胸を動かす青年は、戦狂いとは程遠い、優しい顔立ちをしていた。


『何故だ……』


 うっすら目を開けた青年の頬に触れようとしたユールクは、ぎょっとして黒衣の方を向いた。黒衣は首を半ばまで落とされながら、最期の息を漏らしていた。


『お前達、人間とて、戯れにからかうだろう。蜥蜴の卵を潰すだろう。何故、わしばかりが、遊興を咎められねば、ならぬ……』


 それを聞いたユールクは何か反論してやろうと思った。だけれども、そうしなかった。代わりに灰色の空を仰いで、蜥蜴の報復や、老いさらばえた竜の来歴に想いを馳せた。

 老竜の金の瞳は、もうどこも見ていなかった。



 竜亡き山から穏やかな風が吹き始めた頃、一人の青年と一頭の獣、そして一人の少年の姿は山の麓にあった。

 ユールクは初めて、山の向こう側に足を踏み入れていた。目と鼻の先に見た事もないレンガ造りの街があり、山の様変わりを見た人々が何事かと姿を見せている。


「あの街に駆け込めば、彼らはお前を助けてくれるだろう」


 ぼろぼろの青年はそう告げながら、火々獣を撫でていた。

 ユールクたちは金銀財宝に目もくれず、山を越えてきた。ただ、竜の角を竜殺しの証として持ってきただけだ。

 あの後、ユールクが見たのは命の循環に他ならなかった。死した竜の気配を察したか、隠れていた獣たちが彼の亡骸に近付いてきたのである。黒衣の近くからは、草が芽吹き始めていて、臆病な野兎さえも顔を出していた。

 どのように残虐な存在でも、死ねばみな同じである。どこかへと還っていく。いつか父母や亡き祖父が語った命が巡るという言葉の真意を、ユールクは何となく、自らの感覚として知れたような心地がした。

 今は獣たちが命を取り戻す時間だ。それが終われば、金銀も人々のところへ戻るだろう。そうして、竜鳴き山に別の竜がやってくる。ユールクはそう確信して、青年と山を下りたのだった。


「街で休まないんですか?」


 ユールクがそう訊ねると、青年は首を横へと振った。このままゆく。まだ黒衣の一族は残っている――彼が言わずとも、少年には分かっていた。


「じゃあ、ここでお別れなんですね」


 山を下りる時、彼は何度も青年についていきたいとせがむか迷った。だが、そうしないことにした。だから青年と火々獣の側から離れて、弓といくばくかの荷物を背負い直した。山を登る時より、荷物はずっと軽くなっていた。


「お気を付けて」


 ユールクは青年に手当てしてもらった頬の傷跡を撫でながら、はにかんだ。

 元の毛色に戻った火々獣はといえば、相変わらずユールクに興味がなさそうな様子でそっぽを向いていた。


「あいさつだけでもしておけ。彼のおかげだ」


 青年が火々獣の首あたりを軽く叩くと、彼女は嫌そうに目を細めた。彼女は一吼えすると、鳥肌でも立ったのか、身体を振るう。ユールクがその仕草に笑うと、彼女は一歩踏み出してうなる。少年が慌てて身を引っ込める。青年は一度だけ、肩をすくめた。

 ユールクは青年の相棒ではないが、確かに青年と魔狼の仲間だった。


「ああ、そうだ」


 青年は、ふと自らの衣の懐を漁った。そうして、きらめく何かをユールクへと放り投げた。少年がそれを受け取ってしげしげと眺め始める。それは、白くきらめく金属の板だった。


「生活の足しにするといい。おれには不要だ」


 少年は返事もせず、じっと金属板を眺めていた。白金の板には、文字が記されていた。指でその凹凸をなぞって、彼は声に出す。


「ギュスターヴ」


 その音が何を意味するか理解した時、少年は顔を上げて青年のかんばせを見た。

 金銀に目もくれぬ彼が、人の財を持っているわけはない。これはきっと、目の前の青年が西の果てにいて、騎士だった頃のものだった。そして、自分に向けられた、最初で最後の名乗りだった。


「ありがとうございます。これがあれば、ぼくは、ずうっと生きていけます」


 もう一度、ユールクは胸の中でその名前を唱えた。それだけで、また少年の胸はいっぱいになった。売るなど考えもつかなかった。この響きさえあれば、いくらでもおそれを抱いても前に歩ける気がした。


「ユールク」

「はい」

「お前は一人だ」

「……はい」

「だが、ゆえに自由だ。望むよう生きろ」

「はいっ!」


 ユールクは返事をしながら、赤紫の目をじっと見つめた。この色を忘れないようにと、焼き付けた。青年は彼の様子を見て、わずかに唇の両端を持ち上げた。それは、不器用だけれど優しい、彼そのものの笑みだった。


「……汝に末永く、火の加護がありますよう」


 青年は異国の祈りと思しき言葉を最後に、火々獣にまたがって駆け出した。ユールクは我に返って、走り出す。


「あのっ! 悲しむ人はいませんが、心配する者はここにいます!」


 彼との距離が離れきってしまう前にと、声を限りに叫んだ。花咲く大地を蹴って、転びそうになりながら、彼に叫び続ける。


「いつか! いつか会いに行きます! 馬に乗れるようになって、もっともっと強くなったら! 必ず会いに行きます! だから、ギュスターヴ様!」


 森に消える前に、青年と火々獣は一度だけ振り返った。立ち止まったユールクはできるだけ笑顔でいようと思ったが、それはくしゃくしゃの泣き笑いになっていた。


「それまで、生きてください! 約束ですよ! 約束ですからね!」


 返事の代わりに片手を挙げ、青年と魔狼は鬱蒼と茂る森の奥へと溶けるように消えていった。

 ユールクはその輪郭がまなうらから消えるまで、じっとその闇を見つめていたが、彼の名が記された宝物と角を手に、街の方へと向き直った。


 まだ自らのさだめも知らぬ少年の背を、竜鳴き山から吹く風が優しく押していた。

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