橋本さんのどこが好きなの?
「聞いたよ。橋本さんのことが好きなんだって?」
帰り際、明里が突然そんなことを言ってきた。
その日は生徒会の手伝いでたまたま帰るのが遅れて、教室には俺一人きり。
きっと明里は、こうなるタイミングを見計らっていたんだろう。
にやにや笑いを浮かべる彼女は、スキップで俺の目の前の席に座って、俺にももう一度席に着くよう促してきた。
「誰から聞いたんだよ、そんな話」
その話を俺がうっかり漏らしたのは、ほんの数十分前、生徒会室で雑談をしていた最中の話だ。
恐らくその場にいた役員の誰かから聞いたんだろうが、流石に情報が早い。
「誰だっていいじゃん。犯人捜ししたいわけでもないんでしょ? で、本当なの?」
ま、確かにどういうルートで明里のところまで話が伝わろうと、どうでもいい話だな。
明里は腐れ縁の幼馴染み。何もしなくたって、俺の恋心に気付いていてもおかしくない。
俺は観念したように頷いて、明里に向かい合うように腰掛けた。
「本当だよ」
「うちのクラスの橋本さん?」
「……まあ、そういう言い方もできるけど」
「それは単に好きなだけ? 眺めて満足するタイプのやつ?」
「いや……近いうち告白しようと思ってる」
「へえ」
微妙な表情を浮かべた後、顔を背ける明里。
そんな顔するんだったら、最初っから聞くなよな。
しばらくしてから、明里は作ったような笑顔でこちらを向いた。
「確かに橋本さんは可愛いからね。俊介のようなピュアな青少年が惚れてしまうのは仕方ないかも」
その見下ろしたような声色が、妙に鼻について。
「別に見た目だけで好きになったわけじゃない」
「ふーん」
しまった。やぶ蛇だった。
そう気付いた時にはもう遅かった。
待ってましたと言わんばかりに、明里は爆弾を投げ入れてくる。
「じゃあ橋本さんのどこが好きなの?」
「……マジかよ。そういうこと聞いちゃうか」
「聞いちゃう。だってさあ、もう十年来の腐れ縁じゃん」
「親しき仲にも礼儀ありって言うだろ」
「時として、ずけずけものを言うことこそが礼儀だったりするんだよ」
あながち間違ってないと思わせてくるのが小憎たらしい。
明里とはかれこれ保育園の頃からの付き合いで、お互いのことはよく知っている。
それだけに、思考を誘導するのも簡単ってことなんだろう。
誘導されているのはきまって俺ばかりだが。
「というわけで、この親友に話してみなさい。俊介が橋本さんの一体どこに惚れたのかを」
いつの間にか、明里に右腕を握られていた。
どうやら逃げることはできなさそうだ。
「……ノリが良くて、話してて楽しいこと、とかかな?」
なんとか絞り出した言葉を嘲笑うように、明里は机を指で軽く弾いた。
「ふーん。じゃあ、橋本さんのノリが悪くなったらもう好きじゃなくなるんだ?」
「なんでそうなるんだよ」
「だってそこが惚れた理由なんでしょ?」
「別に理由はそれだけじゃねえし」
「でも、ノリがよくて可愛い女の子なんて橋本さん以外にも結構いると思うよ」
自分を指さしながら、明里は不敵な笑みを浮かべた。
「ノリがよくて可愛い女の子と付き合いたいだけなら、別に橋本さんに拘る理由なんてないんじゃない?」
何が言いたいのか分からないが、理由が足りないということならまだ列挙してやろうじゃないか。
「惚れたところはまだあるぞ。例えば、優しいこととか」
「ノリがよくて可愛くて優しい女の子と付き合いたいだけなら、別に橋本さんに拘る理由なんてないんじゃない?」
こいつ、それで全部押し切るつもりか。
「お調子者に見えるけど、意外と謙虚で周りを立てられるところとか」
「ノリがよくて可愛くて謙虚で優しい女の子と付き合いたいだけなら、別に橋本さんに拘る理由なんてないんじゃない?」
「多趣味で、一緒にいたら毎日退屈しなさそうなところとか」
「ノリがよくて可愛くて多趣味で……謙虚で優しい女の子と付き合いたいだけなら、別に橋本さんに拘る理由なんてないんじゃない?」
「あとこれはちょっと言うの恥ずかしいんだけど、仕草が一々コミカルで可愛いと思ってる」
「……えーと、ノリがよくて可愛くて、多趣味で、仕草がコミカルで、謙虚で優しい……女の子と付き合いたいだけなら、別に橋本さんに拘る必要なんて……」
「なあ、自分で言ってて無理があるとは思わないのか?」
「……」
明里の余裕ぶった表情はみるみるうちに失われていって、最後に残ったのはすがりつくような苦笑い。
なんでそこまでして、俺の恋心を否定しようとするんだろうか。
「明里が何を言いたいのかはわからんが、そこまで否定することないだろ。俺は別に、誰かの一面だけを見て人を好きになったりするつもりはないぞ」
明里の表情筋がぴたりと固まるのを見た。続いて彼女は、渋面のまま顔を背けた。
「俺にとっては、替えの効かない大切な存在なんだよ」
呼吸にして数拍。息の詰まるような沈黙が流れ、明里がおもむろにこちらを向いた。
「分かったよ。確かにそこんところはよく分かった」
両手で俺を宥めるような手振りをする明里だが、今の状況で落ち着いていないのはどう見ても明里の方だと思う。
「でもさ。たとえ俊介が橋本さんの今を全肯定したところで、橋本さん、ずっと俊介が思う通りの橋本さんじゃないかもしれないよ?」
「どういう意味だよ」
「優しい人が好きって言ったよね。それってつまり、優しくなくなったら好きじゃなくなるってことだよね。それって、本当に真実の愛なのかな?」
真実の恋なんてものの話をしたつもりはなかったのだが、明里の中では重要なことらしい。
それなら答えないわけにもいかないか。
「優しいところだけが好きなわけじゃないって言っただろ。一つ一つの要素を積み上げて、最後にできあがった総和としての『好き』なんだ。それが全部揺らぐことなんて」
「ないとは言えない! 言えないよ! 人はちょっとしたことで変わるものだからね。社会の荒波に揉まれる中で擦れて優しさとノリの良さを失うかもしれないし、趣味なんて飽きたら簡単に変わるものだし、マグマに落ちたりして可愛くなくなるかもしれない!」
「いや前提がおかしいだろ!」
マグマに落ちたら可愛いとか以前の問題だわ。死ぬわ。
「ま、まあきっかけはなんでもいいんだよ。つまりさ。優しいところが好きだから告白するっていうのは、だから貴方はずっと『優しい』貴方でいてくださいって言うのと同じだよねっていうか。好きなところを取りこぼしたら、それだけ気持ちが離れますよって言ってるようなもんで……」
「聞かれなかったらこんなこと一々言わないぞ」
「そ、それもそうだね。あはは……」
気まずそうに目線を逸らす明里。
いい加減に俺もじれてきた。
いつの間にか離れていた明里の手を逆に握ると、明里はびくりと肩を震わせた。
「!? な、何!?」
「いい加減にしてくれよ。嫌ならそうだとはっきり言ってくれ。俺が告白するのがそんなに嫌なのか?」
「嫌とか、じゃないけど……」
たじたじになりながら、明里は――――否。
「『橋本さん』、怖いんだよ。今更関係を変えるのがさ」
橋本明里は、そう言った。
「十年幼馴染みやってきたわけじゃん。厳密に数えるとそれ以上かな。それで今までこういうこと一切なかったわけじゃん。なんで急にこんなこと言い出したのかなって」
「十年幼馴染みやった結果、関係を変えたいと思ったのが今だからだ」
明里の手からにじみ出す手汗が、俺の肌にもじんわりと伝わってくる。
思えばこうやって手を握ったのは、小学校低学年の頃以来かもしれない。
「明里は俺のこと嫌いか?」
俺がそう聞くと、明里は慌てて首を横に振った。
「嫌いじゃないよ。嫌いだったら腐れ縁続けてない。だけど、っていうか、だから。別に今のままでいいじゃん、って思う」
そうだな。俺も多分、数週間前まではそう思っていた。
「だってほら、親友とか幼馴染とかはさ、別に終わりがないじゃん。いつまで続けてても問題ないアレじゃん。でも恋人とかになったらほらもう……進むしかないじゃん。進まないなら、逸れるしかないじゃん」
だけど終わりがないってことは、裏を返せばそこで終わりってこと。
「俊介が橋本さんのこと評価してくれてるのは分かったけど、逆に橋本さん、俊介が言ってるようなきらきらな橋本さんであり続けられる自信ない!」
「いや明里……俺のことどんだけ狭量な人間だと思ってるんだよ。今だって別にそんなこと求めてないだろ!」
「でもほら、恋人って別れるんだよ!?」
「それは一般論の話をしてるのか? そういう話なら、親友とか幼馴染みだって、一生関係が続くわけでもないだろ」
明確な終わりがあるか、自然消滅的に消えていくかの違いだけだ。
「でもほら、実際俊介はさっき言ったみたいなそういうところ、気にするんでしょ?」
「俺、長所を聞かれたから長所を答えたけどさ。少なくとも俺たちの関係において本当に大事なのは、経緯だと思うんだ」
「敬意?」
「そっちじゃなくて、経緯。十年来の幼馴染みで、お互いのことはよく知ってる。小学四年生の時に行った林間学校の時のこと、覚えてるか?」
「……肝試しで怖がりすぎた俊介が暴走してどこかにいっちゃって、皆で探し回ったときのこと? あのときは大変だったねえ」
「その時最初に見つけてくれたのは明里だったよな」
「俊介がどういうところに逃げ込みやすいかは、それはそれはもうよく知ってるから」
「小六の時、俺が風邪を拗らせて入院した時のことは?」
「ああ、毎日看病に行ったねえ。最後の運動会参加できなくて残念だったねって、リンゴ剥きながら話したの覚えてるよ」
「小三の時、クリスマスプレゼントでゲームを買ってもらったときのことは」
「一番にお呼ばれして、一緒にやったね。買ったのはバグだらけのクソゲーだったけど、めっちゃ面白かった記憶がある」
「中三の時、明里が怪我して部活最後の大会に出られなかったときのことは」
「俊介、何度もうちに来て励ましてくれたよね。あのとき支えてもらえなかったら、引きずって受験まで失敗してたかも」
「そういう思い出が一つ一つ積み上がって、俺は明里のことが好きなんだと思う」
きょとんとして、まばたきを繰り返す明里。
俺は明里の手を両手で包み込んだ。
「だから、肩肘張る必要なんてない。ありのままの明里がこれから俺の知らない明里になっていくなら、その変化も含めて好きになるよ」
「俊介」
「だいたい、この十年で明里が何も変わってないと思う方が大間違いだ。小一から小二にかけてとか、給食のお代わりで毎日酷い喧嘩になってただろ?」
「……あー……そんなことも、あったねえ……」
「明里が多趣味になったのだって中三の時の怪我から暇をもてあましたのが原因だったはずだし、中学受験でコケるまでは割と傲慢寄りの性格だったよな」
「ちょっと! そういう余計なことは忘れていいんだよ!?
掘っても掘り尽くせないほど、明里との間に紡いだ思い出のピースの数は多い。
それらの思い出の中には、決して綺麗とは呼べないものもある。
逆に言うと、今更思惑と違うものが少し混じった位で、気持ちが変わるようなことはないのだ。
「結局俺が好きになったのは、明里の優しいところでもノリがいいところでも謙虚なところでも心配性なところでもない。明里と過ごした時間そのものを好きになったんだよ」
「時間そのもの、かあ……」
明里はごくりと唾を飲み込み、それから慌てて顔を押さえた。
頬がほんのりと赤くなっているのが、指の隙間からでもよく分かる。
「な、なんだか照れるね……」
「それを踏まえて、改めて言おうか」
ひょんなところからそういう流れになってしまったけど、案外、これで良かったかもしれない。
何しろ俺の方も、実際踏み込むのを恐れていたところはあったのだ。
だけど明里の方から働きかけてくれたおかげで、こうして決心することができた。
「好きです。俺と付き合ってください」
まっすぐに向き合って、静かに言う。
照れ笑いを浮かべる幼馴染みは、一呼吸ほどの間を置いた後、穏やかな声音で頷いた。
その後俺たちがどうなったのかは、最早語るべくもないだろう。
リハビリがてらに書きました。気に入っていただけたら幸いです。