プロローグ 尾上信弘がパンダを目指した経緯について
最初に。この物語は読むだけ時間の無駄です。
時間を無駄に使う覚悟のある方だけ読み進めください。
笹野原学園屋上。
真昼間、そこに溜まるは、大人の敷いたレールに石を置いて笑う思春期の少年たち。ある少年は、黒い制服のボタンをひとつも閉めず、赤いシャツを解放している。またある少年は、肌寒さを無視して、ワイシャツを腕まくりしている。この場で金髪は珍しくなく、社会の異端児たちは集合することで、普通を得ていた。
柵に背を預けて、成人雑誌を読んでいた少年がぼやく。
「コンビニからなくなるらしいから一度くらいは買ってみたけどよ。案外こんなもんなんだな」
仲間のひとりが笑う。
「ネットでエロ画像探したほうがいいっつたじゃん」
「うるせー」
少ない小遣いで得たものが、無駄になることを嫌がり、少年は目をさらにして一ページ一ページをめくっていく。ぺらり。ぺらり。ピタリ。とあるページで少年の指が止まる。
「……なんだ、これ?パンダ、募集中?」
「はあ?」
周囲の少年たちが、突拍子のない文言に興味を惹かれ、集まってくる。
「なんだそりゃ。そんな馬鹿なこと書いてるわけねーじゃん」
「いやいや見ろって!」
少年が群がる仲間に、雑誌を大きく開いてみせる。そこには、求人広告がいくつか乗っていた。そのなかのひとつに、目立たない黒字で、たしかに「パンダ募集中」と書かれていた。
「マジじゃんうける。お前電話してみろよ」
「はー?やるわけねーじゃん。ネタだろこれ」
連絡先として記載されているのは、「柏天動物園」。県内に実在する施設だった。
柏天動物園は、十年前、パンダを迎え入れ、当時は多くの人たちが押し掛けた。まさに客寄せパンダの大盛況であったが、それからしばらくのち、パンダが亡くなった。
それ以来園は閑古鳥が鳴き続けることとなった。新しい目玉の動物が入ることもなく、県外はおろか県内のひとびとですら、話題にしないほどである。
そんな動物園が出した募集広告。
真に受けるものは、いくら社会の異端児たちの集団といえども誰一人としてなかった。もし電話するやつがいたら、そいつは掛け値なしの大馬鹿だと誰かが笑い、話は終わった。
雑誌は、そのページが開かれたまま、屋上に置きっぱなしにされた。持ち主の少年が、家に持って帰るのを嫌がって放置したのである。
誰もいなくなった屋上に、風が吹いた。
吐息のようなそよ風であったなら、本を数ページめくるにとどまっただろう。しかし、この時吹いた突風は、遠慮なしに雑誌本体を持ち上げて、宙に放った。
柵を超えて、雑誌は屋上から放り出される。落下の流れに逆らえるほど、一冊の雑誌に力はない。捨てられ、飛ばされ、このままなら雨に濡れてごみになる。せいぜいできる八つ当たりといえば、校舎の下を通りかかった人間に、思いっきり角をぶつけるくらいのものである。
学生は、遠くの空を見ていた。ビルの向こうの薄灰色の雲は、勢力を広げ、学校のほうに近づいてくる。授業は終わったが、放課後に用事のあった彼は、帰るころには天気予報通り、土砂降りに見舞われるだろうと溜息をついた。彼は傘を持ってきていなかったのだ。
ぽつり。
そのとき、学生の頬に、一滴の水滴が落ちた。あるいはそれは気のせいだったのかもしれない。雨雲ははるか前方に待機しており、彼の頭上に漂ってはいない。小さな憂鬱がみせた小さな幻覚であると考えたほうが収まりがよい。ただし、これが幻覚であったかどうかはそこまで重要ではない。
大事なのは、ここでとった学生の行動である。
彼が適切な行動をとっていれば、悲劇は起きなかった。最も良い選択は、こののち降るはずの大雨に備え、走ってそのまま帰ってしまうことだった。しかし、彼は神ではない。思考と試行の果ての結果しか手に入れることのできない、ただの人間である。回避できなかったのを責めるのは、酷な話だろう。
そう、結果的に言えば、悲劇は起きた。
愚かなことに、学生は校舎の下で立ち止まり、ふと、頭上の空を見上げてしまったのだ。
無防備にさらされる、額……。
四階分の旅を終えた雑誌の角の、狙いが定まった。
ガツン!!!「ぐえっ!?」
素っ頓狂な声が、周囲に響く。
それから一時間、学生は地面に伏して、気絶していた。彼が倒れていたのは、誰も通りかからない、いわゆる校舎裏であったので、発見者、救助者は現れなかった。
そして、雨が降ってきた。
幻覚ではない、本物の水滴が、学生の全身を濡らしていく。寒さに反応し、ついに彼は目を覚ました。
「ン……いたっ……あれ?」
上体を起こし、頭を振るう学生。呆然と、目の前を流れる水の線を眺めて、彼はひとつくしゃみをした。
「寒……」
肩を抱きつつ、学生は回らない頭で状況を整理する。
ここは、どこだ……? いや、その前に。
『俺は、誰だ……?』
胸ポケットに学生証が入っていた。彼は、自分の名前が、尾上信弘という名で、どうやらここ、笹野原学園に通う高校二年生であることを察した。
しかし、それ以上の情報は得られず、『尾上』は途方に暮れる。からだも冷えてきた。ひとまずどこかで雨宿りしようと立ち上がったとき、彼の傍らに、一冊の雑誌が開いているのに気が付いた。
そのページには、こう書かれていた。
『パンダ、募集中』
「…………」
尾上は推察する。
自分はもしかしたら、この雑誌を見ている最中に、何者かに襲われて気を失っていたのではないか?
尾上は、湿った雑誌を拾い上げ、学生証に書かれた住所の家に帰宅した。
そしてこの夜、彼は、自分が何者かを知るため、広告先に電話をしたのだった。
尾上信弘は、こうしてパンダ候補生『レッサーパンダ』になったのだ。
さあ、パンダライフを始めましょう。




