一章 フラスコーの町と豚髭男爵
半年前。
その女を見つけたのは、奴隷市に行った帰りだったと思う。
ぽつぽつと、雨が降っている日だった。吾輩の館の前には先代市長の銅像があるのだが、その銅像の台の端に腰掛けて、少女はぼんやりと空を見上げていた。
先代市長の像はその強欲さが顔に現れていて醜悪だが、この時ばかりはあの像にも存在価値があった。
永遠に残る醜悪な像と、消え入りそうな儚げで美しい少女のコントラスト。
――それは、言葉が出ないほどに美しい組み合わせだった。その美を、吾輩は生涯忘れないだろう。
服がボロっちい上に、おまけ全身泥だらけで薄汚れている。逃亡奴隷に違いない。吾輩は一応周囲を確認し、誰もいないことを確認してから、従者に少女をこの馬車に連れ込むように命じた。
少女は抵抗しない。だからあっさりとに馬車に乗せることができた。
少女を乗せて、馬車が走り出す。
「…………」
拉致されているというのに少女は何も言わない。表情一つ動かず、虚空を見つめたままだ。
そんな少女の頭から、するりとリボンが落ちる。
赤いリボンは窓から飛び出し、雨に打たれて水たまりに落ちた。
泥まみれになったリボンを、少女は顧みもしない。
――――銀髪と赤い瞳が特徴的な少女は、生気の無い顔で空を見る。
雨は、止みそうになかった。
フラスコーの町を牛耳る貴族と言えば、悪名高い《豚髭男爵》だろう。本名はピッグル・ブーテンブルックというのだが、そう呼ぶのは彼と直接会うことがある媚び媚びの、腰の低い奴らくらいだ。
でっぷりと太っているため突き出た腹と、口から出る下品な言葉。
貴族らしい立派な髭と、丁寧な喋り方。
その相反する特徴から付いたあだ名こそが《豚髭男爵》だ。
重税を搾り取られる恨みを乗せて、住民達は陰で《豚髭男爵》の名を呼んだ。
しかしその名を本人の前で言うものは、決していない。いや、正確に言えばかつてはいた。
――――《豚髭男爵》は、そのあだ名で呼ぶものを決して許さない。
~ボン・マルコ『北域見聞録』より~
朝。労働者の大半が働いている、日も既に高く昇りつつある頃。吾輩はようやく布団から出る。ベルでメイド共を呼びつつ、カーテンを開けた。カーテンを開ける、これが吾輩の今日唯一の労働だろう。全く、恐るべき重労働だ。これからはカーテンを開ける係を雇った方がいいかもしれない。
窓からは吾輩に税金を納めるために、あくせくと働く庶民共の働きっぷりが見えた。うむ。いつも通りだ。
吾輩が顎髭を撫でながら窓を眺めている間も、昨夜を共にした二人のメイドがしっかりと働いている。一人は丁寧な仕草でコーヒーを淹れ、もう一人は自分の服を着ることもしないまま、吾輩に服を着せてした。当然だ。主人が裸なのだから、先に服を着る方が間違っている。
「今日の朝食はトーストとスクランブルエッグだ。それと、風呂を沸かしておけ。早急にな」
「「かしこまりました」」
吾輩が命令すると、裸のまま二人は頭を下げて部屋を出ていった。片方の……名は覚えていないが女の割に背丈がある方は、やはり何度見ても吾輩より背が高い。そのことで昨日は怒鳴り散らして殴りつけたが、今日は怒鳴り散らしていないし、手も上げていない。
――今朝の吾輩は寛容だな。
うんうんと頷き、吾輩は部屋を出てすぐ近くにいた別のメイドに尋ねた。
「おい、朝食は後どれくらいでできる?」
「まもなくできます! しばしお待ちを!」
「遅いな。……風呂は?」
「それなら、もう沸かしてあります!」
「なら許してやろう。アレも呼べ。そうだな……今日は三番の服にしろ」
「分かりました! 寛大なお心に感謝します!」
「よい」
頭を下げるメイドを無視し、吾輩は浴場に向かった。先程メイドに着せさせた服を無造作に投げ捨て、浴場の扉を開けた。
風呂場で待機していたメイド達に身体を洗わせ、下がらせる。
それからしばらく湯船に浸かっていると、コンコン、と風呂場の扉がノックされた。
「入っていいぞ」
吾輩が許可すると、おずおずと一人の少女が入ってきた。
宝石のような、実に美しい少女だ。透き通るような銀髪に、ルビーのような瞳。どちらも人とは思えない。
少女は深紅のビキニを着ていた。おとなしい少女の趣味とは思えない大胆な水着だが、それもそのはず、選んだのは吾輩だ。
吾輩がジロジロと見ても、少女は顔色一つ変えない。他のメイドに連れられて、壁の向こうのシャワールームに連れられていった。舌打ちしつつ待つこと数分。ようやく少女が出てきた。
「よく来た。……さあ、こっちに来い」
吾輩が命じると、少女は無言のままてくてくと歩き、吾輩のすぐ横で湯船に浸かった。「よし。さぁ脱げ」
吾輩が命じると、少女は無表情のままビキニに手をかけた。吾輩はニヤッと笑いながら首を振った。
「冗談だ。止めろ」
そう言うと、ピタッと少女は手を止めた。それから、ゆっくりと手を下ろした。
「お前は宝石のようだ。触れることさえ恐れ多いほどに美しい。だが同時に……ツマラン女だ」
何度となく、少女に接吻をしてやろうと顎を掴み顔を近づけたことがある。いやらしい視線を送りながら、内股に手を伸ばしたことがある。……その全てに、少女は無反応だった。それでは本当にただの人形だ。実にツマラナイ。こんな女の裸を見ても、きっと何も楽しめないだろう。
「着せ替え人形のようにして遊ぶ以外、お前では遊べないなぁ」
吾輩が呟くと、少女は頭を垂れた。
「ごめんなさいお父様」
「ふん、まぁいいさ」
そう言いつつも、吾輩は満足していた。半年前に拾ったときは全く喋らず、本当に一切の感情というものが見当たらなかったが、近頃は少しなら喋るようになった。いい傾向だ。この調子なら、別の遊び方を試せる日も近いかもしれない。
「吾輩は風呂を出て食事にする。お前も、メイド見習いとして努力するように」
「はい、分かりましたお父様」
「うむ」
鷹揚に頷き、吾輩は食堂に向かった。食堂には、吾輩が頼んでいたトーストとスクランブルエッグ、それにカリッカリのベーコンやサラダがあった。
「おお、そういえばベーコンを忘れていたな」
分厚いベーコンを頬張り、飲むようにパンと卵を食べて食事を終える。それから時計を見た。もう、昼まであと少ししかない。
「昼はステーキがいいな。時間は、普段通りで構わない」
吾輩がそう言うと、メイド達が頷いた。それから、その場にいた一番年増のメイドがベルを鳴らした。すると、まだ幼さの残る年若いメイドが胸元に何か抱えながら走ってきた。息を整え、一礼すると吾輩の前でそれを広げた。
朝食の後は、郵便物の確認。いつものことだ。
今日来ているのは二通。一通は政府からで、税金の使い道について問う内容のものだ。宛名はお馴染みの役人。吾輩より少しばかり地位が上の、小汚い男だ。これは奴に賄賂を出せばカタがつく。もう一通は友人の奴隷商から。時候の挨拶の後に、『新商品入荷のお知らせ』と書いてある。この前買ったばかりだから別に欲しくはないが、後で一応確認しに行くか。
これで手紙を読み終えた……そう思ったとき、三通目が唐突に現れた。
ヒュンと風を切る音がした直後、窓を突き破った矢がテーブルに突き刺さっていた。紙が結びつけられている。矢文だ。
「ひぃっ!」
吾輩は慌てて窓から離れた。あんなものが当たれば、痛いじゃすまない。最悪の場合は命に関わる。吾輩の命は、そこのメイド共や庶民とは価値が違う。この館にあるものの中で、何よりも優先すべきは吾輩の命に他ならない。吾輩は、まだ死にたくない……!
安全だと思うところまで下がり、メイドに指示を出した。ついさっき手紙を持ってきた若いメイドにだ。
「おいお前、その手紙を読み上げろ!」
吾輩の言葉を聞いて、メイドが怖がった様子でおろおろした。
「で、でも……」
「いいからやれっ!」
「ひゃい!」
メイドはおそるおそる矢に近づき。手紙を取って広げた。そして、またおろおろした。「どうした、早く読め」
吾輩が急かすと、メイドは首を振った。
「よ、読めません……」
吾輩はギロリ、と年増のメイドを睨んだ。
「おい、いつから文盲の馬鹿を雇うほど吾輩は困窮したんだ?」
「い、いえ、何かの間違いです。……こらっ、チーシャ!」
馬鹿メイドの名だろう。年増のメイドは若いメイドを怒鳴ると、その手に握っていた手紙を引ったくった。そして読み上げようと口を開き……また、閉じた。
「どうした、なぜ読まない!」
若いメイドだけじゃない。年増のメイドもまた手紙を見ておろおろとし始めた。
「……寄越せっ!」
我慢できなくなり、吾輩はメイド達に近寄ると手紙を引ったくった。くしゃくしゃになった手紙を広げ、視線を送った。
それには、こんなことが書かれていた。
『涙の雨が降り続けるフラスコーの町の王、《豚髭男爵》へ。
ごきげんうるわしゅう。
あなたの有する三つの至宝。
ラフ・フラスコー画『エデン』。
機械仕掛けの黄金林檎『ゴールデン・アップル』。
儚くも美しき麗しの乙女。
そして、その他莫大な財産。命を除いたあなたの全てをいただきます。――――大泥棒銀狼より』
「…………」
ぷるぷると、手紙を握る手が震えた。怒りのままに、吾輩は予告状を引き千切った。
「ふざけるなぁあぁぁあぁぁぁぁ!!!!!!」
怒りにまかせて怒鳴ると、八つ当たりに近くにいた年増を殴りつけた。年増が、くぐもった悲鳴を上げる。
「ジャント三兄弟を呼べ!!! 目にものをみせてやる!!!」
後に聞いたことによると、吾輩の咆哮は館の外まで聞こえていたらしい。
そのせいで盗人の予告状と吾輩の醜態は、町の外にまで届いてしまった。
大泥棒めと、吾輩は更に憤った。
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