表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/14

恋という名の熱

 食堂に戻ってきたクリスタロスに案内され、プロクスは二階へと上がる階段を登る。室温が上げられた今では着込んだ防寒具が邪魔でしかなく、どうせ邪魔ならと彼は防寒具を脱いで脇に抱えていた。

「あの様子では、君が討伐隊の居るアステイルの町へ戻るのは少々危険だろう。部屋を用意する、好きに使ってくれ」

「それはありがたい」

「問題は、ベッドを長らく使いも洗いもしていないことだが……この環境だからな、虫が湧いたりはしていない筈だ」

「……成程」

 ディカイオスと対立してしまった以上、プロクスがアステイルの町に戻るにはリスクがあった。戻ったところを拘束されてしまえばどうすることも出来ないし、それなら氷の城に留まっていた方がプロクスの目的から考えても都合が良い。クリスタロスの配慮で部屋を一つ用意してもらった彼は、ひとまず自分の荷物を床に放り投げ、久方ぶりに感じる体の軽さに思わず伸びをした。

「んんっ……いてて、変に動くと傷が開くな」

「君がどの程度ここに滞在する気かは知らないが、まあ好きなだけ居るといい。君は信用できる人間だ、邪険に扱う気はない」

「そりゃあ嬉しいけど、でも一応職場では休暇中って扱いだし、財布だって宿に置いてきちゃったしな。どっかのタイミングで一回この城を出て、アステイルの町で宿から荷物を取ってきて、職場にも顔を出さないと……」

 言いながら、プロクスの表情はみるみるうちに曇っていた。単に言うのは簡単だが、それを実行するとなれば、アステイルの宿から荷物を取ってくるだけでも困難である。咄嗟に町を飛び出してきたお陰でクリスタロスを助けられたという成果はあるものの、プロクスは荷物を置いてきてしまったことを激しく後悔していた。

「どうしたもんかなぁ」

「私の魔力が回復したらの話だが、雪狼を使って襲撃を起こし、その騒ぎに便乗して町へ入るという手もあるぞ?」

「いや、それは駄目だ。あくまで陽動とはいえ、アステイルの人たちを不必要におびえさせたくない。やっぱり、正面から堂々と行くしかないか……」

 迷った所で簡単に答えが出る筈もなく、プロクスは大きく溜息を吐いた。少なくとも今日一日は、アステイルの町に戻るつもりはない。考える時間は十分にある。プロクスは焦らず熟考する事を決め、部屋の中央付近に置かれたシングルサイズのベッドに腰を下ろした。

「先に言っておくが、この城に人間の基準で風呂と呼べるような代物はない。夜にはお湯とタオルを用意するから、それで体を拭いて代わりにすると良い」

「ああ、分かった」

「私はしばらく一階部分の修復をしているから、君は好きに過ごしていてくれ。君ほどの魔力の持ち主なら、城の内部に居る限り私が見失う事も無いだろうしな」

 そう言って、クリスタロスは部屋を出る。部屋に一人残されたプロクスは天井を仰ぐようにベッドへ倒れ込むと、自分が置かれた状況を冷静に考え直して、どうしたものかと再び頭を抱えた。

 間違った事をしたという思いはない。クリスタロスと再び会う為にアステイルの町を訪れ、クリスタロスを守る為にディカイオスと対立した。何も目的の根本は変わっていない。だが今は、それだけが目的ではなくなっていた。

 アステイルの人々とクリスタロスの対立を解消しなければ、どちらにも被害は出続ける。今日の戦況を思い返してみれば、クリスタロスが殺されてしまう結末だって十分にありえた。しかしそれは、プロクスにとって最も避けるべき結末である。長年追い求めた最愛の想い人を殺される事など、あってはならないのだ。

 手を打たなければならない。アステイルの人々とクリスタロスが争わずに済む方法を、自分は考えなければならない。たとえ一人では無力でも、自分を信用してくれているクリスタロスとは話し合うことも可能なのだから。プロクスは目を閉じ深呼吸をすると、どうすれば両者の対立を解消できるのか、その解決策を考え始めた。

「現状、クリスタロスが行っているアステイルへの攻撃は雪狼の襲撃だけだ。討伐隊は待っていても向こうから来る、自分から襲いにいく必要がない。なら、クリスタロスを説得して雪狼の襲撃を止める事が出来たら、今度はそれを利用してアステイルの人々を説得に……」

 独り言を漏らしながら、プロクスは最大の障壁になるであろう男の顔を頭に浮かべて眉をひそめた。

「ディカイオス……あいつを、どうにかしてクリスタロスと戦わせないようにしないと」

 かつてアステイルの町を守る為に、虚言で民衆を扇動し氷人を滅ぼした偽りの英雄。そんな彼が、仮にクリスタロスが雪狼による襲撃を一切やめたとして、それで討伐の意思を捨てるとは到底思えなかった。もしかしたら町を襲うかもしれない、そんな推測をもとにクリスタロスを殺そうとする姿も容易に想像出来る。

 だが同時に、プロクスの脳裏をよぎった人物が居た。アステイルの町で彼が出会った、現時点では唯一の味方。ラクス・エレスタである。

 真実を知ったラクスは、ディカイオスを町の英雄として信じていながらも、アステイルの人々と吹雪の魔女が和解する未来を望んだ。それは彼女が特別な考えの持ち主だったからではない。ディカイオスの起こした掃討作戦の真実と、吹雪の魔女が置かれた境遇を知れば、誰しも同じことを思うだろうとプロクスは考えていた。

 だからディカイオスとクリスタロスの殺し合いを止める為には、アステイルの人々を味方につける必要があった。ディカイオスの目的があくまでアステイルの町を守る事ならば、住民が吹雪の魔女に対する敵意を失った時点でディカイオスが大きく動くことは出来なくなる。彼は英雄であるが故に、住民を裏切る事は出来ない。プロクスは、そう結論付けたのだ。

 だがどちらにせよ、ディカイオスの居るアステイルの町で住民の支持を得る事は容易ではない。彼らの信頼を得る為には、吹雪の魔女たるクリスタロスが絶対に町へ危害を加えないという証明が必要だった。

「……駄目だ、全然思いつかない」

 時計をふと見ようとして、プロクスは部屋の中に時計がない事に気がついた。ポケットから懐中時計を取り出してみれば、先程の戦いが原因と思われる衝撃を受けて、原型は留めているものの無残に砕けている。今が何時かも分からないが、しかしそれを確かめる為だけに部屋の外へ出るというのも億劫だった。

「どうすりゃ良いんだろうな、これから……」

 多対一の構図とは言え、アステイルの町とクリスタロスの対立は戦争も同然の関係である。それをプロクス一人の働きかけで解決させる事は、ともすれば不可能な様にも思えてきた。だが決して諦めるわけにもいかないのだ。

 頭痛がするほどに悩みながら、プロクスはゆっくりと微睡みの中へ沈みかける。疲れは彼の自覚している以上に体に溜まっていた。まぶたの重みに耐えかね、彼は次第に目を閉じる。

 そして彼は眠りに就いた。暖かなアステイルの町でクリスタロスと共に歩く自分の姿を、夢の中で見つめながら。


 どれほどの時間眠り続けていたのか。プロクスが目を覚ますと、部屋に一つだけある窓の外はすっかり日が落ちて暗くなっていた。眠る前より気怠かったが、妙な姿勢で寝たせいだろうとプロクスは気にせず体を起こす。部屋の中は、どこからか光に照らされ仄かに明るかった。

 時計を見ようとして、プロクスは時計が無いことを思い出した。一眠りしただけでその直前の事を忘れてしまうのかと、彼は苦笑し立ち上がる。室内は適温に保たれていたが、少し冷たい空気に触れたい気分だった。

「クリスタロスは、もう修復作業を終えただろうか……」

 そう呟きながら、プロクスは扉を開けて廊下へ出る。部屋の中よりは多少気温が低いものの、やはり廊下もそれほど寒くはない。彼は二階へ上がってきた時の記憶を頼りに階段の方へと向かっていくと、一階を見下ろしてクリスタロスの姿を目に止めた。

 討伐隊との戦いで壊れた壁は完全に修復されていた。その真新しい綺麗な氷の壁を目の前に、クリスタロスは憂いのこもった目で透き通った壁の向こう側、外の雪原を見つめている。

「クリスタロス」

「……プロクス。ちょうど良かった、もう少しで夕食の準備を始めようと思っていたところだ」

 階段を下りながら声をかけ、プロクスはクリスタロスの傍へと歩み寄る。空気を含んだ白く不透明な氷が壁を形成する中で、クリスタロスの正面にそびえる壁だけは水をそのまま固めたように透明だった。

「何を見てたんだ?」

「いや、何も」

 誤魔化すようにクリスタロスは笑ったが、プロクスには彼女が何かを見ていたという事が漠然と感じ取れた。彼は口に出して追及はしなかったが、どうやらクリスタロスはその微細な気づきを察したらしい。苦笑を浮かべると、彼女はプロクスの目を見つめて口を開いた。

「さっき、と言っても五時間は前の話だが……プロクス、君は私に言ったよな。私の父が私を一人で旅立たせなければ、君は十五年前のあの日に死んでいたかもしれないと」

「え? あ、ああ。それがどうかしたのか?」

「氷人は、ただその場に居るだけで周囲の気温を下げてしまう。いや、それだけじゃない。力の制御を意識して行っていなければ、氷人の周囲では絶えず吹雪が続くんだ。氷人にとって最も快適な環境を自ら作り出している訳だが、それは人間にとっては過酷な環境だろう」

「……それって、つまり」

「十五年前、私があの山に居なければ、君は吹雪に襲われることもなかった。最初からマッチポンプだったんだよ。私が起こした吹雪で死にかけた君を、私が気紛れで助けた。ただそれだけだったんだ、私は感謝されるような事はしていない」

 申し訳なさそうに俯きながら、クリスタロスはか細い声でそう呟く。プロクスは雪が降り積もる外の世界に目を向けて、彼女が雪を見ていたのだと理解した。

 思い返してみれば、アステイルの人々が氷人を滅ぼすことを決めた理由の一つにも、氷人が引き起こす気温の大幅な低下が関係していた。彼らの意思とは関係なく発生するその現象が、人間との対立をも誘発させてしまったのである。

「プロクス、君が私を助けてくれたことは嬉しい。君の事を私は忘れてしまっていたが、君は私の事をずっと覚えていてくれた。これを喜ばしいと言わずになんと言えるものか。だがな、プロクス。私は、君が思うような女じゃないんだよ。君を助けた事だって今思えば自作自演も甚だしいし、それに、私は討伐隊の連中を何人も殺してしまっている。良き人間である君が命を賭してまで守るような価値があるとは、私自身が思えないんだよ」

「……何が言いたいんだ、クリスタロス」

「君は荷物を取り返したら、すぐにアステイルの町を出ていくべきだ。危険に身を晒す必要なんかない、私の事を忘れて、遠く離れた土地で平和に暮らすべきなんだ。今この場所で起きている戦いは、私とアステイルの間で起きている問題だから……無関係の君を巻き込みたくはない」

 口調は淡々としていたが、その声色には吹雪の魔女と呼ばれる彼女らしからぬ熱がこもっている。背の高いクリスタロスは向かい合ったプロクスと同じかむしろ少し高い位置から彼の目を覗き込むと、トドメを刺すように静かなよく通る声で言い放った。

「君と再会できて良かった、お陰で私は全ての人間を憎まずに済む。奴らと同じ思想になるのが怖かった、氷人の全てを悪だと決めつけたアステイルの連中と同じ考えを抱くのが恐ろしかった。だが、人間の中で信じられる者が見つかったんだ。君を失いたくはない、どこか平和な場所で生き続けていてくれ。君は、私が正しき復讐者で居る為の希望なんだ」

「……なんだよ、それはっ」

 クリスタロスの言いたいことは分かった。だがプロクスは、それを受け入れることは出来なかった。否、受け入れるなんてことはしたくなかった。

 プロクスは怒りにも似た激情を抱きながら、クリスタロスの両肩を強く掴んだ。布の隙間から手に触れた肌は氷のように冷たく、人肌の暖かさは感じられない。

 プロクスの起こした突然の動作にクリスタロスはびくりと体を震わせ、しかし抵抗する様子を見せずに彼の顔へ目を向ける。視界に映ったプロクスの表情は、怒りと悲しみがごちゃ混ぜになった複雑なものだった。

「君にとって俺は希望だって? こっちだって同じだ! たとえ十五年前の出来事が結果的にマッチポンプだろうが、そんなことは関係ない。君と出会って、君に恋をして、ずっと君のことを探してきた! そしてようやく会えたっていうのに、頼る相手も居ない状態でいつ死ぬかも分からないような戦いを続けてる君を、簡単に見捨てられる筈がないだろう!?」

「……プロクス? でも、私は――」

「俺は君の事が好きだ、クリスタロス・ナイアトス。絶対に君を救うと誓った、そうでなきゃ俺はこの先、一人で生きていく理由がない。絶対に見捨てるものか……っ」

「プロクス、君は……いや、嘘だ、冗談だろう? だって私は、十五年間、君を騙していたも同然なんだぞ。それに、私は人殺しだ。私が、君に愛される理由なんて……」

「ある。十五年前の事だって俺は今でもはっきり覚えてるんだ。あの日、君は寂しがる俺を見捨てず、話相手になってくれただろう? ただ助けるだけなら、氷の部屋を作ってすぐに目的地に向かえば良かったのに、君はそうしなかった。その上、俺の両親を呼んで救出を早めてくれた。騙されていただなんて全く思ってないさ、君が俺を助けてくれたのは事実だ」

「……それは、そうだが」

「君の手が血に汚れていても、俺は構わずその手を握る。君は冷酷非情な吹雪の魔女なんかじゃあない、悲劇に見舞われて魔女になる事を強いられた、ただの心優しい、俺の恩人だ」

「っ……!」

 強く断言し、プロクスはクリスタロスの肩から手を離すと、今度は彼女の両手を掴み上げて握りしめた。クリスタロスは困惑したように少したじろいだが、手を握られているせいでプロクスから離れることは出来ない。酸欠の鯉がするように口をぱくぱくと動かしながらも肝心の言葉は喉から出てこず、彼女は泣きそうになりながらやっとの思いで声を紡ぎ出した。

「無茶苦茶だ……君は。後悔しないか?」

「する筈がない」

「本気にするぞ?」

「ああ、俺は最初から本気だ」

「……十五年間で、私は随分変わっている筈だ。きっと君も失望する」

「するもんか、その変化だって愛してみせる」

 そんな問答をしばらく続けた末に、クリスタロスは観念したように溜息を吐くと、何かに安堵したような表情を浮かべて微笑んだ。

「……分かった。君が私をそんなに想ってくれていたとは考えていなかったが、十分に理解できたよ。君に早く帰れなんてもう言わない。君の気持ちを無碍にはしないさ」

「クリスタロス……!」

「ああ、それと……もう手は離してくれないか? いい加減、少し痛いんだ」

「あ、っと、すまない」

 慌ててプロクスが手を離すと、クリスタロスはほんのり温まった両手で彼の両頬に触れ、目を見つめた。

「な、なにを……?」

「君と近い体温で肌に触れられる機会など、そう多くはないだろうからな。ふふ、ちょっとした戯れだよ。夕食の準備をしてくる。出来上がったら呼ぶから、部屋で待っていてくれ」

「え? あ、ああ……」

 プロクスの頬からすぐに手を離し、クリスタロスは城の奥へと去っていった。

「き、キスされるのかと思った」

 少しがっかりしたようにそう言い、プロクスは彼女の指示通りに部屋へと戻っていく。しかしその表情には、想いを告げられた事に対する満足感が色濃く表れていた。

 一方、プロクスが自分の部屋に戻った頃。鯉を飼育する部屋の片隅で、クリスタロスは顔を真っ赤にしながらうずくまっていた。今までに体感した事が無いほどに熱を帯びた肌に手を当て、うわ言のように独り言を呟くその様は、まるで熱に浮かされた病人のようである。

「熱い……なんだ、どうしたんだ。私の体に、何が起きているんだ? こんなこと、今までなかったのに……」

 自身の体に起きた異常に戸惑いながらも、クリスタロスに苦しむような素振りは見られない。それもその筈である。彼女は単に、照れるという感情に対してあまりに不慣れすぎただけなのだ。

 氷の城に一人、クリスタロスは九年もの歳月を孤独に過ごしてきた。顔を合わせる者は自分に対して殺意を抱く討伐隊の人間だけであり、彼女もまた復讐心と殺意でもって対処を繰り返してきている。故に彼女には――砕けた態度を見せられる相手も気を許せる相手も居なかったクリスタロスには――照れや恥じらいといった感情を抱く機会がそもそも存在しなかったのだ。

 だが、プロクスの告白に彼女は心が揺れた。クリスタロスが吹雪の魔女と化してから初めて、彼女を真正面から見据える相手が現れたのだ。それは、恋とは完全に無縁だった彼女にとって、あまりに刺激が強すぎた。

「さっき、私はプロクスになにをした? まずい、思い出せない。なにかとんでもないことをしでかした気がする。私ともあろう者が浮かれているとでも言うのか? ああ、熱い。火照るというのはこういう事を言うのか、溶けてしまいそうだ」

 夕食の準備をすると言って逃げてきたものの、それすらもまともに出来そうはない。クリスタロスは深呼吸を繰り返しなんとか落ち着きを取り戻すと、ひとまず立ち上がって鯉の泳ぐ水槽を見下ろした。

「……早く、用意をしないとな。彼が私の料理を待っている」

 彼女はそう呟くと、水槽の中へ両手を入れ、一尾の鯉を一瞬で凍らせて水槽の外へと取り出す。手際よくもう一尾を取り出し地下室での用を終えたクリスタロスだったが、その顔は依然として僅かに赤みを帯びていた。


 太陽が沈み、空がすっかり闇に覆われた頃、アステイルの町には不安と困惑が満ちていた。討伐隊が氷の城から逃げ帰ってくるのはいつも通りの事だったが、しかし今回は状況が違う。吹雪の魔女ではない第三者の妨害によって討伐を阻止されたという事態は、討伐隊が結成されてから今日に至るまで一度も起きていない大事件だった。

 ディカイオスの報告を受け、険しい顔をした町長が彼に今後の対応を相談する。一方では目を覚ました討伐隊の隊員が吹雪の魔女への憎しみを吐き、またどこかでは、妨害者の正体に関する詮索が始まっていた。

 そんなアステイルの町で、ラクスが抱いている不安は決定的に町の人々とは違っていた。彼女は葡萄館の地下にある自宅で、何も知らないというふうに振る舞いながらいつも通りに過ごしている。それが、彼女の考える最善の行動だっだ。

「手紙は隠したし、私は何も見なかった……プロクスさんは何かを見てディカイオスさんを追って出ていった、それで良いんだ。私は何も知らない、見てない」

 今まで信じて敬ってきた英雄の隠された行いを知った今、彼女にはディカイオスが恐ろしく見えて仕方がなかった。優しい顔で、紳士的な振る舞いで、彼が一体いつも何を考えているのか。自分に対する良心的な態度が何一つとして信用できなくなっていた。

 プロクスが葡萄館を飛び出していった後、彼女はアレクスの手紙を自宅に保管してある日記の間に隠した。プロクスが助言した通りにあの手紙の存在を隠すならば、ラクスは手紙に関して知らぬ存ぜぬの態度を貫く必要がある。ディカイオスに手紙やその内容について尋ねられる事が、彼女にとっては今、一番避けたい事だった。

 外からの情報は、騒がしく流れる監視塔からの放送で全て耳に届いていた。だから今は、吹雪の魔女と謎の第三者に怯える一市民を演じるほかにない。ラクスはアステイルの町でただ一人、吹雪の魔女という名の作られた厄災ではなく、ディカイオスという偽りの英雄に対して警戒を抱いていた。

「プロクスさん……お願いします、吹雪の魔女と貴方が既知の仲であるなら……彼女の怒りを鎮めて、この町を救ってください。それがきっと、この町の人々が考える勝利よりも、ずっと幸せな方法だから……っ!」

 ラクスは所詮、魔法も剣も使えぬか弱きアステイルの一市民。今の彼女に出来る事と言えば、町の人々からアステイルの敵と罵られる討伐の妨害者、プロクス・ヘリオの目的を知る唯一の味方として、その目的が果たされるのをただひたすらに祈ることくらいのものだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ