クリスタロスの慟哭
気がつくとプロクスは、どこか狭い部屋の中で横たわっていた。多少暖かいと感じるような気温だが、視界に映る壁や床はやはり氷である。彼は自分がまだ氷の城に居る事を理解すると、クリスタロスの姿を探して体を起こした。
「目は覚めたか、プロクス」
「クリスタロス」
「まさか私よりも先に君の方が倒れるとは。肝が冷えたぞ、人間は脆いからな」
プロクスが背後を振り返ると、クリスタロスは壁に寄りかかって座っていた。改めて傷だらけの姿を見たプロクスは、その痛ましさに思わず顔をしかめる。しかし彼の体も似たようなものだった。ディカイオスの爆発を受けた服はボロボロになり、所々が焼け焦げている。プロクスは幸いにも防寒具が爆風から肌を守ってくれたようだが、クリスタロスの方は生地の薄いドレスだけを身にまとっていたせいか肌にも火傷の痕がついていた。
服がはだけるのを気にしてか、胸元の布を抑えるように右手で左肩を掴んだまま、クリスタロスは肩で息をしている。そして苦しそうな呼吸をどうにか整えながら、彼女はプロクスに話しかけた。
「話したい事は山ほどある。それは君も同じだろう?」
「ああ。十五年、ずっと君を探していたんだ」
「だが、それはもう少し後でだ。今は、傷を癒やす事に専念した方が良い」
クリスタロスはそう言うと、自身の傷口を包むように全身の至る所を氷で覆い始めた。その氷はまるで傷口から発生しているようで、青白く透明ながら、微妙に赤い血の色が混じっている。
「私の傷は大抵この状態で放置しておけばすぐに治る。だが君の傷をこの方法で治せるかどうかは分からないし、それに、私自身も傷を治したところで、ここまで体力が落ちていれば動くのも辛い。全く、ディカイオスめ、やってくれたよあの男は」
「俺の傷は浅いから、心配しなくても良い。気絶したのは不覚だったよ、魔力を一気に使いすぎたんだ。じっとしていれば平気な筈さ」
と言ったは良いものの、直後にプロクスは背中に走った激痛で表情を歪めた。傷そのものは決して深刻ではないが、氷の破片が刺さったままになっていたのだ。幸い、体温で溶ければ遅かれ早かれ体内からは消える。それが分かっているだけまだ耐えられる痛みだった。
「しばらくはこの部屋に居よう、プロクス。室温は君に合わせて少し暖めてあるから、冷えて体調を崩すということもないだろう」
「やっぱり、この暖かさは君の……。でも、クリスタロス。この室温じゃ、君は過ごしにくいんじゃないのか?」
「人間のしやすい勘違いだな。氷人は特に寒冷な環境に適しているというだけで、そもそも温度変化に対する耐性は高いんだ。人間が正常に活動出来るような気温なら、多少は調子が落ちるだろうが、高気温でも体調に関わるほどじゃない」
「そうだったのか。……知らないことだらけだな、俺は。ずっと君の事を探していたのに、君の事を何も知らなかった」
「だが、探してくれていたんだろう? それほどの事をした覚えはないが、ふふ、気分は悪くないな。ずっと敵意ばかりを向けられて生きてきたからかな、君に敵意が無いことが分かった今、多少は気が楽になった思いだよ」
クリスタロスは薄っすらと微笑みながら言う。だが彼女の顔には、ただの疲労とは少し気配の違う疲れの色が浮かんでいる。、彼女が今までにどれだけ精神をすり減らして生きてきたのか、プロクスは無意識に想像して一人やるせない気持ちになった。
「ところでプロクス、君は町からこの城まで、どのくらい時間がかかった?」
そんな彼の内心を知ってか知らずか、クリスタロスは乱れた髪を左手で掻き上げながら不意にそんな問を投げかける。プロクスは意図の分からないその質問に少し戸惑ったが、冷静に記憶を遡り、彼女が求めているであろう答えを返した。
「多分、一時間くらいか? ほぼ一本道だし、迷ったりもしなかった」
「だろうな。いや、これは念の為に確かめたかった事なんだが、お陰で本当に君が私の味方だとはっきりした。プロクス、君は幻霧域に入らなかったようだ」
「幻霧域?」
プロクスはその言葉に聞き覚えがあった。二日前の夜に飲食店で聞いた、討伐隊の隊員らしき男たちの会話に出てきた単語である。
「この雪山には幻霧域という結界が張られているんだ、私が張った。霧の中でどこまで進んでも目的地には到着せず、引き返そうと思えば幻霧域に入ったその場まで即座に戻れる。つまり、一方通行を強制する強力な空間異常の一種だな。一度展開すれば自己修復を行うから手を加える必要はないが、正直なところ展開直後は魔力が枯渇して息も絶え絶えだった」
「で、俺はそれを避けてきたってことか。でもそんな簡単に避けられるなら、ディカイオスたちにだって効果はないんじゃないか?」
「発動した時に強力な効果を発揮する結界ほど、使用者が負う制約も重くなる。幻霧域は私に対して敵意を持つ人間なら必ず捕らえるが、それ以外の動物には効果がないんだ。君の場合は、人間という点では効果対象だが、敵意を持っていなかった。二日前に君が平然と現れた時点で気づくべきだったよ。あの時は君の事を忘れていたから、ディカイオスとは別の方法で結界をどうにか越えてきたものだと勘違いしていたんだ」
「こうしてまた二人で話せてるんだ、気にしちゃいないよ。ともかく、その幻霧域とやらのお陰で、俺は君の信頼を得られたってことで良いのか?」
「まあ、な」
プロクスの問に答え、クリスタロスは柔らかな笑みを浮かべる。その姿にアステイルの人々が恐れる吹雪の魔女の姿はどこにも無く、ふとした瞬間に消えてしまいそうな儚げな雰囲気の少女、という印象をプロクスは抱いた。
「なあプロクス、そろそろ正午を過ぎる頃だと思うが、君は何か食べ物を持っているのか?」
「あっ……いや、ろくな準備もせずディカイオスを追って来たから、なにも」
「そうか。なら、昼食は君の分も用意するとしよう。私の傷はある程度治ってきたが、君は立てるか?」
「まあ、なんとか。お言葉に甘えて、ご馳走になるとするよ」
「君が居なければ、私はディカイオスに殺されていたかもしれないんだ。食事を用意するくらいはさせてもらうさ。……しかし、あれだけの雪狼をけしかけたのに、アステイルに被害が微塵も出ていないのはどういうことだったのだろう」
小声で疑問を漏らすクリスタロスに、プロクスは苦笑を禁じ得なかった。自分が討伐隊に加勢して被害を抑えたなどと、この場で言っては面倒なことになりそうだ。そう考えた彼はとりあえず真相は黙ったまま、昼食を頂くことにした。
「付いてきてくれ、食堂はこっちだ」
クリスタロスに促されるまま小部屋を出て、プロクスは一階の奥にある食堂へと向かった。
「少し待っていてくれ、すぐに用意する」
「ああ。でも、椅子が一つしかないぞ?」
「座ってくれて構わない。数はいくらでも増やせるからな」
広い食堂の真ん中に置かれた長いテーブルと、その大きさに見合わないぽつんと置かれた一つの椅子。クリスタロスが食堂を出ていくのを見送り、プロクスは椅子を引いて恐る恐る腰掛ける。何の変哲もない椅子ではあるが、しかしこの全てが氷で出来ているような城の中で何の変哲もない椅子があること自体が不自然なことのように思えた。
入った瞬間は寒かった筈の食堂も、いつの間にか室温が上がっている。十五年前もクリスタロスは気温を簡単に操っていたなと思い出し、プロクスは改めて懐かしい気分に浸った。もう一度会って話すことが出来たのだという喜びが、徐々に実感として湧いてきたのだ。
「しかし、待ってろとは言われたものの……何もしないっていうのも、なんだかな」
そうは言いつつ、やれることなど何もない。プロクスがそのまま椅子に座って待っていると、しばらくしてクリスタロスはいくつかの器が載ったトレーを二つ持って食堂へ入ってきた。やはり食器の類は氷で出来ているのかと思われたが、一部の器を除いて殆どの食器は至って平凡な代物である。
「この辺りは食材を調達するのも一苦労だったが、雪狼を使役出来るようになってからは随分と楽になったよ。ほら、口に合うかはともかく、量は十分ある筈だ」
そう言ってクリスタロスは、プロクスの目の前にトレーを一つ置いた。
「これは、焼いたじゃがいもと……」
「そっちのスープは熊肉を葱や唐辛子、人参と一緒に煮たものだ。氷の器に入っているのは鯉の刺し身だな。肉類は貴重だが、しかし食わねば体力は得られない。この城よりさらに標高が高い場所に熊の生息地があるから、たまに雪狼を向かわせているんだ」
「鯉の刺し身?」
「餌さえ用意出来れば繁殖させられるからな、鯉は城の中で飼育している。むしろ、不足しがちなのは野菜の方だ。自生しているものは少ないし、育てようにも手間がかかる。人参や大根、ごぼうの様な根菜や、きのこなんかは探せば見つかるがな」
「……きのこは少し、遠慮したいな」
「私も、得体の知れないきのこなど口に入れるのも恐ろしい。それと、グラスの中に入ってるのはただの水だ。茶葉やコーヒー豆なんて洒落たものは手に入らん」
意外にもちゃんとした料理が出てくるものだ、とプロクスが感心していると、クリスタロスはテーブルを挟んでプロクスの正面に、氷の椅子を作り出して腰掛けた。彼女の前に置かれたトレーにもプロクスのものと同じ料理が乗っていたが、僅かに量が少ないようである。
「じゃあ、いただきます」
「ああ、召し上がれ」
向かい合って座った二人が、その一言で揃って食事を始める。プロクスはまず木製のスプーンを手に取ると、スープの入った器を持ち上げ、中に満たされた温かな液体を一掬いした。獣の肉にありがちな臭みは、唐辛子の匂いで絶妙に消されている。
「うん、美味い」
「それは良かった。私の料理は私しか食べないものでね、君の口に合うか不安だったよ」
「美味しい。それに、温まる。でも、この城のどこに焼いたり煮たりするような設備が?」
「この城は元々、氷人の王であるテオス・エクレスが多数の家臣と共に住んでいた城だ。人間の襲撃で破壊された箇所が多く、元通りに修復するのは叶わなかったが、当時この城に備わっていた設備はある程度まで生きている。数年とはいえ人間との交流があった以上、文化水準もそれほど大きな違いはないさ。まあ、氷人の方が人間よりも生身で出来る事が多い分、不必要だと判断されて取り入れられなかった技術もいくつかあるがね」
「そういうものなのか」
「そういうものだ。まあ、この調理に使ったのは討伐隊から奪い取った火炎放射器だがな」
「えっ」
クリスタロスが火炎放射器を用いてスープを煮込んでいる絵面を想像出来ずプロクスは戸惑ったが、しかし料理が美味しいことは事実。スープの次は鯉の刺し身を、そして焼いたじゃがいもを、彼は次々と瞬く間に完食した。
椅子の背もたれに体重を預け、プロクスは満足気に大きく息を吐く。クリスタロスの方も、彼が食事を終えるよりも先に料理を食べきっていたようだ。器はすっかり空になっていた。
「満足頂けたようでなによりだ」
「ごちそうさま、美味しかったよ」
「ふふ、そんな言葉を聞いたのも随分久しぶりだ。いや、私がそう言われたのは初めてだったか。なにせ、誰かに料理を振る舞う機会なんてなかったからな」
「っ……」
何の気なしにクリスタロスが口走った言葉に、プロクスは得も言われぬ重みを感じて口をつぐむ。その様子を察したクリスタロスは苦笑いを浮かべて何かを言おうとしたが、しかしすぐに悲しげな表情で俯き、躊躇いがちに話を始めた。
「君はもう知っているだろうが、私の同胞はアステイルの人間に殺された。一人残らず、私以外の全員が、だ。だから私は奴らを許せない。特に、あの悪魔の様な男……ディカイオス・ロアだけは、絶対に」
「……調べたよ、九年前に起きた掃討作戦の事。でも、きっと俺が持っている情報では不十分だと思う。俺が探せたのはあくまで、アステイルの町に残されていた人間側の情報だから」
「聞かせてくれないか、君の知っている情報を。恐らく、その中には私の知らない事もある筈だ。君が知りたいと言うなら、代わりに私は私が知っている事を全て話そう」
真剣な眼差しで自身を見つめるクリスタロスに、プロクスは首を縦に振って肯定の意を示した。彼が語ったのは葡萄館で得た、アステイルの英雄が残した資料、当事者であるラクスの証言、そして発見されたアレクスの手紙についての話である。話を聞きながらクリスタロスは苦悶の表情を浮かべたり、怒りを必死に抑えたりと、出来る限り冷静に情報を聞き入れる努力をしている様子だったが、しかしプロクスがアレクスの手紙に書かれていた真実を伝えると、彼女はテーブルを力強く叩いて勢い良く立ち上がった。
「やはり、あの男が……ッ!」
「あの手紙が本物だとしたら、ディカイオスは町の人々が掃討作戦に賛成するように扇動したことになる。クリスタロス、実際にはどうだったんだ? 氷人の社会構造っていうのは」
プロクスの質問に対し、クリスタロスはどう答えたものかと迷うように少し唸ると、立ったままの姿勢で口を開いた。
「一言で言えば、独裁社会だ。そうだな、十五年前、君と出会った頃の話を先にした方が分かりやすいだろうから、少し聞いてくれ」
「ああ」
「まず、氷人という種族がいつどの時代から居るのかは分かっていない。氷人の歴史ですらそうなのだから、人間の観測でも同じ筈だ。そして、私が生まれたのはエトワンゼ地方北部の雪山。この雪山からは大分遠く離れていると思うが、正確な距離を調べたことはない」
「その雪山っていうのは――」
「君と出会ったあの山じゃない、もっと北の方にある山だ。そこで、私は両親や妹と一緒に暮らしていたんだが……氷人にはある特殊な性質、いや、本能と言った方が正しいかな。王を中心に国を作る習性があったんだ」
「それが、さっき言っていたテオスなんとかって氷人か」
クリスタロスは頷き、話を続ける。彼女の険しい表情に、プロクスは余計な口を挟む余裕もなかった。
「王は、生まれながらにして王だ。王が現れたその時、恐らく世界中、少なくともエトワンゼ地方に居た全ての氷人は王の誕生を察知した。そして、集まったんだ。王の居る、この山へと」
「それが、十五年前に君があの雪山に居た理由? でも、家族はどうしたんだ。両親と妹が居たんだろう?」
「私は当時八歳だった。氷人の持つ冷気を操る力は大体そのくらいの歳で完璧に習得出来るものなんだ。だから私は、補助が必要な妹とは別に一人でこの山へ来ることを命じられた。氷人として一人前だということを示す為にな」
「それは、誰に?」
「父だ。母は止めたが、実際のところ私はそれほど嫌じゃなかった。道のりは険しかったが、私は自分の力に自信を持っていたし、それに、まだ幼い妹と違って私は一人前だぞと見せつけてやりたかったんだ。まあ、今にして思えば幼子の意地ってやつだよ。馬鹿げた見栄だった。お陰で君と会えた訳だから、無駄な苦労ではなかったと言えるがね」
今まで未知でしかなかった身の上話をクリスタロスから聞かされ、プロクスは彼女の過去を知る事を少し楽しんでいた。その後に何が起きるかを知っているだけに気分は複雑だったが、しかし、想い人の事をよく知るという行為は彼にとって重要な事である。
「もしかすると、君が家族と一緒にこの山へ向かっていたら、俺はあの日、雪山で凍えて死んでたかもしれないんだな。そう考えると、ちょっと背筋が凍る話だ」
「ふふ、父に感謝しないといけなさそうだ。厳しくて、あまり笑わなくて、特に仲が良かったわけでもなかったが……いや、良い父親だったよ。私よりも先にこの山へ到着して、王に迎え入れられた後、私を待っている間にいくつかの魔導書を用意してくれていたんだ。氷人の力は氷人なら誰でも持っているから、それとは別に自分だけの得意分野を見つけておけってね。あの頃にした魔法の勉強が、こんな風に役立つとは思ってなかったが……」
嘲笑するように小さく呟き、クリスタロスはようやく自分が立ちっぱなしだという事に気がついたのか、ゆっくりと椅子へ腰を下ろす。彼女が一呼吸を挟もうと水の入ったグラスに手を伸ばしたのを見て、プロクスは話題を変える為に一つ質問を投げかけた。
「さっき、氷人の社会構造は独裁社会って言ってたよな。それは、どういうことなんだ?」
「言葉通りの意味さ。王が現れると、各地に居る氷人は王の居る場所を目指して集まる。そして王を中心とする国をその場に作り上げ、王の支配する社会で生活をする。王は氷人の繁栄を最優先に民を導き、結果的に築かれる国は誰にとっても住みやすい独裁社会。だが、王でない氷人個々人にもそれぞれ思想というものがあるし、王にも王の考えというものがある。端的に言えば、テオスは多くの民にとって悪しき王だった」
「悪しき王? そういえば、アレクスの手紙にもそんな言い回しがあったような……」
「テオスは氷人の繁栄を願う王だった。だが、氷人を人間よりも遥かに優れた種族だと過信した事が全ての悲劇を引き起こしたんだ。長らく続いていたアステイルの賢者……確か、フィリップとかいう名前だったか?」
「アステイルの英雄、フィリップ・オーガンのことか」
「そう、長らく彼を通じて行われていたアステイルとの交流を、ある日テオスは突如として拒絶した。彼はアステイルを侵略し、その住民を氷人の支配下に置こうと考えていたのさ」
「それじゃあ、やっぱり氷人の国とアステイルの町は戦争が始まる寸前だったってことか」
「テオスの考えでは戦争でなく侵略……一方的な支配行為のつもりだったようだがな」
クリスタロスは忌々しそうに言い捨て、大きく溜息を吐く。ディカイオスに対する彼女の怒りも相当のものだが、プロクスは彼女が自らの王であるテオスに対しても良い印象を持っていない事をなんとなく察した。考えてみれば当然の事である。テオスの独断が無ければ、少なくとも九年前に掃討作戦が起きる事は無かった筈なのだから。
「住民は反対したさ。そもそも私がこの山に到着して二年かそこらで、新たな氷人が国の外部から現れることはなくなっていた。恐らく、エトワンゼ地方一帯の氷人が既にこの山へ集まっていたんだろう。だから誰もが現状に満足し、それ以上を望んでいなかった。ましてや、下位種とはいえ優れた魔法使いが属する人間との戦いなんて方法は」
「だからか……不思議だったんだ。氷人の王がフィリップの立ち入りを禁じたのは十年前で、掃討作戦が行われたのは九年前。正確な日付までは覚えていないけど、少なくとも半年以上は間が開いていた筈。それなのに、氷人から人間への攻撃は起きていなかった」
「その頃は王と民の間で揉めていたからな、氷人もそれどころではなかった。影響があったとすれば、テオスが侵攻の準備と称して行った冷気の放出か。恐らく、アステイルの方には記録として残っていると思うぞ。気温が大幅に下がった筈だからな」
プロクスは自身の記憶を遡り、確かにそんな話を聞いたような気がする、と一人で納得した。そんなプロクスの様子を見て話が通じたと判断したのか、クリスタロスは話を再開する。
「そして起きたのが、君の言うところの掃討作戦……人間による氷人の殲滅だ。王を含め、氷人は人間から襲撃される状況を欠片も想定はしていなかった。だから滅びたんだ。王がまず死に、騎士が死に、誰も彼も殺された。大人も、子どもも、男も、女も、奴らは見境なく殺していったんだ」
「ッ……!」
「私は母に庇われ、雪の下へ埋められるように隠された。妹はその時、もうどこかで殺されていた。私は、何も出来なかった。ただ見ていることしか出来なかった、寒さなど感じない筈なのに震えてうずくまる事しか、出来なかった……ッ」
「クリスタロス……もういい、それ以上言わないでいい……」
泣き出しそうな、悔しそうな、悲痛なクリスタロスの表情を見てプロクスは咄嗟に制止する。だがクリスタロスは彼の気遣いを手振りで拒絶すると、テーブルを右手で殴りつけて声を張り上げた。
「奴らを、全員あの場で殺してやりたかった! でも出来なかった、私は弱かった! 持てる全ての力を使った、覚えているだけの魔法を全て駆使した、でも奴らには逃げられたッ! 何故、どうして私の同胞は死ななければならなかった!? 父も、母も、妹も、友達だったミリアとエリナも、アイザックおじさんも、ディアナおばさんも、私も……誰も彼も、皆、あの日まで平和に暮らしていただけなのに……ッ!」
「……っ」
プロクスは、どんな言葉を口にしても彼女に届かないような気がして、クリスタロスに声をかけることが出来なかった。自分が経験したことが無いような絶望を彼女は味わい、今までその復讐心を糧に生きてきたのだと、彼は理解してしまったのだ。自分とはまるで違う場所で生きている彼女に、安全圏で過ごしていた自分が取ってつけたような文句で慰める事は不可能だと、思い知らされてしまった。
息を荒げ、クリスタロスは泣きじゃくる様な声を漏らす。彼女は涙を見せるのが嫌なのか左手で顔を隠すと、不規則に乱れた呼吸を整え始めた。
「クリスタロス……」
「私は、奴らを許せない。だが、プロクス、君の話が本当なら……全ての元凶はあの男だ。ディカイオス、あの男が私の同胞を殺したんだ。奴だけは絶対に、この手で殺してやらねば気が済まない」
震えたままの声で、呪うようにクリスタロスは呟く。歯を食いしばり、拳を握り、肩を震わせ、彼女は爆発しそうな怒りと憎しみを必死に封じ込めていた。プロクスはそんな彼女の姿を目の前にして、何を言っても意味が無いと頭では理解しながら、しかしクリスタロスに対して何かを言おうと考えずにはいられなかった。
「……俺は、結局のところ部外者だ。どれだけ事情を知ったところで、何を言っても余計な口を挟むことにしかならない。でも、それでも……クリスタロス、君に救われて、君を探し続けてきた俺だから、君にこれ以上は人を殺してほしくないんだ。復讐が悪いことだとか、そんな事を言うつもりはない。ディカイオスがしたことは、俺だって許しがたいさ。だけど、それでもやっぱり、俺は人間なんだ。アステイルの町を襲わせ続ける訳にもいかない。でも君を殺したり、君が殺されたりするのは御免だ。……ああ、くそっ。自分でも言ってる事が無茶苦茶なのは分かってるんだ、でも――」
「いい、プロクス、分かってる。君が私に気を遣っているのは、いくら私が冷静さを欠いているとはいえ、伝わってくるんだ。だけど、このどす黒い復讐心だけは、私自身にだってどうしようもないんだよ」
「……クリスタロス、俺は君の味方で居たい。でも出来る事なら、君とアステイルの人々には争ってほしくないんだ。アステイルの人々は、殆どが真実を知らない。アレクスの手紙を見る限り、真相を知っていたのはアレクスとディカイオスの二人だけだ。何も知らないアステイルの住民を君が傷付けるような事は、させたくない」
テーブルを挟み、二人、どちらも表情は険しく、苦しげだった。互いに発するべき言葉が見つからず、沈黙が場を支配する。
「食器を、片付けようか」
先に声を出したのはクリスタロスの方だった。沈黙に耐えかねたのか、彼女は思い出したようにテーブルから二つのトレーを取り上げると、食堂の出入り口の方へと歩いていく。
「すぐに戻る、ここで待っててくれ、プロクス」
「あ、ああ」
食堂に満ちた重く暗く苦しい空気から逃げるように去っていくクリスタロスの姿を見送り、プロクスはどっと疲れた気分で椅子に沈み込む。想像していたよりも遥かにクリスタロスが理性的である事に安堵しながらも、それが彼女の境遇を思えば異常な精神状態だという事を彼は頭の隅で感じていた。ともすれば狂っていてもおかしくない、血塗れの過去を背負う吹雪の魔女。自分が好意を寄せていた相手は、自分がのうのうと生きている間に過酷な現実と戦い続けていたのだ。そう思い知らされて、プロクスは自分の甘えきった人生がすっかり嫌になってしまった。
「なにしてたんだ、俺。十五年間、ずっと」
途轍もない無力感がプロクスを襲い、激しい自己嫌悪を引き起こす。だがそれでも、彼の中には微塵も揺るがない確固たる想いが残されていた。
十五年前、プロクスはクリスタロスに救われ生き延びた。自分が辛い旅路の途中であるにも関わらず、クリスタロスは寂しがる彼を気遣ってお伽話を聞かせた。そして、彼女は去っていった。プロクスは恩人の姿をずっと追ってきた。だがその動機は、決して恩義によるものだけではなかったのだ。
見返りを求めずただ自分を助けた彼女の姿に憧れた。その美しい振る舞いに見惚れた。大人びた歳上の少女に、幼いプロクスは恋をした。
今もなお揺るがないプロクスの想い、むしろ今まさに燃え上がった彼の想い。それは、クリスタロスに対する恋心だった。彼女の幸せを心の底から願い、その為には自分の何を犠牲にしても構わないと言い切れるほどの恋情である。
彼は確信した。自分がクリスタロスの事を好きで居る限り、自分は何が起きようとも、彼女の力になる事を決して諦めないと。
ディカイオスには理解する事が出来なかった。何故、プロクスは吹雪の魔女を庇ったのか。氷人は悪なのに、どうして人間である筈の彼が自分を邪魔をするのか。彼は、それが全くもって分からなかった。
現実を見ればあの若造も理解する筈だ、氷人は悪しき種族で滅ぼすほかになかったのだと。ディカイオスは、本気でそう信じていた。だから彼の調査活動を止めず、むしろ後押しするような事をしたのだ。だが、実際には彼の期待を裏切る結果が待っていた。
「……あいつも、この町の敵か」
気を失った仲間たちで自宅を埋め尽くされ、その中心に座り込んだディカイオスは低く呟く。町の平和を乱す者は誰であろうと排除しなければならない。それが彼の、ディカイオス・ロアの掲げる唯一無二の正義だった。
全てはアステイルの町を守る為に。彼の目は、狂った正義を宿して鋭く光っていた。




