追憶の炎
プロクスの住む首都イストラムからアステイルの町へ向かう場合、多くの人々は魔動車と呼ばれる四輪移動装置を利用する。魔力を動力源とするこの車は搭乗者の魔力を消費する事で持続的に稼働させる事が可能であり、内部で魔力を増幅させ利用する機能によって、搭乗者の感じる疲労は運転を二時間以上連続して行わない限りは皆無に等しい。その速度も、成人男性の全速力を常時保っているも同然の速さとである。魔力消費を増加させれば、最高速度はその二倍まで到達するという。
だがプロクスは、魔動車を所有していない。というのも、決して薄給ではない彼の月収が二十四万マドルという金額であるのに対し、魔動車の平均二百六十万マドルという値段は簡単に手が出せるものではなかった。休日も少なく遠出の予定もないプロクスにとって、魔動車は高い上に使う機会の少ない贅沢品だったのである。
しかし、アステイルの町へ向かう方法はまだ一つ残されていた。それは偶然にも、プロクスが働く研究所が数年間の開発協力を行い、二年前の春に完成したばかりの新たな交通手段。魔動車で四時間かかるイストラムからアステイルの道のりを同じ時間で往復出来るその乗り物は、新技術を歓迎する人々から魔動列車と呼ばれている。
「お客様のチケットは午前十時三十七分発、エトワンゼ特別線下り四号車E―4席です。払い戻し出来ませんので、お間違えのないようにお願い致します」
慣れない駅での手続きを終え、プロクスは旅行鞄の重さに喘ぎながら目的の列車乗り場へと向かった。チケットは八千マドル。安くはないが、今の彼にとって僅かにでも躊躇を起こさせる金額ではない。
乗り場で数分待ち、プロクスは生まれて初めて乗る魔導列車にやや感動を覚えた。そしてようやく肩を襲う重みから解放されるのだという安堵を溜息と共に吐き出し、彼はチケットに書かれた番号の席で腰を落ち着ける。
「アステイルの町まで約二時間……到着する頃には、昼過ぎか」
昼食は用意してきた方が良かっただろうか。なんて事を考えながら、プロクスは背もたれに体重を預ける。それから彼は、旅行鞄とは別に持ってきた持ち運び用の小さな鞄を開き、中から一冊のメモ帳を取り出した。
フレデリックによってクリスタロスの新たな手掛かりが知らされたあの日から、プロクスはアステイルの町について可能な限り情報を集めるように努めた。いかに遠かろうと所詮は同じ国の離れた土地、調べればそれなりの情報は得ることが出来る。
しかし、プロクスがイストラムの図書館を巡り、研究所の同僚に頼って人伝てに得たいくらかの情報は、殆どが彼の求めるようなものではなかった。その多くは町の雰囲気や文化、名産品に関するものばかりで、吹雪の魔女に触れるような情報ではなかったのである。
しかしただ一人、彼にとって有益な情報をもたらした人物が居た。フレデリックを介してプロクスに吹雪の魔女という存在を伝えた、ミスト・ミレインである。
「うん、私はエトワンゼ地方の出身だよ。でも、アステイルとは少し離れてるけどね。アステイルは海に面した東側の町だけど、私が住んでたのはそこから北西に山を越えた辺りにあるノンバレって町だから」
プロクスが吹雪の魔女を知った二日後。彼から執拗に頼み込まれたフレデリックが約束を取り付け、プロクスはミストと二人で会うことが出来た。
「はじめまして、私の名前はミスト・ミレイン。えっと、メリーの恋人の同僚、だっけ? よろしく、プロクスって呼んで大丈夫?」
待ち合わせ場所の喫茶店へ来た時点で、彼女は既にフレデリックから一通りの話を聞いていたらしい。軽い自己紹介を終えるとミストは促されるよりも前に本題へと話を移し、当たり障りのない世間話から入って警戒を解こうと考えていたプロクスを驚かせた。
ミストの話は、彼女がアステイルの町からは少し離れた土地の出身だという説明から始まった。プロクスの知る中では唯一アステイルの町について生きた情報を知っている人物である。彼はいくつもの質問を投げかけ、いくつもの答えを得ていった。
その中でも特にプロクスの印象に残ったのは、彼の「吹雪の魔女はいつからアステイルの町を襲撃しているのか」という質問に対する返答である。
「厳密には分からないけど、少なくとも六、七年前にはそんな話を聞いたかな。但しそれよりも昔から、アステイルの町を含む周辺の地域は極端な寒冷地として知られていたけどね。それが明らかに異常な気候だってことは、大人なら誰もが分かってたみたいだけど」
彼女に感謝を伝え別れた後、プロクスは話題に上がった地域の気温について可能な限りの資料を漁った。その地域は十五年ほど前から一年を通して気温が十五度を常に下回る年が六年間続き、現在に至るまで真夏を含めても二十度を越える記録は一切ない。もしも吹雪の魔女がミストの言う通り六、七年前に現れたのだとすれば、吹雪の魔女が現れる前の方が気温は低かったことになる。
「……分からない、どういうことなんだ?」
高速で目的地へ向かう列車に揺られながら、プロクスはメモ帳を閉じて呟く。普段味わうことのない振動に少し酔いかけ、頭を使っていることもあり気分は少し悪かった。
「少し、寝るか。アステイルの町に着く前には、目も覚めるだろう」
鞄にメモ帳を仕舞い、プロクスは椅子にもたれかかって目を閉じる。そのまま眠りに就いた彼が次に目を覚ましたのは、アステイルの町へと魔動列車が到着する、三分前の事だった。
「話に聞いていた通り、やっぱり肌寒いか。準備をしておいて助かった」
重たい荷物を再び担ぎ上げ、列車を降りる。駅員にチケットを渡して駅を出たプロクスは、鼻を刺激する潮風の香りにここが故郷とは離れた土地なのだと改めて実感し、それからイストラムの町とは季節が異なるかのような涼しさに体を震わせた。旅行鞄に予め入れてきた上着がなければ、彼は今日一日を終える頃にはもうすっかり風邪を引いていただろう、という程の冷気である。
「春とは思えないな……早く宿を探さないと、野宿なんて御免だ」
幸いアステイルの駅は町の中心近くに建っており、周辺には観光客を待ち構える宿屋が何軒か見かけられた。空腹を訴える腹の虫もうるさかったが、いい加減旅行鞄を運ぶのに疲れたプロクスは宿の確保を優先。ひとまず今夜の寝所を探す事にした。
とはいえ、プロクスに宿を選ぶような余裕は、実のところ無いも同然である。金銭的に限界がある以上、贅沢をしている場合ではない。少なくとも一週間前後は滞在する予定の宿で、必要以上に出費を増やすのは望ましくなかった。
そんなこんなで彼が選んだホテルは、素泊まり一晩三千六百マドルの格安宿である。無愛想な対応を受けてチェックインを済ませた彼は、案内された部屋が掃除の行き届いた清潔な状態だったことにひとまず安堵し、ようやく肩を苛む重みから解放され歓喜した。
「……っく、ああ。片方の肩だけ変な感覚だ、後に響かなきゃ良いけど」
一人で、そんな愚痴を零しながら荷物を整理する。旅行鞄から必要な物品を持ち運び用の鞄へと移し、プロクスは出発の準備を進めた。少しの時間も落ち着いて休んでいられるような気分ではない。もうこの町からは目と鼻の先に、彼が目指してきた目的地があるのだから。
アステイルの町は背の高い建物が少なく、空が広い。少し高い場所へのぼれば、それだけで随分と遠くまでをぐるりと見渡すことが出来る。
故に、プロクスは既にそれを見ていた。町の外、少し離れた雪山に建てられた神秘的な建物を。それはまるで、巨大で美しい水晶の塊に見えていた。
だがプロクスは、それが何かを既に知っている。あれは水晶なんかではない。氷である。
「待ってろ、吹雪の魔女。いや、クリスタロス……!」
プロクスは宿を出た。目指すは雪山、そしてそこにそびえる氷の城。装備はしっかり整っていた。もう彼は十五年前のような子どもではない。あれほど恐ろしい目にあった銀世界だが、そこへ足を踏み込むことへの恐怖は不思議と感じなかった。
腹を空かせたまま向かうわけにもいかず、目についた小さなレストランで昼食をとる。だが食事中ですら、心は常に上の空だった。ただ腹を満たす為だけにものを食べ、腹を落ち着かせる時間すらもったいない。綺麗さっぱり完食したハンバーグの味も、プロクスが店を去る頃にはもうすっかり忘れられてしまっていた。
分厚い防寒具に身を包み、懐には愛用のライターが仕舞ってある。町の中では少し暑いくらいだが、城の周囲を頻繁に吹雪が襲うことはミストから噂として聞いていた。ただ一つの揺るぎない目的に向かって突き進むプロクスの心情は、さながら決戦に挑む騎士のようである。
「よし……行くか」
一方、そんな不格好な騎士の姿を、建物の中から遠目に見つめる人影があった。
「あいつ、この町の人間じゃないな。山に向かう気か? 余所者が、なんの為に……」
怪訝そうに呟きながら、男は去っていくプロクスを目で追う。そしてプロクスの姿が見えなくなると、彼はゆっくり窓から離れ、棚に収納された火炎放射器を取り出すのだった。
町を出てからおよそ二十分が過ぎた頃、積もった雪を踏みしめながら、プロクスは城を目指していた。吹雪というほど酷くはないが、周囲にははらはらと雪が降り続けている。気温は町と比べるまでもなく、プロクスの露出した肌は体温を保とうと必死に熱を発しているようだった。
「本当に、近づいていくだけで気温が下がっていくな。山に登ってるからって理由だけじゃなさそうだ、ここまで変化が激しいと」
山に登るとは称したものの、実際のところ、城が存在する位置はそれほど標高の高い場所ではない。加えて山自体も大して険しいわけではなく、仮に吹雪の魔女という脅威さえ存在しなければ、観光地として十分に機能したであろうとプロクスは思った。
城へは着実に近づいていた。木々は所々に密集して生えており、進行方向に限れば視界は常に良好である。巨大な城はプロクスを見下ろすようにただ悠然とそこにあり、その道のりは予想していたほど厳しくはない。やや拍子抜けな印象を受けながらも歩を進めるプロクスは、ひたすらに日頃の運動不足を呪っていた。
「はぁ……くそ、苦しい。こんなことなら、前々からトレーニングでもしておくべきだった」
勾配は緩やかだが、足場は積もった雪である。同じ坂でも、道路や地面を歩くのとは訳が違った。じわじわと体力が奪われていく。だがプロクスは、杖を持ってくれば良かったと後悔を口にしながら、それでも足を止めなかった。歩けば近づく、止まれば止まる。視線の先に城を捉え、プロクスは歩みを続けた。
「今のペースで行けば、あそこに辿り着くまでに三十分もかからないはず。ゆっくりなんてしてられない……ん?」
そう独り言ちた矢先、プロクスは足を止め周囲を見渡した。
「唸り声?」
周りを確認しても何かが居る気配はない。だが彼は、確実にそれを耳にしていた。獣のような、何かを威嚇するような低い唸り声を。
プロクスは懐から取り出したライターの蓋を開け、すぐに着火出来るように指をかけながら耳を澄ませた。目的地を目前にして、こんなところで余計な怪我をするつもりはない。彼は気配を探るのに神経を集中させた。もし何かしらの野生動物が現れたならば、いつでも撃退が出来るように。だが、それらしき影はどこにも見られなかった。
「……気のせいか?」
呟きつつも、警戒を解く気にはならなかった。そして、再び聞こえる唸り声。プロクスは今度こそ「何かが近くに潜んでいる」と確信し、遂にライターのフリント・ホイールを勢い良く回し、芯に火を灯した。
「隠れてるなら姿を見せろよ、火傷したくなきゃな」
操炎魔法。プロクスの得意とするその魔法は、魔力を与えた火種を自在に操り、大きさも火力も思いのままとする。ライターの小さな火はたちまち巨大な火柱となり、そして次の瞬間には、さながら炎の鞭とでも呼ぶべき細くうねる奇妙な炎へと姿を変えた。
「……出てこないか」
周囲の地面を薙ぎ払うように、プロクスは炎の鞭を振るう。すりと炙られた雪は溶け出し、その中から何体かの獣がのたうつように飛び出した。
「狼? いや、なにか違うな」
銀色の毛並みが、日の光を反射して輝く。雪で体を冷やし体勢を立て直したその獣は、鋭い眼光をプロクスに向けて唸り声を上げた。ついさっき聞いたばかりの低い威嚇音である。
「グゥゥ……!」
「五、いや、六体か。雪の中に隠れていたのか? 魔獣の類なら面倒だな、俺はハンターみたいに上手くは戦えないぞ」
プロクスがそう呟くと同時に、雪狼の一体が走り出した。目標は当然、縄張りに踏み入ってきた無遠慮な人間である。敵意を剥き出しに牙を見せた銀の獣は俊敏に雪の上を跳ね回ると、プロクスの方へ吠えながら跳びかかった。
「ガァァァウッ!」
魔獣とは、体内に魔力を有し、魔法と同等の特殊な力を持った獣の総称だ。それらは総じて人間に敵意を向けた際、例外なく脅威となりうる。だがプロクスはそんな魔獣に襲われた今この場であっても、冷静さを欠いてはいなかった。
「足が速いのは厄介だな、ならこうだ」
炎の鞭を地面に振り下ろし、増幅させた炎で壁を作る。勢い余って炎の中に飛び込んだ雪狼は、毛皮に燃え移った火に悶えながら、悲鳴のような鳴き声を上げて斜面を転げ落ちていった。
仲間の受けた攻撃に怯んだのも束の間、残った五体の雪狼が報復を宣言するように吠える。怯えて逃げてくれればどれだけ良かったかと溜息を吐いたプロクスは、彼らを迎撃する為に炎の鞭をいくつかの火球へと分裂させ、距離を開けながら空中に留めた。炎を操るという一点に関し、彼は自分が誰より優れていることを自負している。雪狼に食い殺されるような結末は、万が一にもありえないと確信していた。
「来るなら来いよ、焼け死にたいならな。これでも殺生とか嫌いな方なんだからな、なるべくなら来るなよ……!」
プロクスの忠告も虚しく、雪狼が散り散りに駆け出す。あるものは一直線に、あるものは左右に分かれ、しかし誰もがプロクスへ襲いかかる為に溶けた雪の上を走っていた。その動作は素早く、全てを目で追うのは不可能に近い。
対して、プロクスもただ向こうが攻撃を仕掛けてくるのを待っているだけではなかった。
「炎は武器だ、そして俺の手足に等しい。風が触れれば炎は揺らぐ、俺はそれを感じ取れる。目が駄目なら耳、それも駄目ならほかにもお前らを感知する方法はあるって事だ……!」
宙に浮かんだ火の玉に、雪狼の一体が近づいた。その直後、火の玉はまるで獲物を絡め取る触手のように雪狼の方へと火の粉を飛ばし、それから本体ごと毛皮へと燃え移った。途端、火だるまと化した雪狼は大きく叫びながらその場に転がったが、魔力を込められ火力を操作された火は簡単に消えはしない。遂にはその体をみるみるうちに燃やし尽くし、あとには焦げた骨だけが残されていた。
仲間の異変に気がついたのか、三体の雪狼が動きを止める。だがプロクスに最も接近していた雪狼はそれを意に介さず、むしろ仲間の仇を討つかのように口を大きく開いてプロクスへと跳びかかった。牙は鋭く、一度噛まれればただでは済まない。しかしプロクスはそれに気付くと、ライターの芯を迫り来る雪狼へと向け、再びフリント・ホイールを回転させた。
「アアアアァァァガガァァァッ!」
ライターから出たとは思えない爆炎が勢い良く雪狼を押し返し、原型を留めぬほどに燃え上がった雪狼はすぐさま灰燼と化した。反動でプロクスは体勢を崩し尻もちをついたが、残された雪狼は今や、その隙を突けるほど冷静ではない。ほんの数十秒の間に三体の仲間を喪った銀色の魔獣たちは、これ以上の交戦が無意味であると理解したようだった。
「バルゥ……ッ」
一体が初めに弱々しく吠え、残る二体が一目散に逃げ出す。吠えた雪狼はプロクスをしばし睨みつけると、それから彼に背中を向け、先に逃げた二体を追って走り去った。
「……どうにかなったか」
乱れた息を整えながら、プロクスはライターの蓋を閉じた。あれだけの炎を使っていたにも関わらず、ライターのオイルはそれほど減っていない。補充の必要がまだない事を確認したプロクスは、ライターを懐に仕舞うと、焼け焦げた雪狼の骨を一瞥して再び歩き始めた。
人の手が入っていない雪山に魔獣が棲みついているのは、特におかしいことではない。だがプロクスには、なにか引っかかるものがあった。
「あの魔獣、明らかに俺の進行方向で待ち構えていた……こんなに雪は広く積もっているのに、町と城を結ぶ進路にわざわざ隠れている必要があるのか?」
疑問は残ったが、真相を確かめる術は今のところない。プロクスは妙なもやもやを感じたまま、もう雪狼に遭遇しないことを祈りつつ、行く先にそびえる城を見据える。城の背後に見える薄暗い空は、まるでこれから待ち受ける困難を示唆しているようにも映った。
そして、雪狼との交戦から更に二十分。あともう少しで城へ辿り着くという所まで来て、遂にプロクスは吹雪に襲われた。視界を遮る雪は鬱陶しく、自分がまっすぐ歩いているのかどうかすらも不安になる。防寒具による対策が功を奏して寒さは恐怖を抱くほどではなかったが、それでも迷えば無事に帰れるかは分からない。プロクスは改めて気を引き締め、進行方向に火の玉を浮かべながら先へと進んだ。
明かりとしては頼りない光だったが、いくつかの火球を一直線に並べれば、大きく進路が逸れることはない。即席の道標を頼りに先へ先へと歩を進めるプロクスは、自分の火を除いて色という色のない視界に、かつて出会った少女の姿を浮かべていた。
「クリスタロス、俺は……もう一度会いたいんだ。会って話がしたい、たとえ君が、人間と敵対する吹雪の魔女だったとしても」
歩けば歩くほど、吹雪は激しさを増していった。まるで城へ近づくのを拒むように、風がプロクスを押し戻そうとする。だがそれでも、彼は足を止めなかった。十五年前に一度会ったきりだが、今でもその姿は忘れていない。ウェーブがかった長く美しい銀色の髪、透き通ったガラスのような水色の瞳、どこまでも続く銀世界を擬人化したような白い肌、全てが鮮明に焼き付いて決して消えはしなかった。
その執念にも似た想いが届いたのか、プロクスの目の前に吹雪の合間から氷の壁が見えた。城である。アステイルの町を出てから実に一時間弱、彼はようやく吹雪の魔女が居るという氷の城へと辿り着いたのだ。
「ここに、クリスタロスが居るのか?」
不安が無い、と言えばそれは嘘になる。もし吹雪の魔女が自分の知るクリスタロスではなかったら、仮にクリスタロスだったとして自分のことを忘れていたら、覚えていた上で敵と見做されてしまったら。彼にとって一番恐ろしいのは、最後の可能性だった。それは十五年前の思い出が彼女自身によって否定される事を意味する最悪のパターンであり、今ここで確かめさえしなければ、認めたくない現実を見ずに永遠の夢を見られる。そんな考えすら、不意に浮かんではプロクスを苦しめた。
しかしプロクスは、真相を確かめることを選んだ。たとえどんな現実を突きつけられても、必ずやクリスタロスに自分の想いを告げると固く決心して。
「入口はどこだ? まさか、無いってことはないよな……いや、ありえるか。吹雪の魔女がクリスタロスだとしたら、彼女は自由に氷を操れる」
城の周囲を壁伝いにぐるりと回り、プロクスは入口と呼べる入口が無いと結論付けた。壁はどこまでも壁であり、どこにも扉は見当たらない。上を見上げれば窓らしきものはいくつか見受けられたが、そこまでのぼる手段もなければ、そんな方法で入るのが正しいとも思えなかった。
「……ここまで来たんだ、諦める訳にはいかない。せめて、入口に相当する場所だけでも分かれば」
この氷が炎で溶ける確証は無かったが、プロクスには入口をこじ開ける方法があるという確信があった。何故なら、アステイルの町には吹雪の魔女と戦う為に結成された討伐隊が存在し、彼らは討伐こそ成し遂げていないが、何度も吹雪の魔女と戦った記録がある。つまり、討伐隊はこの城を襲撃し押し入ることが出来る何らかの手段を持っているのだ。だとすれば、この氷は決して無敵の防御壁などではない。
「しかし、壁を溶かして中に入るとなると面倒だな。それじゃあ吹雪の魔女にとって俺は侵入者だ、穏便に話せるかどうか怪しいぞ。……こっちには、戦う気なんてないのに」
氷の壁に片手を添え、プロクスは呟いた。城の中に入るだけなら難しい問題ではない。だが、吹雪の魔女と対話を図るという目的を果たす為には、なるべく乱暴な手段は使いたくなかった。
躊躇の時間は長かった。ライターを取り出しては仕舞い、入口が本当に無いのかをもう一度改めて確認し、何度も何度も壁に手を触れる。そんな傍から見れば不可解な行動を何度も繰り返し、彼が遂にライターの蓋を開けた、その瞬間だった。
「っ!?」
突如として氷の壁に穴が開き、プロクスは何者かに背後から突き飛ばされ城の中へと放り込まれた。慌てて彼が後ろを振り向くと、壁に開いた穴はあっという間に塞がり始めている。その向こう側では、甲冑のような人影がどろどろと溶けて消えていた。
「閉じ込められた? まさか、吹雪の魔女が……!」
プロクスは周囲を見渡し、城の内部がどこもかしこも氷で出来ている事に驚きつつ、人の気配を探った。かつて彼を守った氷の箱と違い、吹雪の魔女が住まうこの城は肌を刺すほどの冷気が満ちている。吹雪の魔女が敵意を持ってプロクスを誘い入れたのであれば、逃げ場のない現状は非常に危険だった。
「どこだ……クリスタロス」
「ほう、私をその名前で呼ぶか」
静かで、それでいてよく通る澄んだ声。プロクスは声のした方向に顔を、そして体を向けて、彼女の姿を目視した。彼女はウェーブがかった長い銀髪を肩にかけ、透き通ったガラスのような水色の瞳でプロクスの方を見つめながら、エントランスホールから二階へ続く階段をゆっくり下りている。その肌は銀世界を擬人化したかのように白く、さながら夜の湖に浮かぶ薄氷のような青いドレスに包まれ輝いているようにすら見えた。
「良い度胸だ、一人でここに来るとはな」
そう言い放ちながら吹雪の魔女が最後の一段を下り、プロクスと同じ床を踏む。その瞬間。彼女の美貌に見とれていたプロクスは、彼女の背後から流れ込んできた激しい吹雪に押され、勢い良く壁へと叩きつけられた。
「がっ……」
「戦力が削れた状態で半端に隊列を組めば、太刀打ち出来ず一網打尽にされるのが関の山。ならば一人で城に忍び込んで寝首を掻こうという魂胆か。底が浅い、その方法でお前たち人間は何度失敗してきた? 学習しない奴らだ、全く度し難い」
「ま、待ってくれ、俺は討伐隊の人間じゃない! プロクス・ヘリオ、覚えてないか?」
「人間の名前など一々覚えていられるか。討伐隊の人間じゃないだと? もうその手には乗らんさ、人間の騙し討ちにはもううんざりだ。信用するだけ……無駄だ」
吹雪の魔女がプロクスを睨み、手をかざす。それが攻撃の為に行われた動作だと察したプロクスは、咄嗟に真横へと転がり、背後の壁から突き出した螺旋状の棘を躱した。
「ほう、流石は単独でここまで辿り着いただけはある」
「聞いてくれ、クリスタロス。俺は君と戦う為に来たんじゃない! 俺は、ただ――」
「その名前をお前たちが呼ぶなッ!」
叫び声に呼応して、空中に現れる数え切れないほどの氷柱。尖った先端をプロクスの方へ向けたそれらは、吹雪の魔女が片手を振り上げることで一斉に発射された。
「ぐっ……ううぐぁ!」
「私は吹雪の魔女、忌むべき災厄。そう呼び始めたのはお前たちの方だ。ならば私もそう名乗ろう、お前たち人間に私の大切な名前は呼ばせない」
「がはっ、あぁ……!」
魔女の怒りが込められた氷柱の弾幕を受け、プロクスは床をのたうち回る。辛うじて炎で壁を作り先端は溶かしたものの、それでも打ち出された氷のいくつかは勢いを残したまま彼に直撃していた。体に刺さることこそなかったものの、氷の塊が勢い良くぶつかれば打撃としては十分な威力があることに変わりはない。
プロクスは確信していた。吹雪の魔女はクリスタロス、自分の知る彼女と同一人物で間違いない。だがクリスタロスは決定的に何かが変わっていた。かつてプロクスを助けた優しい少女の姿はどこにもなく、目の前には人間を憎悪し敵意を向ける魔女だけが立っている。
「俺は……あの時の礼をしたいんだ。あの日、君に助けてもらわなければ俺は死んでた。恩人なんだ、戦いたくない」
「何を言っている? もう良い、抵抗するほど苦しむぞ。大人しくしていろ、甚振る趣味はない」
軋む体を無理やり起こし、プロクスはクリスタロスを見つめる。彼女は離れた位置からプロクスの方へと視線を向け、どこからか取り出した氷の槍を手に持っていた。
「……クリスタロスっ、俺は」
「地獄へ堕ちろ」
魔女の手から槍が放たれ、正確にプロクスを狙って弧を描く。迫り来る槍の先端に目を釘付けにされながら、プロクスは静かに死を覚悟した。所詮は彼女に救われた命である。彼女に奪われるのなら仕方がないと諦める気持ちさえも僅かにあった。
だが彼は死ななかった。城の壁が突如爆発し、その破片が槍を空中で弾き飛ばしたからである。プロクスがそうしたのではない。この城を目指しアステイルの町から出てきた者は、彼だけではなかったのである。
「この魔法……まさか、ディカイオス! 成程な、この男は囮かッ!」
「おっと、そいつぁ誤解だ。それに、今日はお前と戦ってる余裕なんてねぇよ」
砕け散った氷の破片を踏み越えて、ディカイオスと呼ばれた体格の良い中年の男が二人の間に立ち塞がる。右手には小型魔力炉が内蔵された火炎放射器を持ち、対する左手には何も持っていないものの、冷気に満ちた城の内部で湯気を発するほどに熱を帯びていた。
「今回は討伐隊としてじゃなく、町の英雄としてここに来た。アステイルと関係のない一般人を見殺しにゃ出来ないからな」
「ほう、ならば二人まとめて死んでいけ。但しお前だけは臓物を抉り出し、苦しみの中で死を与えてやるがな!」
「お断りだ」
クリスタロスが行動を起こすより先に、ディカイオスは彼女へ火炎放射器を向けて引き金を引いた。そして熱気に押されたクリスタロスが動きを封じられている隙に、倒れたプロクスを軽々と担いで城の外へと脱出。背後にクリスタロスの怒声を受けながら、彼は左手を背後に向けることで小規模な爆発を起こす。爆風を推進力に変えながら斜面を巧みに滑ることで、ディカイオスはプロクスと共に城を離脱した。
「あ、貴方は……?」
「俺はディカイオス・ロア。アステイルの町で討伐隊の隊長を務めている。アンタには聞きたい事があるが、ともかく今は逃げるのが先だ。掴まってろ、一気に町へ戻るぞ」
「へ?」
プロクスが疑問を口にするより先に、ディカイオスは足元で大きな爆発を起こして空へと飛び上がった。雪山の傾斜も手伝い、二人と地面の距離は一気に離れていく。そして当然、それほど高く浮かび上がった二人に待っているのは重力に従った落下だった。
「これ、死……っ!」
「死なねぇよ、安心しな」
最高点に達したその直後、二人の足元に巨大な魔法陣が青白く浮かび上がり、ディカイオスにしがみついたプロクスは彼と共に魔法陣を通り抜けた。魔法陣を通った先はさっきまで居た筈の雪山ではなく、本棚も暖炉も椅子も机も一通り揃ったどこかの民家。魔法の知識に長けるプロクスは、瞬時にそれがディカイオスの仕業であると尻もちをつきながら理解した。
「これは……空間転送魔法? こんな高度な魔法を、あの一瞬で、どうやって」
「よく知ってるな、アンタ。俺も滅多なことじゃ使わねぇんだけどよ、消耗が激しいからって躊躇していられるほど吹雪の魔女は侮れる相手じゃねえ。まあ、あの発動速度は慣れだな。魔法陣を頭で思い浮かべて展開できるくらいに丸暗記すれば可能な芸当だ」
肩にかかった雪を払い落としながらディカイオスはそう答えて、ひひ、と笑う。ぱっと見ただけでは魔法使いとは思えない男だが、プロクスはその発言一つで彼が熟練の魔法使いであることを見抜いた。
空間転送魔法は、発動した地点と特定の座標を距離や障害物を無視して繋げる高難度魔法である。消費する魔力の量もさることながら、転送先の座標によって魔法陣の細部が変化する為、その図式を厳密に記憶する難易度は尋常ではない。それをこの男は、慣れで片付けてしまうほど簡単にやってのけた。ディカイオスは何気なく言ったが、到底常人の成せる技ではない。
「それより、俺が聞きたいのはアンタのことだ。どうしてあの山を登ってた? 現に見ただろうが、あの山には吹雪の魔女っつー化物が住んでる。この町に住んでる奴ならあの山には誰も近づきたがらないし、見たところアンタは旅の人だろう。何の用があってあんな場所に居たんだ」
「……それは」
プロクスは迷った。ここで正直に自分の目的を告げても、恐らくディカイオスは信じてくれないだろう。そんな思いがあったのだ。ディカイオスは言っていた、自分は討伐隊の隊長を務める男だと。ならば彼に対し、自分は吹雪の魔女に恋心を抱いているなどと、誰が言えるだろう。ましてや今は、プロクス自身が激しく混乱している。想い人の豹変に戸惑う彼に、落ち着いて事情を話す余裕などなかった。
「今は、上手く話せません。まだ、頭の中がぐちゃぐちゃしてて」
「そうか。まあ、それなら無理には聞かないさ。ただ、もうあの山を登るのはやめた方が良い。もしまだ何か用があるって言うなら、次こそ死ぬかもしれないってことだけは覚えておけよ」
「……はい」
「俺はこの町を守るために討伐隊を作った。出来るだけの事はするつもりだが、余所者の面倒までは流石に見きれねぇからな。さあ、アンタの宿はどこだ? 送ってやるよ、アステイルの町は似たような建物ばかりで迷いやすいからな」
語気を和らげて優しく言うディカイオスに、プロクスは大丈夫だと一言告げて立ち上がった。今はとにかく一人になりたかったのだ。感情の整理が追いつかなかった。落ち着いて会話をしているように見える今でさえ、彼はおもむろに叫び出したくて仕方がないのである。こんな形で初恋に敗れるなんてことを、プロクスは認めたくなかった。
「ちょっと待ちな」
立ち去ろうとするプロクスに、ディカイオスは椅子に腰掛けながら声をかけた。どうやらここは彼の自宅らしく、彼に家を出ようとする素振りはない。
「なんですか」
「アンタの名前、聞いてなかった。教えてくれよ」
「プロクス・ヘリオ」
「プロクスか。何か困ったことがあったら気軽に聞いてくれ、この町の事なら大概知ってる」
気さくに笑う彼に礼を言い、プロクスは宿へと戻るべくディカイオスの家を出た。駅前の広場に立てられた時計は午後二時過ぎを指しており、空は雪山で見上げた曇天とは打って変わって太陽が輝いている。ぐちゃぐちゃと乱れきった心中とはまるで違う澄んだ青い空の下、プロクスはぐっと下唇を噛むと、泣き出しそうなのを堪えて歩調を早めた。
まだ心は折れていない。今日はまだ休暇の初日である。時間はまだ十分に残されていた。
「クリスタロスが忘れているっていうなら、思い出させてやる。絶対に……!」
認めたくない現実を突きつけられた。知りたくなかった想い人の変化を見せつけられた。だがそれが逆に、彼の心に火を灯したのだ。十五年前の思い出を今に繋げる為の、決して消えることのない追憶の炎を。




